鶴見良行私論(11)
【タイ発『雇用のしおり』をめぐって。鈴木静夫と鶴見良行】

 静岡県立大学で国際関係学部長をつとめた鈴木静夫(1932−2000)は、40歳半ば過ぎまで毎日新聞記者だった。鈴木は南山大学文学部で英語を学んだ後、名古屋大学経済学部に入学している。そして、1958年に名古屋大学を中退し、毎日新聞社に入社した。鈴木はクセのない英語を流暢に話した。外信部に所属し、1972年4月から76年3月までバンコク支局長としてタイに駐在した。タイ社会だけでなく東南アジア社会全体が大きく変動した時代であった。
 ヴェトナム戦争でサイゴン(現ホーチミン市)が陥落したのが、1975年。鈴木は現地サイゴンで取材をしている。
 タイは、アメリカ軍の後方基地として、巨大な空軍基地を何箇所か維持していた。ヴェトナム戦争に従軍していた米兵たちの多くは、休暇をバンコクで過ごした。バンコクの通りやホテルのロビーには、米兵たちがあふれ、しゃれた喫茶店やレストランは彼ら米兵のために営業していた。当時の日本人の団体観光客たちは、そのおこぼれにあずかっていたというわけだ。
 1975年、アメリカ軍が敗退して、ヴェトナム軍の勝利で終わるヴェトナム戦争はタイ社会内部を深いところで揺さぶっていた。軍政下のタイ国民の政治意識が高まりつつあった。72年11月のタイの反日貨不買運動は、その政治意識の変化を先取りしていた。
 日本の経済侵略に反対する抗議デモは、警察のパトカーに先導されていた。タイ社会全体が一体となったかのような運動だった。中心となった学生たちは、運動の中で全国的なネットワークを形成していく。この学生市民のネットワークは、翌73年10月の大規模反政府デモを実現させる。5人以上の集会が禁止されていた社会で、50万人の人々をバンコク中心部に集めた。多くが地方から駆けつけた学生と市民であった。
 10月15日早朝、王宮前でデモ隊と警察の最初の衝突がおきる。その混乱が暴動と化して市内に拡大。深夜には軍隊が出動し、デモ隊に実弾を発砲、70人以上の市民、学生が死亡した。彼ら犠牲者の名前は、今は民主記念塔の横にある記念館の壁に刻まれている。このときの死者たちは、大学生よりも職業学校生や一般市民が多かった。
 この混乱で、タノム首相(当時)など3人の独裁者たちが国外逃亡した。軍事政権が倒れ、国王が指名した大学人のサンヤ首相が誕生した。「タイ民主革命」である。

 1972年から74年のタイにおける反日運動の歴史は、21世紀に入ってタイ人研究者たちによって取り組まれるようになっている。「反日」の歴史をふりかえることが、タイの民主化にとって重要な作業と自覚されているようだ。
 2015年、北海道大学大学院に提出された博士論文に1972年のタイでの反日運動を分析した論文がある。日本語論文『タイの民主化と反日運動:「野口キック・ボクシング・ジム事件」と「日本製品不買運動」を事例に』である。筆者はシリヌット・クーチャルーン・パイブーン。タイ人研究者である。40年近くの歳月を経て、タイでの反日運動を振り返るのは、現在に続くタイの民主化運動の出発点となった出来事であるからだ。
 論文は、21世紀の視点で冷静に過去を振り返っている。72年10月の「野口キック・ボクシング・ジム事件」を起点に、72年11月の反日運動のたかまりを経て、翌73年軍事独裁政権が倒され、民主化へと至るプロセスを振り返る。
「野口キック・ボクシング・ジム事件」とは何だったか?
 1972年10月9日に日系の百貨店タイ大丸が新設開店し、そのなかに野口キック・ボクシング・ジムが喫茶店を併設した練習ジムを設置した。キック・ボクシングの練習を見ながら喫茶をするという店がオープンしたのである。国技である神聖なキック・ボクシング(ムエタイ)への冒涜とタイ人の多くが感じた。そのことでタイ人の反日感情に火がつき、抗議デモでタイ大丸のガラスが割られるという騒ぎとなった。高校生、大学生のデモにとどまらず、バンコクのすべての新聞が、野口ジムとタイ大丸を非難する論調の記事を連日掲載した。
 先の論文の抄録の最後には、次のように書かれている。 「『日本製品不買運動』は、日本のタイに対する経済侵略をはじめ、様々な不安及び不満が重要な要因であったが、日本の投資家との相互作用的な関係を持つ軍事独裁政権に対する不満が日本に転移して表現されたと考えられる。そして、運動を展開する際に、ネットワーク、人的資源、知識的資源など、様々な資源が運動の成功に貢献した。これらの資源は、タイにおける民主化運動、学生運動の基盤作り、となったと考えられる。」(『現代社会学研究』北海道社会学会28(0)、1−20,2015)この論文は、インターネット上のJ−STAGEで読むことができる)

 在タイの日本人たちは、反日運動を静かにやり過ごそうとしていた。そうしたなか『雇用のしおり』事件が新たな反日の火種となる。
『雇用のしおり』は、さきのキック・ボクシングジム事件のタイ大丸内の日本書籍店で売られていた日本語とタイ語で印刷された小冊子である。1冊10バーツ〈当時の為替レートで120円〉で販売されていた。発行は、「国際印刷」と記されていた。連絡先などの記載はなかった。
 この『雇用のしおり』は、バンコクの日本人家庭で、タイ人を雇うときの契約書として使われていた。家庭で女中や子守り、運転手を雇うときの便利帳である。タイ語の出来ない日本人雇用主が、タイ語で書かれた箇所を指差し、労働条件を説明できるように作成されていた。名前だけ書き込めば、そのまま雇用契約書として使えた。「女中」についての項目は18ページにわたり、日本語とタイ語で次のような文章が並んでいた。
「帰るときは持ち物を見せなさい」「残った食事は食べてもよろしい」「盗みをしたり、ウソをついたり、お金をごまかしたりしてはいけない」「食器は大切に取り扱い、もしこわした場合はあなたの給料から差し引きます」「仕事を辞めたいときは必ず1ヶ月前に言うこと、もし実行しないときは、最後の月の給料は出しません」「勤めぶりがよければ少しずつ給料を上げてやります」「自分の子供を連れてきてはいけない」「主人に口答えしてはいけない」
 このような契約書で雇われた女中さんの月給は当時、約300バーツ〈約3600円相当〉であった。運転手を雇うときの契約書には、「車を自分のあやまちで破損した場合弁償すること」「女中を誘惑してはいけない」などとあった。
 当の日本語書籍店には、タイ人も自由に出入りできた。やがて、日本語を学ぶ学生たちのあいだでも話題にのぼりはじめる。そして、冊子が書店に並んでから数カ月後には社会問題化することになる。

『雇用のしおり』が最初にマスコミに取り上げられたのは、毎日新聞1973年9月25日付けの社会面である。前後して雑誌『思想の科学』1973年11月号(思想の科学社)が、その『雇用のしおり』の内容を詳しく掲載した(p.72-73)。鈴木静夫が毎日新聞の記事にかかわり、鶴見良行が『思想の科学』掲載記事にかかわっている。
『思想の科学』での「アジアの目」の欄への掲載には、「緑川悠」の署名が添えられていた。「緑川悠」は、鶴見良行主催の「アジア勉強会」の関係者が用いた筆名と思われる。
 1974年1月号の『思想の科学』では『「雇用のしおり」をめぐるタマサート大学生の討論』を掲載した(p.72-73)。そこには、バンコク在住の日本人に対する次のような激しい言葉が語られていた。
「雇主家族の食べ残しを食べろというようなこともタイ人を見下している証拠です」「日本人はタイ人から利益を吸い上げるためにタイにきているんだ」「タイ人は中国人やそのほかのタイに住んでいる外国人とはうまくやっているが、日本人だけはいや気がさしている」
「タマサート大学の討論」は、先に毎日新聞1973年11月20日に概要が掲載されている。『雇用のしおり』をめぐっては、毎日新聞が先に記事にし、『思想の科学』がより詳しく伝えるという方式が2度にわたって繰返された。そこに、当時の鈴木静夫と鶴見良行の関係が伺える。

 毎日新聞(1973年9月25日付け記事)で『雇用のしおり』の概要が伝えられたあと、読者の欄では投稿者どうしの論争まで起きた。 73年10月11日の毎日新聞投書欄で、マレーシア在住の主婦・中込香子さんが論争の口火を切った。
「彼女たち(引用者註:お手伝いさん)は、私たちを利害関係の対象者としてしか見ません。実にドライで、要求はどんどんするし、自分の非はなかなか認めようとはしません。(中略)『雇用のしおり』は、こういった常識に慣れていない日本人のために作られたものです」(この部分は、「思想の科学」1974年1月号掲載、田中宏論文にも引用されている。)
 中込さんの投書は、『雇用のしおり』を必要とする現地在住日本人多数派の声を代弁していた。10月17日の投書欄には、現地の人への差別的な接し方はやめようとの反論意見が掲載された。日本の新聞読者からの投稿である。先の中込さんは、その投稿に反論。11月2日の投書欄に再登場し、異議をとなえた。論争はかみ合った議論とは感じられなかった。当時の日本政府、田中首相は翌年1月初旬にタイ、インドネシア訪問をひかえていた。日本の新聞社はアジアの反日感情についての報道を抑制する傾向にあった。そのこともあり、毎日新聞投書欄での「女中論争」は、あいまいに終わることになる。


愛蔵 変革の東南ア
『愛憎 変革の東南ア』
鈴木静夫著
毎日新聞社・1977年
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■庄野護(しょうの・まもる)
1950年徳島生まれ。中央大学中退。学生時代よりアジア各地への放浪と定住を繰り返す。1980年代前半よりバングラデシュやネパールでNGO活動に従事。1989年から96年までODA、NGOボランティアとしてスリランカの都市開発事業に関わる。帰国後、四国学院大学非常勤講師を経て、日本福祉大学大学院博士課程単位取得。パプアニューギニア、ケニアでのJICA専門家を経て、ラオス国立大学教授として現地に2年間赴任。『スリランカ学の冒険』(初版)で第13回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞を受賞。『国際協力のフィールドワーク』(南船北馬舎)所収の論文「住民参加のスラム開発スリランカのケーススタディ」で財団法人国際協力推進協会の第19回国際協力学術奨励論文一席に入選。ほか著作として『パプアニューギニア断章』(南船北馬舎)、共著に『学び・未来・NGO NGOに携わるとは何か』(新評論)など。