鶴見良行私論(11)
【最後の旅(2)──ココス島】

『ココス島奇譚』第2章「二人の領主」の領主二人とは、1826年ココス島に最初に移り住んだ英国人のアレキサンダー・ヘアと、彼の部下であったスコットランド生まれのロス1世のことである。移住後から1831年までの領主がアレキサンダー・ヘア。1927-54年まで領主をつとめたのがジョン・クルーニーズ=ロス、初代ロス家領主である。ロス家の領主は5世まで続き、1978年までココス島はロス家の統治下にあった。第二次世界大戦後も個人領主がひとつの島を統治するという変則な歴史が続いていたのだ。それを改めるためオーストラリア政府は、領主制度を廃止し、オーストラリア領とした。その過程で当事者たちの争いが裁判となった。

 アレキサンダー・ヘアとそれに続く、ロス家5代の領主の名前、生年と死亡年、統治期間などについては、本書『ココス島奇譚』(P.52)に一覧にして掲載されている。ロス2世、ロス5世がロンドン生まれであることが注目される。教育や出産でロス家はココス島とイギリスを行ったり来たりしていたようだ。その不思議な白人領主国家の成立を物語っているのが、第3章「変心」である。最初の領主ヘアの「変心」がロス家の統治を生み、領主制度を存続させることになった。ヘア一家が去り、部下だったロス一家が領主となった。

 ここで改めて『ココス島奇譚』の5節の構成をふりかえっておきたい。
 1節「出逢い」
 2節「二人の領主」
 3節「変心」
 4節「ココヤシ経済、その苦楽」
 5節「バンテンの苦力」

 ロス王朝の最盛期とされる1900年をはさんだロス3世の時代でさえ、ヤシ油の生産は年間100トンに満たない生産量であった。年間1000トンを目標にしていたとはいえ、小規模プランテーションの域を出なかった。1901年の人口は638人。1000人にも満たない。そんな小規模社会にもかかわらず、身分制社会を形成し、ココス島民としてのアイデンティティが形成されたというのである。ココス島民のアイデンティティの形成と身分制社会の成立は、どのように関係しているか? その背景については、第4節「ココヤシ経済、その苦楽」で説明されている。

 もともと無人島であったココス島に先住民はいなかった。住民はすべて1826年以後の渡来者である。シンガポール島を開発した英国人ラッフルズの友人でもあったロンドン生まれのアレキサンダー・ヘアによって移住地とされ、ココヤシ収入だけで島社会を維持してきた。島民の大半は、マレー系のオラン・ラウト(海民)の出身で寄せ集められた半奴隷のココヤシ農民労働者である。彼らは、ココヤシ農園で働きながら、小さな小船を操り魚など採って生活を維持した。農園での労働に賃金は支払われたが、生活に必要な衣服を含めた必需品は農園主の売店から購入する仕組みだった。「トラックシステム」という。
 生活必需品を雇用者の売店から前借して受け取り、その代金を賃金から差し引く制度である。雇われたものたちは、無意識な浪費を重ねることで、賃金は支払われず、借金を増やした。この「トラックシステム」は、日本の明治時代の炭鉱労働者たちや娼家で働く娼婦たちと、雇用者とのあいだにも見られた。最終的に奴隷労働から抜け出せなくなるこの仕組みは、20世紀半ばまで世界中に存在した。マレー半島のスズ鉱山でも同様であった。スズ鉱山は、スズの生産からではなく、併設したアヘン窟での「トラックシステム」で儲けたともいわれる。

 ココス島は絶海の孤島にありながら、世界経済のシステムを導入して社会を形成してきた。
「プランテーション社会では経済と社会組織が一体だった。ロス家ではその1世の時代、長男がジャワ女性と結婚した。息子ロバートはバタビアに住んで、その国籍を得た。ロバートの嫁はまもなくキリスト教に転宗した。その後、現代までロス一族にはずいぶんとココスの血が混じっている」(『ココス島奇譚』p.81)
 宗教も結婚も入り乱れながら、それでもココス島社会には身分制度が生まれ維持された。奴隷家庭のうち7組だけがロス家の人びとと結婚できるという上級労働者階級の身分として存在した。寄せ集められた労働者家族にも「種族別の識別があったようだ」と良行は記している。

 良行が身分制や差別を論じるにあたって、小集団の名称に「種族」という用語を採用している。「民族は(日本では)国民と同義になっている」(『海道の社会史』p.23、朝日選書)とし、民族という用語の使用は控えている。次に部族という用語については、差別語とされるので「部族は除く」(『海道の社会史』p.24)と判断している。最後に「集団概念としては、もっとも中立的だろう」ということで種族という用語を採用すると述べている(『海道の社会史』p.24)。

 最終節「バンテンの苦力」では、ココス島の労働力移入に焦点をあてた社会経済史学的な考察が述べられている。アレキサンダー・ヘアからジョン・クルーニー・ロス(初代領主)がココス島経営を受け継いだのは1831年。当時の総人口は100人あまりで、子供と女性を除けば、60人ほどの労働者しかいなかった。「バンテン」とは、インドネシア・西ジャワのバタビア西方にあった王国の名称である。ジャワ在住の商人がそこの住民を労働者としてココス島に呼び入れるのに協力した。年季奉公の労働者を斡旋したのである。オランダはインドネシアでの奴隷貿易を1860年まで存続させている。「バンテンの苦力」は、年季奉公ではあっても実質的に年季奴隷に近い存在であったであろう。

 バンテン苦力は3年契約だったが、「トラックシステム」に縛られて3年後にバタビアに帰れる者はほとんどいなかった。「住民はそこで割高のコメを買い、ココヤシの実から油やサンバルをつくり、海で魚を採って暮らしたのである」(『ココス島奇譚』p.67)
 島の支配層であるロス一家は、女性を導入してバンテン苦力がココス島で家庭を持って定着するようにした。こうして、1900年代のはじめに、四層構造の身分社会がココス島に確立していく。最下層がバンテン苦力。その上に、オラン・ココス(ココス島民)。上から第二の階層は、最初の領主アレキサンダー・ヘアが残した7つの家族とその子孫。彼らは領主・ロス一家と交わり、人数を増やしていった。最上層は、領主・ロス一家の白人たちであった。その身分制度下にあっても、小銭を貯めてメッカに巡礼に出るココス島民を次々に排出するようになる。ジャワ島にいたときのバンテン苦力には、メッカへの巡礼など夢であった。しかし、ココス島に来てからその夢が実現できる生活となった。そこに強固なアイデンティティが生まれたと解釈できるだろう。また、1901年以降ココス島で生まれた「バンテン」の子どもがココス・アイランダーに分類されることになる。統計基準の変更があった。それは社会制度の変革を意味する。バンテン身分からココス・アイランダーとなることで新たなアイデンティティが生まれていったとも推測できる。

「インドのカースト制のように先天的で固定したものではない」(『ココス島奇譚』p.95)
 バンテン苦力の男性は、ココス島生まれのオラン・ココスの女性との結婚が許され、生まれた子どもたちはオラン・ココスへと昇格した。こうしたゆるやかな階級移動が認められた社会であった。これは、小規模社会であったから可能であった。大規模社会で身分移動や階層移動を緩めれば、身分制度は維持できなくなる。

 長編となるはずだった『ココス島奇譚』は、次の文章で終わっている。この文章が、良行が書いた文章の中で最後に活字となって残る文章である。
「この節の主題は、バンテン苦力を含めてココス島民が、ロス王朝によって自給能力をまったく持たないココヤシ・プランテーション労働者に仕立てあげられたということである。そこで、この連載の第一回で触れた、マレーシア領サバ州のパーモル農園で暮らしていたハジ・ディック・ビン・ボヘルが、オイルパームを栽培するだけでなく、野菜、ウサギ、アヒルを扱っていたことを、思い出してほしい。バーモル農園は、海から遠く内陸へ入った土地だから、すでに舟はない。かれはサバへ移って四〇年以上たつが、ここまで変身するにはかなりの努力がいったにちがいない」(『ココス島奇譚』p.101、「みずず」1995年2月号掲載部分)

『ココス島奇譚』は、様々な余韻の残る作品でもある。様々な読み方ができる。良行の古い友人である花崎皋平は、「鶴見良行の人と仕事」と題する文章を『ココス島奇譚』の巻末に寄稿している。「これが完成していたら、おそらくとても品のいい記録文学作品であり、また東南アジアの歴史社会学のユニークな論文でもあるようなものになっていたような気がする」(p.164)
 花崎は、「品のいい作品」という言葉を使っている。良行は「品のいい差別論」を述べたかったのかもしれないと私は理解している。


鶴見良行著作集12
『鶴見良行著作集12』
最終巻
みすず書房・2004年
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■庄野護(しょうの・まもる)
1950年徳島生まれ。中央大学中退。学生時代よりアジア各地への放浪と定住を繰り返す。1980年代前半よりバングラデシュやネパールでNGO活動に従事。1989年から96年までODA、NGOボランティアとしてスリランカの都市開発事業に関わる。帰国後、四国学院大学非常勤講師を経て、日本福祉大学大学院博士課程単位取得。パプアニューギニア、ケニアでのJICA専門家を経て、ラオス国立大学教授として現地に2年間赴任。『スリランカ学の冒険』(初版)で第13回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞を受賞。『国際協力のフィールドワーク』(南船北馬舎)所収の論文「住民参加のスラム開発スリランカのケーススタディ」で財団法人国際協力推進協会の第19回国際協力学術奨励論文一席に入選。ほか著作として『パプアニューギニア断章』(南船北馬舎)、共著に『学び・未来・NGO NGOに携わるとは何か』(新評論)など。