鶴見良行私論(3)
【網野善彦「海から見る日本」と、鶴見良行「海から見るアジア」】(1)

 社会史研究者の網野善彦(1928-2004)と鶴見良行(1926-1994)は、『ナマコの眼』出版記念(1990年1月)の企画で初めて対談している。対談内容は、雑誌『ちくま』(1990年2月号)に掲載された。網野善彦は、その時の対談内容を自らの著作『歴史と出会う』(洋泉社新書、2000)に再録している。良行の死(1994)から5年後のことで、対談からは10年後のことであった。この対談には網野が読者に伝えたいオリジナルな内容があったということだろう。さらにこの対談は、鶴見良行『対話集 歩きながら考える』(太田出版、2005)に再再録されている。対談から15年後のことである。

『対話集 歩きながら考える』には、網野善彦との2回目の対話「海民の世界から見直す日本文化」が連続して収録されている。この対話は、大林太良(文化人類学者)を含めた三人の鼎談になっている。大林は、『東南アジア大陸諸民族の親族組織』(ぺりかん社、1978)などを著し、アジアと日本を比較する視座があった。大林が司会役となり、網野と良行の踏み込んだ発言を引き出すことに成功している。その結果と思われるが、山本孝司編『網野善彦対談集3 海と日本人』(岩波書店、2015)に再再録されている。初出は、小学館のシリーズ『海と列島文化10海から見た日本文化』の月報10(1992年8月)である。再再録された岩波本には、細かな脚注がつき、論点がわかりやすく明示されている。

 網野善彦と鶴見良行の関わりは、農耕民が海民を差別してきた歴史を踏まえ、その差別はどのように生まれてきたのか?という問題意識にあった。良行は東南アジアを歩き、多くの地域で海民が農耕民から差別を受けているのを見てきた。そうした差別を研究する過程で、網野の社会史研究と出合う。網野は、日本社会史研究のなかで農耕民が海民を差別する日本の社会慣習を文献に照らし合わせて描くことで、多くの著作を発表してきた。この分野では先駆的な日本史研究家であった。

 鶴見良行と網野善彦が互いの著作を知ってから実際に出会うまでには、数年以上の年月が経過している。鶴見良行『海道の社会史』(朝日新聞社、1987)の「むすび」に次のような文章がある。
「私は本書で、国家史にほとんど登場しない土地と住民をとりあげた。日本の社会史にも同じような配慮が感じられる。たとえば、農民にたいして漁民、遊民に眼を配るというような……。こうした視線の新しい動きは、研究者たちが差別反対の叫びに応じたという、ただそれだけのことではない。学が見落としていた怠慢、認識の歪みへの自己批判なのである。」(p.262)

 そこで良行が言及している「日本の社会史」とは、網野によってなされている社会史研究の著作群である。「差別文化の研究は、差別反対の叫びに応じただけの研究ではない」(鶴見良行)という強いコトバを、網野は自身へのメッセージと受け取っていただろう。しかし、『海道の社会史』の本文には、網野の著作からの引用は一点もない。網野社会史の文献を読みこみ、東南アジアの歴史と日本史を比較する記述があらわれるのは、『ナマコの眼』(筑摩書房、1990)からだ。

 綱野善彦(1928-2004)は生涯に37冊の単著を書き、18冊の共著、2冊の編著を書き残している(参照:ウィキペディア、2020/11/14)。著作集全18巻+別巻(2007-2009)は、岩波書店から出ている。岩波書店からは、その後、さらに対談集4冊が出版されている。読者に恵まれた歴史家であったが、歴史学会では異端であり、学会では孤独な存在であった。4冊の対談集のなかに日本中世史研究者は見当たらない。中世史の研究者たちの多くは、網野の論敵であった。古代史の森浩一(1928-2013)とは何度も対談し、共著も数多い。

 既存の学会の研究者たちと歴史家・網野善彦の関係は、良行と学会所属の研究者たちとの関係とも通じるものがあった。二人に共通していたのは、正統派を名乗る研究者たちから激しく批判を受けてきたこと。二人とも従来の研究者が取り扱ってこなかった領域に取り組み、未来の社会のあり方に向けて発信してきた。新しい研究だから批判を受けて当然という気持が本人たちにはあった。

 網野と良行の最初の対談(1990)が収録されている『対話集 歩きながら考える』の巻末に解説を書いているのは、花崎皋平(哲学者)である。
 花崎皋平(1931-)は、北海道札幌市に暮らしてきた。良行の『ナマコの眼』の取材では北海道への3回の旅行に花崎はサポートしている。良行との最初の出会いは、1960年代の米軍脱走兵支援運動(ベトナムに平和を!市民連合、略称「ベ平連」)である。その後、「1年に1回か2回、あなたをお訪ねして歓談するのが、人生の愉楽のひとつでありました」と花崎は良行への追悼文に書いている(『みすず』407「追悼・鶴見良行」みすず書房、1995年2月号)。

 脱走兵支援運動については、北海道大学の教員だった花崎は、多くを語っていない。のちに北大全共闘学生被告裁判の特別弁護人となった結果、花崎は1971年に大学教員を辞している。そして、北大の近くのコピー屋の主人として生活してきた。その生活の中でも哲学研究から離れなかった。『生きる場の哲学─共感からの出発─』(岩波新書,1981)などを書いている。本書は、1979年3月から6月までの香港、日本、フィリピン、タイ、マレーシア6カ国への旅の記録が基になっている。各国の若い活動家たちとの交流から生まれた本である。この本は、良行の『マラッカ物語』と同じ年の出版だ。花崎の本は、もうひとつの「歩きながら考える」と名づけてもよいアジア学の書籍である。

『対話集 歩きながら考える』の花崎皋平の解説は、「無所有へのまなざし」と題されている。
「現場に立って、海を囲い込む養殖漁業についてしらべるなかで、海は所有権という考え方になじまないという考え方に達したからではないでしょうか」(p.516)
 良行の「無所有へのまなざし」こそが、鶴見アジア学の到達点だった。花崎がそう言っているように読める。

 花崎は、網野の次の発言を引用したあとに解説を終えている。
(網野)「海の交流は、あっと驚くようなことが、わかりつつあるわけで、海民と海の文化の研究をもっと意識的にやれるような体制が学会のなかにできたら、まだまだ発見できることがたくさんあると思います。(花崎による中略)今後は、ほんとうに海の問題を考える研究者が、中国、朝鮮はもちろん、より広く国際的なつながりをつくっていくことが必要になるのではないかと思います」(p.518)

 上記の網野の発言にこの『対話集』の内容が短くまとめられている。花崎の解説の後半部では、良行の発言よりも網野の発言の引用が多い。中でも花崎が、「さすが網野さん! と諸手を挙げて呼応したい発言です」(P.517)と書いて引用している箇所がある。次の発言である。

「『所有』という観念は歴史的に否応なしに出てくるものだし、人間の本質に関わりがあるから、それ自体を潰そうとしてもどうしようもないのですが、それとは別に無所有の思想も人間の本質につながるものとして社会の中に存在しているし、いまでも生きている。それをもう一度自覚的に掘り出さないと、たぶん人間は滅びてしまうんじゃないかという気がします」(本文p.412、解説p.517)
 この発言で網野は良行の仕事を歴史理論のなかに位置づけている。世界史のなかに良行の著作を位置づけているのである。

対話集 歩きながら考える(鶴見良行)


海道の社会史(鶴見良行)
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■庄野護(しょうの・まもる)
1950年徳島生まれ。中央大学中退。学生時代よりアジア各地への放浪と定住を繰り返す。1980年代前半よりバングラデシュやネパールでNGO活動に従事。1989年から96年までODA、NGOボランティアとしてスリランカの都市開発事業に関わる。帰国後、四国学院大学非常勤講師を経て、日本福祉大学大学院博士課程単位取得。パプアニューギニア、ケニアでのJICA専門家を経て、ラオス国立大学教授として現地に2年間赴任。『スリランカ学の冒険』(初版)で第13回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞を受賞。『国際協力のフィールドワーク』(南船北馬舎)所収の論文「住民参加のスラム開発スリランカのケーススタディ」で財団法人国際協力推進協会の第19回国際協力学術奨励論文一席に入選。ほか著作として『パプアニューギニア断章』(南船北馬舎)、共著に『学び・未来・NGO NGOに携わるとは何か』(新評論)など。