鶴見良行私論(3)
 【国際文化会館(松本重治・岡本珠代)と良行】

 1973年に国際文化会館を退職した鶴見良行を嘱託として残留させ、86年まで在籍させたのは理事長の松本重治(1899-1989)である。松本重治は、『上海時代 ジャーナリストの回想』全3巻(中公新書・1974-75) などで知られる。日本のジャーナリスト業界の重鎮であった。国際文化会館の理事長のかたわら長年、アメリカ学会の会長も兼任していた。戦前・戦中は同盟通信社の記者、編集局長、常務理事として活躍した。戦後、いちどは公職追放になったが、社会的存在感を失わなかった。松本重治のリベラルな考え方は、戦後も日本社会を生き延びることを可能とさせた。GHQなど戦後日本を一時「支配」したアメリカ政府も民主主義国日本に必要な人材として松本重治を認めた。

 東京・港区六本木にあった国際文化会館は、宿泊施設をそなえ、いわば高級ホテルでもあった。アメリカ中央情報局(CIA)の職員や家族も利用してきた施設である。日本にあってアメリカ文化がそのままに存在するような場所でもある。戦後、この国際文化会館の運営に一生を捧げた松本重治は、「宿屋のオヤジ」を自称した。国際文化会館をホテルと思っている利用者も少なくない。松本重治の下で、鶴見良行はホテルの受付業務もこなしている。いっぽうで良行が国際文化会館で熱心に取り組んできた仕事は、アジアの文化人との交流事業である。スリランカやタイ、フィリピンの名だたる知識人は、良行らの選択と招請で日本を訪れている。スリランカから作家のエディリヴィーラ・サラッチャンドラが初来日したときも、タイを代表する知識人スラク・シバラクサが初来日したのも、国際文化会館の交流プログラムに拠っている。そうした交流プログラムでは、最初に良行が現地に行き、本人と面談して詳しい説明をしてきた。こうしたアジアとの人的交流事業は、日本とアジアの関係が深いところで変化していくことに静かな影響を与え続けてきた。この「アジア人と日本人の対話」は、国際文化会館の鶴見良行らの主要な仕事のひとつであった。その仕事が継続できたからこそ、良行は理事を辞めたあとも嘱託職員として国際文化会館に留まることができた。

 1960年代に松本重治が、鶴見良行を自身の後釜として国際文化会館理事長にと考えていたという話は知られている。1986年に良行が嘱託職員を辞めたあとの3年後、89年に松本は89歳で亡くなっている。松本は、死の直前まで良行の援助者であった。なぜか? そこには語られない事情があるように思われる。かすかに見えるのは、松本重治と良行の父・鶴見憲との関係。もう一点は、良行の配偶者・鶴見千代子と松本重治の親族関係の重なりである。ここでは、これ以上の詮索はしない。どのようなコネがあったとしても、松本重治が能力を認め信頼した人物として鶴見良行がいたということである。

 国際文化会館で鶴見良行の同僚として働いていたのが岡本珠代(2019年没)である。お茶の水大学哲学科を卒業後、国際文化会館に就職している。良行と同僚だった期間は1962年から68年の6年間と長くはない。だが、ベトナム戦争が拡大した時期と重なる。当時、良行はべ平連(市民団体:ベトナムに平和を!市民連合)の活動家でもあった。反戦市民活動に多忙を極めながら、国際文化会館の業務をこなしていた時期だ。岡本珠代は一時、国際文化会館を休職し、フルブライト留学生となって米国オハイオ州デイトン大学哲学科に留学している。オハイオ州の大学院で、修士学位を取得して帰国。復職を果たしている。

 在職留学は、良行らの配慮があってのことだろう。岡本珠代と良行が共にした仕事は、アジアの知識人との交流事業や東南アジアについての情報を分かりやすく伝える活動などである。その活動の成果は、鶴見良行編著『アジアからの直言』(講談社現代新書・1974)となっている。岡本が国際文化会館を退職してから5年後の出版物であるが、10年以上にわたるアジア知識人との交流プログラムの成果でもある。

 国際文化会館を退職した岡本珠代は、平和学研究者・岡本三夫(1933-2019・広島修道大学名誉教授)と結婚し、香川県善通寺市に移り住んでいる。岡本三夫は平和学をヨーロッパから日本に紹介した研究者のひとりである。岡本三夫が2019年に亡くなったとき、読売新聞はカラーの顔写真を掲載して追悼した。その報道の仕方には、平和学の伝道師として生きた岡本三夫への特別な配慮があった。この岡本三夫と反戦平和運動に積極的であった良行とは、活動の社会領域や人脈が重なっている。

 四国・香川県に転居してからの岡本珠代と東京の良行は、平和学やアジア学を通じての関係が継続していた。1973年の日本平和学会創設期には、学会のあり方をめぐって岡本三夫と鶴見良行は議論したと思われる。良行の目指したものは、市民による社会運動としての平和学であった。研究者たちが前面に出て運営していく日本平和学会のあり方に、良行は不満を持っていたのだろう。初期の頃をのぞいて、良行は平和学会の会合に参加していない。

 岡本珠代は香川県善通寺市に住んでいる頃(1970年代後半)、バイオエシックス(生命倫理学)という新しい学問と出会う。そして、再度のアメリカ留学を決意する。複数年にわたる準備を経て奨学金を取得し、82年にミシガン州立大学哲学科博士課程に留学した。
 この決断は、『マラッカ物語』(1981)の出版が後押ししている。そう私には感じられる。アジア学という新しい学問を開拓する良行の姿は、バイオエシックス(生命倫理学)という新しい学問に挑もうとする岡本珠代に刺激を与えただろう。二人は、互いに尊敬しあうライバルでもあった。

 岡本珠代が米国で生命倫理学の博士号を取得して日本に帰国するのは1990年である。学位取得までに8年を要している。その理由は、二人の子供を連れての留学であったからだ。留学時、長男は中学生で長女は小学生であった。下の子どもがアメリカの大学に入学するまでという期限が設定されていたのだ。子どもの成長に合わせて留学生活を調整している。アメリカで大学講師を兼任しながら、子ども二人の成長と教育を見守る必要があった。

 留学前、岡本珠代は香川県善通寺市で主婦でもあったが、四国学院大学の助教授として倫理学や日本思想史の講義を担当していた。住居は大学敷地内の教員宿舎である。私は1983年4月から2年足らずの期間、善通寺市に住み、四国学院大学図書館に通ったことがある。鶴見良行『反権力の思想と行動』(盛田書店・1970)の書籍の位置には、「岡本珠代研究室 貸出」のマークが掲げられていた。哲学者・鶴見良行の著作を継続して学んでいた岡本珠代を想像させた。鶴見良行の著作には、ハワード・ジンなどアメリカ哲学者との考え方との比較が随所にみられる。哲学研究者であった岡本珠代には、良行がハワード・ジンに引き寄せられた理由が分かっていただろう。

 日本の生命倫理学の先駆者として、岡本珠代は学問の歴史に残る。アメリカの大学で最初にバイオエシックス〈生命倫理学〉の博士号を取得した日本人研究者は、岡本珠代であるからだ。博士論文のテーマは、『民主主義とインフォームド・コンセント』(英文/ミシガン州立大学・1990)。「医療の民主主義」「命の民主主義」が研究テーマであった。
『民主主義とインフォームド・コンセント』と鶴見良行『反権力の思想と行動』(盛田書店・1970)の内容には、少なからずの関連がある。『反権力の思想と行動』は、三部構成で、第一部「アメリカ論」、第二部「反戦論」、第三部「時論」である。論じられているのは「アメリカ民主主義の虚構」「日本の民主主義の虚構」である。虚構を排し、どのように民主主義を実体化するかを論じることに良行のエネルギーが注がれている。岡本珠代が1982年にアメリカに渡ったあとも、『反権力の思想と行動』は四国学院大学図書館に返却されずに「岡本珠代研究室 貸出」の掲示のままであった。民主主義と医療の関係を研究テーマにした岡本珠代は、良行の著作をアメリカミシガン州にまで持っていったのではないか? これは、私の想像である。

 1990年代の日本でインフォームド・コンセントが社会的議論になったとき、岡本珠代は多くを語らなかった。日本社会とアメリカ社会の生命倫理学の社会的機能の違いを知る岡本珠代には、日本社会に向けて言うべき言葉が見つからなかったのかもしれない。社会に向かって発言するよりも学生に向かって語ることを岡本珠代は、選んだ。その成果として、編著『医療・保健専門職の倫理テキスト 悩める医療スタッフと学生のための事例集』(医療科学社・2000)などが残されている。その書籍は、私が香川県の看護学校で「生命倫理」を担当する現在、事例研究のグループワークに使用してきた。その看護学校は、岡本珠代が四国に戻っていれば、「生命倫理」の講義を担当していたかもしれない学校であった。



アジアからの直言

■庄野護(しょうの・まもる)
1950年徳島生まれ。中央大学中退。学生時代よりアジア各地への放浪と定住を繰り返す。1980年代前半よりバングラデシュやネパールでNGO活動に従事。1989年から96年までODA、NGOボランティアとしてスリランカの都市開発事業に関わる。帰国後、四国学院大学非常勤講師を経て、日本福祉大学大学院博士課程単位取得。パプアニューギニア、ケニアでのJICA専門家を経て、ラオス国立大学教授として現地に2年間赴任。『スリランカ学の冒険』で第13回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞を受賞(初版)。『国際協力のフィールドワーク』(南船北馬舎)所収の論文「住民参加のスラム開発スリランカのケーススタディ」で財団法人国際協力推進協会の第19回国際協力学術奨励論文一席に入選。ほか著作として『パプアニューギニア断章』(南船北馬舎)、共著に『学び・未来・NGO NGOに携わるとは何か』(新評論)など。