鶴見良行私論(11)
【フィリピンを舞台に──良行と、津田守、鈴木静夫、そしてレナト・コンスタンティーノ】

 1970年、鶴見良行はフィリピンの歴史哲学者レナト・コンスタンティーノの著作を知った。
 その著作群を学びはじめたが、実際に対面で知り合うのは4年後のことである。鶴見良行編著『アジアからの直言』(講談社現代新書、1974)には、コンスタンティーノによる「いまや小アメリカ人」という小論が収録されている(p.55-60)。良行の翻訳である。70年代前半の石油危機で露呈した日本経済の危機について述べられている。タイトルの「小アメリカ人」、本文で述べられている「アジア人ではないアジア人」とは、日本人のことである。日本国内で抗議を受けている公害を東南アジアに輸出しようとしている日本人はアジア人ではありえない、と指摘する。
 のちに出版されたレナト・コンスタンティーノの本格的なフィリピン論『フィリピン・ナショナリズム論(上・下)』(文化事業社刊、勁草書房発売、1977)も良行の監訳である。

 最初のコンスタンティーノとの出会いについて、良行は次のように書いている。
「かれの名を最初に聞いたのは七〇年四月、今でもはっきり覚えているが、マニラ湾に面したホテルの一室だった。活動家のCに、私はこの国のヴェトナム反戦運動についてたずねていた。ひとしきり会話がはずんだ後、私はたずねた。
『君たち若い人たちが今一番読んでいるのはだれ。詩、小説、評論、何でもいいけど』 そのときかれがテーブルの上の紙ナプキンに書いてくれたのが、コンスタンティーノの名だった。六年後の今日もCの筆跡がよみがえる。戒厳令後、Cは消息を断った。」(「なぜフィリピンはフィリピンであるのか」『アジア人と日本人』所収、p.182-183、晶文社、1980)

 その後、良行がレナト・コンスタンティーノの著作の読解に費やした時間は、膨大であった。英語の原著を詳しく読んで学んだ。その作業を経て、1970年代後半に良行はアジア学者として日本社会に再登場する。『反権力の思想と行動』(盛田書店、1970)で政治哲学者と見なされていた良行が「アジア学」の著作、論文を次々と世に問うようになる。

 良行は、哲学者バートランド・ラッセルや社会学者デビッド・リースマンの著作を翻訳したことがある。『バートランド・ラッセル著作集(1、2)』(みすず書房、1960)、およびリースマン夫妻『日本日記』(みすず書房、1969)などである。それら世界的な哲学者や社会学者の著作に接したときも、フィリピン人歴史哲学者レナト・コンスタンティーノに出会ったときのような感銘や影響は受けていない。社会学者リースマンとは、3カ月の日本滞在中につきっきりで世話係をつとめている。だが、良行のリースマンに対する態度は冷静で落ち着いたものだった。その態度は、訳文や訳者「あとがき」からも伺える。ラッセルの著作、リースマンの著作ともに翻訳は共訳であるが、中心となって作業しているのは良行である。
 こうした欧米の知識人たちと良行のつきあいを、いとこの鶴見俊輔が次のように書いている。
「良行は、国際文化会館の職業柄、海外の学者を日本に呼ぶことを本務(それによって飯を食う仕事)としていたわけだが、たとえばトインビーの案内役をつとめながら、しかもそのひとがらに好意をいだきながら、トインビーのスタイルにひきこまれることがなかったのは、彼の思索にヴェトナム戦争のおもりがしっかりついていたからだ。素朴であり、野生のあるものの側に立つ姿勢を、この時代に手ばなさず、やがてフィリピンのコンスタンティーノのような、第三世界の側から世界を見る見方を自分のものとしていた。」(鶴見俊輔の解説「この道」、『鶴見良行著作集1「出発」』p.296、みすず書房、1999。再録は、鶴見俊輔の悼辞「鶴見良行 東南アジア学者 いとこ 1926−94 この道」鶴見俊輔『悼辞』p384、編集グループSURE2008)

 良行は、レナト・コンスタンティーノの著作に多くの時間を費やしたが、直接の対話は、そう多くなかった。わずかの回数と時間であったと思われる。コンスタンティーノと多くの時間を共にしたのは、鈴木静夫であった。

 鈴木静夫がレナト・コンスタンティーノと現地で出会うのは、新聞記者時代の1976年頃である。津田守教授(名古屋外国語大学)の紹介であった。当時(1970年代後半)、津田はフィリピン大学大学院修士課程を修了し、講師としてフィリピン大学の教壇に立ちながら研究していた。日系企業のフィリピン進出が研究分野であった。津田(1948-)は、良行が主催する「アジア勉強会」(1971−1975)の最初のメンバーの一人である。「アジア勉強会」を経てのフィリピン大学大学院留学であった。
『アジアを知るために』(1981)の「あとがき」に、次のような文章がある。
「感謝しなければならないのは、関心を共有してくれたT君(筆者注・津田守)がマニラにあって、私の調査項目表によって新聞、雑誌類の切抜きを作製してくれていたことだ。年に二、三回ほどフィリピンに出かけ、その帰途は、リュック一杯にもなる資料を、いかに超過料金を払わずに飛行機に乗せるか苦心した。」(鶴見良行『アジアを知るために』p.233、筑摩書房、1981)

 1970年代後半、日本の「アジア学」がまだ若かった頃、鈴木静夫と鶴見良行はフィリピンに通って新しい研究に挑もうとしていた。そして、彼ら二人にとって津田守は共通の友人であり研究支援者であった。そして、もう一人の共通の友人がフィリピンの歴史哲学者レナト・コンスタンティーノであった。

 津田の紹介でレナト・コンスタンティーノらを知った鈴木は、その後20年にわたってフィリピンに通い、議論と取材を重ねている。そして、8年がかりで書いたのが、『物語フィリピンの歴史「盗まれた楽園」と抵抗の500年』(中公新書、1997)である。
 副題に「『盗まれた楽園』と抵抗の500年」とあるように、本書は16世紀以降のフィリピン史を、欧米からの侵略に抵抗し続けた500年の歴史として描いている。フィリピン史を「抵抗の500年」とする考え方は、ホセ・マリア・シソン(元新人民軍指導者)の「抵抗の500年運動」(鈴木1997、P260)と共通する歴史の捉え方である。
 本書執筆に当たって鈴木は、元新聞記者の行動力を生かし、数多くの歴史体験者を取材して回っている。取材対象者への紹介やお膳立てに協力した人物の一人が、レナト・コンスタンティーノであった(鈴木、1997「おわりに」)。
「私のフィリピンとの最初の接触は、フクバラハップ・ゲリラの聞き取り調査から始まった。その世話を焼いて下さったのがほかならぬコンスタンティーノ氏であり、その後は現代史全般にわたって懇切な指導を賜った。」(鈴木1997、p.296)とある。

 レナト・コンスタンティーノ(1919−1999)は、フィリピン大学法学部を経てニューヨーク大学大学院に学んでいる。第二次世界大戦後、在米新聞コラムニスト、国連本部での外務省顧問を経て、フィリピン大学教員となった。日本の津田塾大学での客員教授をつとめたこともある。コンスタンティーノは、21世紀の日本でもまだ忘れられていない。そのことは、2015年に発刊された著作『日の丸が島々を席巻した日々 フィリピン人の記憶と省察』(水藤眞樹太訳、柘植書房新社、2015)の出版からも伺える。
 日本に紹介されているレナト・コンスタンティーノの著作として、前出の鶴見良行監訳『フィリピン・ナショナリズム論(上・下)』(勁草書房、1977)、池端雪浦ほか訳『フィリピン民衆の歴史(全4冊)』(勁草書房、1978)、津田守訳『第二の侵略 東南アジアから見た日本』(全生社、1990)などがある。編著作品としては、津田守ほか訳『日本の役割 東南アジア6カ国からの直言』(ひすく社、1992)などもある。なお、詳細な文献リストとして、津田守「日本でのコンスタンティーノ関係出版リスト」(雑誌「みずず」p15〜20、1999年12月号掲載)がある。

 現在のフィリピン大統領、ロドリゴ・ドテルテ氏(1945-)はレナト・コンスタンティーノの弟子を自認している。フィリピン共産党(新人民軍)の創設者ジョマ・シソン(ホセ・マリア・シソン)は、ドテルテ大統領の大学の恩師だとされており、互いに敬愛してきた関係にあるという。それらのことは、今後のレナト・コンスタンティーノの評価に影響を与えるかもしれない。コンスタンティーノは非暴力主義者である。いっぽうドテルテ大統領は時には暴力を辞さない政治家でもある。しかし貧者の味方を公言する大統領の人気は高い。

 さて、1970年の鶴見良行とレナト・コンスタンティーノの著作との出会いがあって、その数年後の70年代後半から、鈴木静夫はフィリピンに通うようになった。そしてフィリピンに20年かけて通い、コンスタンティーノから直接支援を受けて、『物語フィリピンの歴史』を書き上げた。鈴木と良行の20年を超える交流は、戦後日本で生まれた新しい「アジア学」の誕生の物語でもあった

物語フィリピンの歴史
『物語フィリピンの歴史』
鈴木静夫著
中公新書・1997年
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■庄野護(しょうの・まもる)
1950年徳島生まれ。中央大学中退。学生時代よりアジア各地への放浪と定住を繰り返す。1980年代前半よりバングラデシュやネパールでNGO活動に従事。1989年から96年までODA、NGOボランティアとしてスリランカの都市開発事業に関わる。帰国後、四国学院大学非常勤講師を経て、日本福祉大学大学院博士課程単位取得。パプアニューギニア、ケニアでのJICA専門家を経て、ラオス国立大学教授として現地に2年間赴任。『スリランカ学の冒険』(初版)で第13回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞を受賞。『国際協力のフィールドワーク』(南船北馬舎)所収の論文「住民参加のスラム開発スリランカのケーススタディ」で財団法人国際協力推進協会の第19回国際協力学術奨励論文一席に入選。ほか著作として『パプアニューギニア断章』(南船北馬舎)、共著に『学び・未来・NGO NGOに携わるとは何か』(新評論)など。