鶴見良行私論(3)
【矢野暢と鶴見良行(2)アメリカの東南アジア学を超えて】

 矢野暢と鶴見良行の共通する点は、ひとつに、ともにアメリカ留学を経験していないということだ。良行は、ハーバード大学インターナショナル・セミナー参加という短期留学(1965年)は経験している。ふたりとも望めばアメリカ留学できる社会的位置にいた。英語力などの資格能力は充分に備えていた。良行は、1954年にハーバード大学文化人類学教授ウィリアム・コーデルの助手として約1年間在日米軍基地調査に従事している。その人間関係を生かせば、アメリカ留学はそう困難な道ではなかっただろう。国際文化会館に就職するのは、1955年である。留学か就職かに悩んだかもしれない。すでに結婚していたので、家庭の事情もあったかもしれない。これらは憶測である。矢野と良行が、アメリカ留学に動かなかった共通の理由は、研究室を共にできるような指導教員に巡りあわなかったからだろう。
 ふたつめの共通点は、民俗学者・宮本常一への評価である。鶴見良行は、すでに故人であった宮本常一を学問的な師と仰ぎ、「歩く・見る・聞く」をアジア学の方法とした。「歩く・見る・聞く」は、宮本が所長をつとめていた日本観光文化研究所が発刊していた雑誌『あるくみるきく』の標題でもあった。この雑誌に、良行は複数回以上、寄稿者として名を連ねた。矢野暢による宮本の評価は、「学者というよりは大変な専門家」という発言を残している(矢野暢編著『東南アジア学への招待(下)p.221、NHKブックス、1983)。
 矢野暢は「編著(上)1983」のなかで複数回以上、「実学としてのアメリカの東南アジア学の実用性のなさ」について言及している。1950年代から60年代にかけて、アメリカは5000人以上の研究者をアジアに送り込んで情報収集をした。その情報蓄積は、東南アジアにおけるアメリカの優位を保障すると思われていた。しかし、朝鮮戦争には勝利できず、ベトナム戦争は泥沼化し、最後には軍事的にも敗北した。戦争に勝つためのアメリカのアジア学は、勝利に結びつかなかった。
 1960年代にタイ南部の回教徒の村に2年間滞在した矢野暢は、同時期に散在していたアメリカ人研究者たちと数多く出会ったことだろう。彼らアメリカの研究者たちを超える東南アジア研究とはどんなものか? そのことについて矢野は考え続けていただろう。アジアでの戦争を勝利に導くはずだったアメリカのアジア学は、失敗をかさねていたのである。
 その原因のひとつに、第二次世界大戦での対日戦争の勝利体験があった。第二次世界大戦時、アメリカのアジア学としての日本研究は、ルース・ベネディクト(1987-1948)『菊と刀』(The Chrysanthemum and the Sword)などの研究成果を生み出して、対日戦のアメリカの勝利に貢献した。この成功体験が、戦後アメリカのアジア学を自壊に導いたといえる。
『菊と刀』(光文社、古典新訳文庫2008など)の訳書が終戦直後の日本社会で発刊されたとき、日本人読者たちは『菊と刀』に代表されるようなアメリカの日本研究によって戦争は負けたのだと知った。そこには、日本人が意識してこなかった美や恥や調和といった日本人の精神構造が分かりやすく分析されていた。こうした日本人研究は、第二次世界大戦時の日本人捕虜との接し方に効力を発揮した。米軍の日本人捕虜にたいする適切な接し方によって、日本人捕虜は米軍に積極的に協力するようになったのだ。
 当時のアメリカの日本研究は、戦争を勝利に導いただけでなく、日本社会の民主化計画の立案にも役立った。日本のどのような社会組織をどのように変革していくか? その政策としての日本の民主化計画案は、第二次世界大戦が終結するまでに出来上がっていた。そして、この、アメリカの日本での占領政策は、十分に機能した。この体験が、アメリカの成功体験としてアジア学に過剰な自信を持たせた。そして、その延長に朝鮮戦争とベトナム戦争に立ち向かった。しかし、対日戦で機能したアメリカのアジア学は、その後のアジアでの戦争で有効には機能しなかった。アメリカのアジア学は、1975年のサイゴン(現在のホーチミン市)陥落をもって自壊したのだった。もともと戦争に奉仕するための学問だったことにも問題があった。
 1960年代前半に南タイの回教徒村に2年間住み込んだ矢野暢は、アメリカのアジア研究の蓄積が「嘘の興隆」(矢野暢『東南アジア世界の構図』P.11、NHKブックス、1984)であることを見抜いた。アメリカがアジア学の失敗を招いた要因について、矢野は地域研究を例にあげて述べている。
「『地域』という観念に迫るとき、上、つまり国際関係とか国家とかから攻めるやり方をとり、下、つまり村とか集落とかからはじめることをしなかった。」(矢野暢1984、P.11)
 こうした認識に基づいて、矢野は「下からのアジア学」を構想するようになる。そして、南タイの農村で実践を重ねた。矢野の南タイでの調査研究が戦後日本の東南アジア学の再スタートを導いた。1960年代前半のことであった。
 いっぽう、矢野暢に遅れて、良行は自らのアジア学をスタートさせている。ベトナム戦争の時代にアジアを学び始めるが、アジア学を意識しはじめるのは、1970年を過ぎたあたりからである。70年代、良行はアメリカの東南アジア学に親しみを感じなかった。アメリカ研究者のなかに師匠を見いだせず、独自の道を歩みはじめる。そして、50歳を越えてからフィリピンの思想家レナト・コンスタンチーノ(1919−1999)を知る。コンスタンチーノの次の2つの問いに、刺激を受けて考え始める。
「なぜフィリピンはベトナムのようでないのか、となぜフィリピンは日本のようでないのか、である。 後者は順を替えて、なぜ日本はフィリピンのようでないのか、と考えてもよい。」(『アジア人と日本人』(1980)p.183)
 鶴見良行は1970年にマニラで反体制活動家の学生からレナト・コンスタンチーノの名前を知り、評論集と出会う。その後、数年以上をかけて本格的にこのフィリピンの思想家、歴史家の業績に取り組む。結果、生まれたのが井村文化事業社刊(勁草書房発売)のフィリピン叢書(フィリピン書の翻訳とフィリピン研究書)の書籍群である。日本の出版社が、アジアの知識人の著作を数多くまとめて翻訳・紹介することは、日本近代史で最初の出来事だった。その意味を理解したひとりが矢野暢である。矢野は、『「南進」の系譜』(中公新書、1975)と『日本の南洋史観』(中公新書、1979)を通じて、日本社会でのアジアに関する言説について、細部まで検討した。そして、戦前までの日本の知識人が、アジアについて具体像を何も知らないままに勝手な持論をたててきたことを証明して見せた。だから、アジアの知識人の業績を知ることの意味を誰よりも理解したと思う。フィリピン書の翻訳紹介(1977−)からはじまった出版事業の企画者のひとりが鶴見良行であった。企画の中心にいたといえる。
 鶴見良行が日本に紹介したフィリピンの思想家、レナト・コンスタンチーノの言葉を引用した論文「『文化的共鳴』の理論」(『東南アジア世界の論理』所収、中央公論社、1980)を矢野暢は書いている。1979年、東京での先進国首脳会議(東京サミット)で、日本がやたらと「アジアで最初のサミット」を強調しようとしたとき、レナト・コンスタンチーノ教授は「アジアで最初はまちがいで、『日本で開かれる最初』というべきだ。なぜなら、日本は文化的、経済的にアジアの一部ではないからだ」と毎日新聞での談話で語った(毎日新聞、1979年6月2日付朝刊)。 これは、レナト・コンスタンチーノを挟んでの矢野暢と鶴見良行の間接的な対話でもあった。
 なお、矢野の論文「『文化的共鳴』の理論」には、現存の社会主義がなぜ反民主主義に向かうのかを理論化した論考が含まれる。ソビエト崩壊(1991年)の10年以上前に書かれたことを、早すぎた論文発表であったかもしれない。また、革命後のカンボジアで100万人を越える虐殺がなされたことも政治学的に明晰に分析されている。重要論文だが、最後を「新『脱亜論』」(矢野暢自身のことば)として締めくくったことで、読者の支持を得られなかった。時代は、東南アジアに共通する意識であった反日から「ルック・イースト」(日本に学べ)に移ろうとしていた。

菊と刀
現代教養文庫版(社会思想社)
6

■庄野護(しょうの・まもる)
1950年徳島生まれ。中央大学中退。学生時代よりアジア各地への放浪と定住を繰り返す。1980年代前半よりバングラデシュやネパールでNGO活動に従事。1989年から96年までODA、NGOボランティアとしてスリランカの都市開発事業に関わる。帰国後、四国学院大学非常勤講師を経て、日本福祉大学大学院博士課程単位取得。パプアニューギニア、ケニアでのJICA専門家を経て、ラオス国立大学教授として現地に2年間赴任。『スリランカ学の冒険』で第13回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞を受賞(初版)。『国際協力のフィールドワーク』(南船北馬舎)所収の論文「住民参加のスラム開発スリランカのケーススタディ」で財団法人国際協力推進協会の第19回国際協力学術奨励論文一席に入選。ほか著作として『パプアニューギニア断章』(南船北馬舎)、共著に『学び・未来・NGO NGOに携わるとは何か』(新評論)など。