鶴見良行私論(3)
【「からゆきさん」と東南アジア学】

 矢野暢『「南進」の系譜』(1975年)は、明治にはじまる日本国と日本人の南方関与の歴史分析である。その執筆の理由のひとつに、1974年1月にジャカルタ(インドネシア)で起きた反日暴動をあげている。「日本人がなぜこんな目に会わなければならないかを解き明かさなければならないと思った。」(はじめに、p.ii)。
 本書巻末の参考文献にあるような膨大な書籍に取り組み、「アジア主義」や「南進論」の内容を解析した。その結果、東南アジア各国の歴史や文化や言語をほとんど理解しない人たちによる言説としての「アジア主義」や「南進論」であったことが明らかとなる。ジャカルタ反日暴動は、アジアに無知の日本人たちの南洋進出の結果でもあったのだ。だからこそ、そこに新しいアジア学としての東南アジア学が必要となる。各国、各民族の歴史と文化を理解し、言語を学び、かつ相手側と対話しながら進めていく東南アジア学のイメージが生まれた。

『「南進」の系譜』の第一章「南方関与のはじまり」の第三節(最終節)に「からゆきさんのこと」が置かれている。第一章のいちばん重要な節をなしている箇所で、本書が「からゆきさん」から書き始められているとも読める。熊本県に生まれ、幼少時の10年間を旧「満洲」で過ごし、熊本で高校を卒業するまで毎日、天草を見ながら過ごした矢野暢には、天草出身の女性たちの南方での暮らしは他人事には思えない事柄であった。
「からゆきさん」(唐行きさん)という言葉は、九州で使われていた言葉で、19世紀後半の女性の海外出稼ぎ者を意味する。山崎朋子『サンダカン八番娼館 底辺女性史序章』(筑摩書房、1972年。のち文春文庫)、森崎和江『からゆきさん』(朝日新聞社、1975年。のち朝日文庫)で一般には知られる。山崎朋子の作品は映像作家・熊井啓によって映画化された(『サンダカン八番娼館 望郷』)。女優、栗原小巻が山崎朋子と思われる女性史研究者を演じ、娼館で働く女性を女優、高橋洋子が演じた。21世紀の現在も鑑賞されている昭和の名作である。

 しかし、書籍や映画でイメージ化された「からゆきさん」は、明治期に海外に出稼ぎに出た日本人女性がすべて娼婦であったかのような誤解を生んだ。明治時代、日本人はシベリヤやハワイ、アメリカまで出稼ぎに出た。男性たちは、ハワイのサトウキビ畑のキビ狩りなどの仕事に従事し、アメリカでは炭鉱などで働いた。日本人女性たちは、子守り、女中、賄い婦、洋裁店の縫い子、雑用係とお金になる仕事なら何でもして働いた。そうした明治期の外地での労働の多様性は、「からゆきさん」の影響で忘れ去られた。
 そうした社会現象は、研究者の矢野暢には、望ましからざる現実と映ったであろう。だからこそ、「からゆきさん」については、くり返し言及した。歴史的な事実の所在と内容を明らかにしておこうとしたのである。
『「南進」の系譜』に続く、『日本の南洋史観』(中公新書、1979年)においても第5章「『南進論』と庶民との関わり」で「『からゆきさん』論」を書いている。その小論のなかで矢野は、「からゆきさん論」に多くの情報を提供した『村岡伊平治自伝』(南方社、1960年。のちに講談社文庫、1987年)をとりあげ詳述している。
「この本の類いまれなすばらしさ、そしてこの本の真実性とデタラメさとの交錯」(p.131-132)についての言及がある。
 村岡伊平治(1867-1943)は、明治期から昭和にかけてシンガポールやマニラで娼館を経営した女衒(人身売買者)であった。自伝をもとにした秋元松代による戯曲『村岡伊平治伝』(1960)も上演され、自伝そのものが当時の話題作であった。矢野は、自伝の資料的価値を評価しつつも「歴史の事実の検証には使えない」(『「南進」の系譜』p.36-40)としている。

 矢野暢による一般読者向けの最初の東南アジア学の書籍である『「南進」の系譜』の冒頭に「からゆきさん」が置かれていること。それは、矢野が目指した東南アジア学の性格を知るうえで、重要な意味があるように感じられる。ひとつに、多くの読者に恵まれた山崎朋子の『サンダカン八番娼館』や『サンダカンの墓』(文藝春秋、1974年)の記述に含まれる問題点への遠まわしの批判がある。山崎の業績は素晴らしいが、資料の読み方やオーラル・ヒストリーの手法に関して、不十分な点が見られた(同じように、鶴見良行の著作についても専門の研究者から同様の指摘はあった)。
 娼館の経営者・村岡伊平治が残した自伝に記された幾つかの史実を矢野は逐一検証してみせている。そして、「貴重な資料だが、事実でない記述が多い」と指摘した。
 一般読者の一部にも知られる山崎朋子の個性的な表現は、娼婦を体験した老女のオーラル・ヒストリーのなかで、「ショウバイ」(商売)を「娼売」(ショウバイ)と表記したことがある。主観的な解釈による当て字である。また、現地サンダカンに建つ日本人女性の墓が南向きに建てられているのを見て(地形的な条件で南向きに建っているのに)、「日本に背を向けて建っている」と、ここでも主観的な解釈を施した。意表をつくそうした表現は、山崎朋子の著作の魅力でもあった。
 矢野は、民間の研究者であった山崎を遠くから応援していた。しかし、学術研究のあり方について、資料の読み方などについて、注意すべきことへの言及を忘れなかった。こうした矢野暢の遠まわしの表現は、紳士的態度であったと思う。

 1980年代において、山崎朋子や鶴見良行などの在野の民間研究者たちと、大学やアジ研など研究機関に所属する研究者が力を合わせて東南アジア研究を推進することができたのは、矢野の雰囲気づくりによるところが大きい。日本の学術研究で、民間学者たちと大学の研究者たちが仲良く意見交換している例は、そう多くはない。

サンダカン八番娼館 望郷
1234567891011121314|15|1617181920【鶴見良行私論:総合目次】

■庄野護(しょうの・まもる)
1950年徳島生まれ。中央大学中退。学生時代よりアジア各地への放浪と定住を繰り返す。1980年代前半よりバングラデシュやネパールでNGO活動に従事。1989年から96年までODA、NGOボランティアとしてスリランカの都市開発事業に関わる。帰国後、四国学院大学非常勤講師を経て、日本福祉大学大学院博士課程単位取得。パプアニューギニア、ケニアでのJICA専門家を経て、ラオス国立大学教授として現地に2年間赴任。『スリランカ学の冒険』で第13回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞を受賞(初版)。『国際協力のフィールドワーク』(南船北馬舎)所収の論文「住民参加のスラム開発スリランカのケーススタディ」で財団法人国際協力推進協会の第19回国際協力学術奨励論文一席に入選。ほか著作として『パプアニューギニア断章』(南船北馬舎)、共著に『学び・未来・NGO NGOに携わるとは何か』(新評論)など。