鶴見良行私論(11)
【番外編:津田梅子とクララ・ホイットニーと勝海舟】

 四国の善通寺市での2年間(1983-1985)は、フィリピン出身の津田ヨランダ・アルファロさんにとって、まだ日本に十分になじめない時期でもあった。子育てに追われた期間でもあった。それから約10年後、ヨランダさんは4人の子供のうち高校生以下の3人を連れて、ハーバード大学大学院博士課程に留学することになる。帰国後、複数の日本の大学から専任教員就任の申し出を受けた。このとき、大阪府内の自宅から通える神戸女学院大学を職場とした。キリスト教主義の大学であることも理由だった。現在は、同大学で教授職にあり、評議員も務める。

 津田梅子研究者として知られる津田ヨランダさんだが、注目されるのは米国人のクララ・ホイットニー(1860-1936)とその子孫たちについての研究である。
 クララ・ホイットニーは、勝海舟の三男・梅太郎の配偶者となった米国人女性である。勝海舟が長崎にいたころ婚外恋愛して生まれた勝梅太郎については、勝部真長編『勝海舟伝』に次の記述がある(勝部真長編『氷川清和 付勝海舟伝』角川文庫、1972)。
「ある雨の日、(勝海舟が:引用者註)坂道で下駄の鼻緒を切らせて困っていると、すぐ後ろの家の障子が開いて、綺麗な女のひとが出てきて、鼻緒をたててくれた。それでお礼にと金を紙に包んで置いて、別れた。翌日、女は『過分な頂きものをしまして……』と、伝習所へ勝を訪ねて礼をいいにきた。女はまだ若いが後家さんであったそうで、海舟はそれが縁でこの女の家にしきりに出入りするようになった。元治元年に長崎に出張していたとき、この女性に再会してできたのが勝梅太郎といって、海舟の三番目の男子である」

 婚外子であった三男、梅太郎は、勝家の東京の家に引き取られ育った。クララ・ホイットニーと梅太郎の出会いは、梅太郎の出生の事情とも関係していた。出生をめぐる話題を語るうちふたりの恋愛が生まれた(『クララの明治日記』講談社、1976/『勝海舟の嫁 クララの明治日記』中公文庫、1996)。

 勝梅太郎と結婚したクララは東京で一男五女をもうけた。子供たちとの米国への帰国は、1900年である。1875年に14歳で来日したクララにとっては25年後のアメリカ帰国であった。帰国に至る事情は、実父の死(1882年)と、勝海舟の死(1889年)が理由である(勝部真長、1992)。なぜなら、東京でのホイットニー家の経済的・社会的後ろ盾が、勝海舟だったからだ。

 ホイットニー一家の帰国から74年後の1974年、6人の子供のうち一番末娘のヒルダさん(1896年、明治29年生)が78歳で来日した。その際、母クララの書きのこしたノート17冊にわたる日記を持参する。そこには、明治8年8月3日から明治20年4月17日までの東京での生活が詳しく書かれていた。その抜粋翻訳が、上下2冊の『クララの明治日記』(『勝海舟の嫁 クララの明治日記』)である。本書は、明治の政治史・社会史を書き換える貴重な歴史資料となった。それは、勝が明治期にも政治的、社会的に大きな役割を担っていたことを明らかにした。それまでの評価は、江戸城無血開城(1868年)だけに焦点が当てられ、この一件が勝の最大の功績だったとする評価である。司馬遼太郎の司馬史観においても江戸城無血開城を勝の最大の功績としている。
『クララの明治日記』をきっかけに、明治期における勝海舟の再評価がなされ、さらには司馬史観を書き換えさせる結果をももたらした。そのことを詳しく論じたのが、勝部真長『勝海舟』(上下、PHP研究所、1992)である。上下巻あわせて1100ページをこえる大作だ。
「徳川勢力を(明治期まで:引用者註)温存し、徳川慶喜の名誉回復をはかってこれを公爵にさせ、その嗣子徳川家達(とくがわ いえさと、1863−1940)を貴族院議長(明治36年から昭和8年までの30年間)のポストに座らせるまでに社会的・政治的雰囲気を転換させたが、その蔭の仕掛け人が勝海舟であった」「旧体制の長が新体制の上院の長にすわるなど、よその国の革命ではおこりえないことだが、日本ではそういう不思議な状況が出現したのだ」(前掲書「まえがき」)。

 勝部真長(かつべみたけ、1916−2005、倫理学者)は、徳川家や旧藩主を華族として再編したことが、勝海舟による国民国家形成の重大事業だったと評価した。
 ちなみに、この勝海舟研究者である勝部真長は、お茶の水女子大学の教授時代に岡本珠代を指導している。前述したが、その岡本は1960年代、国際文化会館時代の鶴見良行の同僚であった。多くの人から「鶴見良行の秘書」といわれたが、岡本本人は「鶴見良行とは同僚だった」と強調している。

 津田ヨランダ・アルファロさんは、ハーバード大学大学院に留学していた頃(1990 年代)に、クララ・ホイットニーの子孫と出会っている。その出会いを通して、勝海舟とホイットニー一家、そして、配偶者・津田守氏の津田家の歴史をたどる研究が開始された。

 津田守氏の大おばにあたる津田梅子(1864-1929)は、6歳で岩倉遣外使節団の一行に加わってアメリカに留学した。10年間(1871-1881)アメリカで学んでから帰国する。のちに津田塾大学を創設(1909)する梅子にとって、より重要なのは2度目のアメリカ留学(1889-1892)である。最初のアメリカ留学を終えたあとの梅子は、日本における既存の学校や教育者たちと同調できず悩んでいた。まだ20歳にもなっていない若さだったのだ。
 梅子はクララ・ホイットニーの援助で2度目のアメリカ留学を実現する。そこでは大学経営についても学んだ。そして帰国後、津田塾大学創設の準備をはじめる。青山学院大学を創設した父の津田仙(つだせん・農学者)が亡くなったのは、1908年。梅子による津田塾大学の創設は、その翌年、1909年である。

 津田仙(1837-1908)は江戸時代末期に英語と洋学を学び、1867年に江戸幕府の外国奉行(通訳)に採用される。武士の家に生まれたが養子になって平民となる。明治期、最初のキリスト教徒のひとりでもあった。東京初の並木道を大手町につくったのが、ヨーロッパ研修後に農学者として成し遂げた仕事である。明治のマスコミからは、偉大なる平民という意味の「大平民」という称号を得ている。
 津田塾大学創設の準備に奔走したのは津田仙であったが、創設者としては津田梅子が一般には知られる。慶応義塾大学を創設した福沢諭吉は、大学の名前と共に語られることが多い。しかし、青山学院大学の創設者の津田仙が、大学の名前と共に語られることは、ほとんどない。それが社会活動家としての津田仙の社会的位置取りを物語っている。

 クララ・ホイットニーの父親ウィリアム・コグスウェル・ホイットニー(1825-1882)が家族とともに来日したのは、1875年。「お雇い外国人」の会計学・簿記教師としての来日だった。東京の商法講習所(現在の一橋大学)に赴任したが、所長と意見が合わず、1878年に退任している。無職となったウィリアム・ホイットニーを助けたのが、津田仙であった。津田仙は彼のために東京銀座に簿記と会計を教える学校をつくって援助した。その学校の専任教師として迎えたのである。しかし、1882年にイギリスで客死した。

 津田仙は、青山学院大学だけでなく、日本で最初の盲学校(現、筑波大学付属盲学校)の創設者としても知られる。直系の曾孫・津田守氏(大阪大学名誉教授)は青山学院大学で学んだ後、フィリピン大学大学院に留学。父の代まではアメリカ留学が当然のこととされていた津田家であったが、守氏は留学先にフィリピンを選んだ。

 津田仙は明治時代、勝海舟の親友でもあった。福沢諭吉とは共に通訳として1868年に米国に派遣されている。勝海舟がホイットニー家を支えたのは、ホイットニー家族が津田仙たちとともに活動していたキリスト教普及への共感があったからだ。「勝海舟のキリスト教受洗」は、津田仙によって予想されていた。しかし、実現はしなかった。その背景は、『クララの明治日記』(1976)に綴られている。

 ところで、鶴見良行が勝海舟に言及した文章は、確認できていない。しかし、1970年代から80年代にかけての良行の生活環境からすれば、国際文化会館での同僚・岡本珠代と勝部真長との師弟関係から、勝海舟が話題とならなかったはずはない。また勝部真長と良行の交友があったとしても不思議ではない。
 さらには岡本珠代と津田ヨランダ・アルファロさんの二人はどこか深いところで繋がっているようだ。良行と交流のあったこの二人の女性が、ともに子供を3人連れてアメリカの大学院に留学し、博士号を取得したこと。偶然とは思えない何かを感じさせるのだ。しかしながら二人に直接の接点はない。会ったこともないという。ただ今回、意外な事実が分かった。岡本珠代の長女は小学生のとき母親と共に渡米し、教育を受けた。現在、ピアニストとしてアメリカとドイツで活躍している。その長女Saraさんと津田ヨランダさんは、ボストンで出会っている。1990年代後半、Saraさんのピアノ演奏会がボストンで開かれた。このとき、留学中だったヨランダさんが、演奏会場で「親代わりの」挨拶を行ったらしい。詳しいいきさつは、分からない。けれども、鶴見良行・千代子夫妻がこの話を知れば声をあげて笑い喜んだだろう。

 人知れない世界で展開されているドラマを知ることの楽しさ。良行が好んだ世界である。四国を起点に生まれた物語が、ボストンや大阪やマニラで展開されているということ。津田守・ヨランダ夫妻の4人の子供たちは全員、フィリピン留学を経験した。良行が生きていたら、この物語の展開を誰よりも楽しんだことだろう



アジアから来る花嫁たち
『氷川清和 (付)勝海舟伝』
角川ソフィア文庫・1972年


アジアから来る花嫁たち
『勝海舟の嫁 クララの明治日記』
中公文庫・1996年

アジアから来る花嫁たち
勝部真長『新装版 勝海舟』
PHP研究所・2009年(1992年)

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■庄野護(しょうの・まもる)
1950年徳島生まれ。中央大学中退。学生時代よりアジア各地への放浪と定住を繰り返す。1980年代前半よりバングラデシュやネパールでNGO活動に従事。1989年から96年までODA、NGOボランティアとしてスリランカの都市開発事業に関わる。帰国後、四国学院大学非常勤講師を経て、日本福祉大学大学院博士課程単位取得。パプアニューギニア、ケニアでのJICA専門家を経て、ラオス国立大学教授として現地に2年間赴任。『スリランカ学の冒険』(初版)で第13回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞を受賞。『国際協力のフィールドワーク』(南船北馬舎)所収の論文「住民参加のスラム開発スリランカのケーススタディ」で財団法人国際協力推進協会の第19回国際協力学術奨励論文一席に入選。ほか著作として『パプアニューギニア断章』(南船北馬舎)、共著に『学び・未来・NGO NGOに携わるとは何か』(新評論)など。