鶴見良行私論(11)
【最後の旅(1)──ココス島】

 ココス諸島は、インド洋上のオーストラリアとスリランカの中間に位置する。ココス諸島に最も近い島が、東方海上にあるクリスマス島で、約900キロ離れている。インドネシアのスマトラ島からは、約1000キロの距離がある。この島に出かけるには、オーストラリアのパースからの定期空路を利用するしかない。ココス諸島で人が住むのはウエスト島とホーム島(ホーム・アイランド)の2島のみで、人口は2島あわせて約600人。飛行場はウエスト島にある。
 ココス島は、インドネシアのスマトラ島やジャワ島に距離的には近いが、オーストラリア領である。19世紀はじめに英国人、アレキサンダー・ヘアがインドネシアの領主から買い取った無人島であった。

 鶴見良行『ココス島奇譚』(みすず書房、1995)で描かれているココス島は、ホーム島をさす。良行は1995年3月に妻千代子さんと二人でココス島へ4度目の旅に出かける計画をたてていた。3月が選ばれた理由は、ココス島で催されるハリラヤの祭りを見るためだった。住民の大半が回教徒のココス島では、ラマダン(断食月)が終わると、それを祝うハリラヤの祭りとなる。祭りのメーンイベントのボートレースは1週間続くという。その話を夫妻に教えたのは、ホーム・アイランドの長老だった。祭りで多くの人が集る。そこに新しい発見もあるかもしれない、と良行は思ったのだろう。しかし、95年の旅は実現しなかった。前年末の94年12月16日、良行は急性心不全で京都の自宅で亡くなった。

 実現しなかった4度目のココス島への旅について千代子さんは、エッセイ「旅の終わりに」(2004)の冒頭で触れている。エッセイは、2004年の著作集12巻の完成を記念して書かれたものだ(『鶴見良行著作集12』「月報」所収。オリジナル掲載は「べ平連」ホームページ、2004年2月1日掲載、掲載記事番号329)。
「それはついに実現しなかったので、鶴見良行の旅は終っていないという思いが長く残りました」

 良行の最初のココス島訪問は、1994年2月であった。千代子さんと二人で出かけている。2度目の訪問は、同年7月から8月にかけて。そして、10月から11月にかけて3度目の訪問があった。大学教授でもあった良行の年間スケジュールからすれば、春休みと夏休みを利用して年2回の海外調査旅行が通常である。1年に3度、同じ目的地を訪問することはめずらしかった。ココス島への関心は、それほど特別なものだった。

 亡くなる4年前の1990年9月、良行は京都の病院で胃がんの摘出手術を受けている。その後の良行は、活動が加速したようだった。手術前よりも活動的になった。同年12月20日に病院を退院した後、あけて91年1月には、早くも大学での講義を再開している。そして、3月から4月にかけて千代子さんとフィリピン、シンガポール、インドネシアを旅行。このときから飛行機はビジネスクラスを利用するようになった。ホテルの選択も少しは贅沢になっていた。これも千代子さんとの旅が関係している。健康第一の旅行となっていた。
 93年、94年は、動きがさらに加速している。千代子さんもそれに気づいていた。前出のエッセイ「旅の終わりに」に次の文章がある。
「まわりの若者たちには、口ぐせのようにゆっくりやるように説き続けましたが、当人は次つぎとやりたいことがあり、亡くなる直前の動きはかなり性急に見えました」

 情熱をかたむけて通ったココス島で、良行は何を見ようとしたのか?
『ココス島奇譚』は未完の原稿のまま出版されている。その書き出しは、次の一文である。
「ココスという島名が初めて眼に入ったのは、マレーシア領サバ州でオイルパーム農園の調査を始めた五年前である」(p.9)
 ココス島の存在を知り、実際にサバ州在住のココス島人に出会うのに5年の歳月が流れている。ココス島について調べることは簡単ではなかった。似たような名前の島がいくつもある。だが、偶然にも良行はココス・アイランダーズ(ココス島民)と直接出会うことになる。1993年のヤシ研究会の調査旅行の途上、マレーシア・サバ州でのできごとである。
「一九九三年ヤシ研究会の調査旅行では、海外青年協力隊員としてサバの村落に二年以上も暮らした鈴木宏二さんたちと4WDの車をレンタルしてあちこち廻った」(p.14)

 議論の本筋から離れるが、良行は青年海外協力隊(JICA国際協力機構のボランティア派遣プログラム)の表記を、「海外青年協力隊」と誤記することが度々あった。良行が事業の立ち上げに関与した井村文化事業社(1977-)の編集部にも青年海外協力隊出身の編集者がいた。鶴見良行『辺境学ノート』(1988)を出した出版社「めこん」には、出版当時、青年海外協力隊出身の編集者が複数人いた。1988年の木造機帆船をチャーターしてアラフラ海への約40日の航海には、16人の仲間のうち2名が青年海外協力隊の経験者であった。そして良行が「古い友人」と周囲に紹介してきた私も青年海外協力隊(スリランカ)経験者である。それほどに多くの関係があった青年海外協力隊を良行は変わることなく「海外青年」協力隊とくり返し誤記してきた。その誤りに良行の回りにいた協力隊経験者たちは気づいていた。けれど、とりたてて指摘してこなかった。死後に出版された鶴見良行『対談集 歩きながら考える』(太田出版、2005)には、かつてのような誤記はない。青年海外協力隊と正確に記されている。

 さて話を戻すと、サバ州のプリブミ(土地の子)民族統計のなかに「ココス・アイランダーズ」という表記を認めたのが、「五年前」の1989年。州の民族統計の中に約30のプリブミ(土地の子)の民族名のなかに「ココス島」を発見した。
「サバのプリブミの詳細な定義は以下の通りである。カダサン、クヰジャウ、ムルット、バジャウ、イラヌン、ロトゥッド、ルングス、タンバヌオ、ドゥンパス、マルガング、パイタン、イダハン、ミノコック、ルマナウ、マンカアアック、スルー、オラン・スンゲイ、ブルネイ、カダヤン、ビサヤ、ティドン、その他の先住民族、マレー、インドネシア人、華人系住民、サラワク住民、フィリピン住民、ココス島民」(p.10-11)

 サバ州統計年鑑の記事をきっかけにオーストラリア北西部のインド洋上にあるココス諸島の存在を知る。偶然が重なり、サバ州を旅行中にシンガポールで発刊されている新聞にココス諸島についての本の書評が載る。さらに偶然は重なり、サバ州サンダカンの内陸で自営農業を営む82歳のココス・アイランダーズのおじいさんに出会った。
「農園幹部に『ここにココス島民はいないか』と聞いてみた。まだこの頃は島民がサバのどこに入植したかまったく知識がなかったので、あてずっぽうの質問だったのだが、いともたやすく『いるよ』と返事があった」(p.19)
 マレーシア・サバ州でオイルパーム農園を調査中でのことだった。

 良行が最初に訪れたココス島民の村は、戸数約30軒の村だった。そこで生まれた子どもたちや、マラヤ人、プリブミ(サバ州出身者)の妻たちを含めて村の人口は約200人ほどであった。(p.20)
 ココス島民のマレーシア・サバ州での開拓移民の歴史が始まるのは、1962年である。ココス島王国が終了を迎え、オーストラリア領に完全に組み込まれるのが1978年。ココス島から島外への移民は、その前から始まっていた。サバ州にあるココス島民村の一つバルング=ココスは、良行が訪問した1993年の時点で村の規模は138戸、農園700ヘクタールであった。おもな住民は回教徒として暮らし、メッカに巡礼したハジもいる。最初に訪れたココス島民の村を含め、ココス島民の村はサバ州に複数以上あるらしい。1901年の統計ではココス島の人口は638人。統計の残る1874年(490人)からの人口増加は微増である。2014年でのココス島の人口は、約600人(ウィキペディア参照)
。ほとんど変化がない。そのココス島からサバ州への移民がココス島の島民を上回る勢いで増加していることは、外来者との婚姻を考慮しても注目すべきことである。(p25-27、人口統計はp.93)

 82歳の老人ハジ・ディック・ビン・ボルヘ。この人物が良行の最初に出会ったサバ州のココス島民だった。5人目のつれあいの52歳のジャワ人女性と家庭を持ち、近くのパーモル農園を定年退職したあと、4ヘクタールのパームオイル農園を開拓して暮らしていた。オイルパームの栽培だけでなく、さまざまな補助労働に従事して家計を補っていた。奥さんはキャサバ澱粉で菓子を焼き、老人は野菜を栽培し、ウサギやアヒルを飼っていた。それらの生産物を老人が自転車でパーモル農園内の労働者宿舎に行商していた。

 それにしてもなぜ、良行はココス島を目指したのか?
 理由のひとつは、ココス島民というアイデンティティが、サバ州に移民してからも維持されてきたことに興味を持ったこと。その強固なアイデンシティは、どのように形成されたのか? そこに良行は関心を持った。アメリカに生まれ20歳まで二重国籍者だった良行には、アイデンティティの問題は常に身近にあった。また、日本人のヤマト民族形成の信仰に異議を唱えていた良行は、ココス島民という小集団のアイデンティティでも世界で生きていけることに可能性を感じていた。
「サバのココス島移民で特徴的なのは、かれらがマラヤ語を母語とするムスリムでありながらサバに溶解してしまわずに、どこでもココス集団を維持していることだ。しかもそのまとまり具合、つまりアイデンティティはココス島民であることを中核としている」(p.26-27)

 ココス島民のアイデンティティ形成の秘密を知るために、良行は可能な限りの文献を読み、現地に入って調査する準備をした。1993年に京都大学に招かれていたオーストラリア・マードック大学のJ・ウォレン教授との意見交換。93年当時、キャンベラのオーストラリア国立大学に留学していた「ヤシ研」メンバー、宮内泰介さん(現在、北海道大学教員)は、大学図書館でココス島関連の資料をコピーして良行に届けた。ただこれらのコピーの一部は、関係大学から「厳重な警告」を受けるという結果を招いている。
 警告を受けた文献コピーは、ココス島に出発する直前に良行自身がオーストラリアのマードック大学でコピーした大学院生の論文であった。その論文は、1981〜88年の間、オーストラリア連邦政府と学生の合意によって公開禁止となっていた。ココス島旧領主と連邦政府のあいだで裁判が起きていた。連邦政府有利の判決を決定づけたのが、良行がコピーした論文だったらしい。
「だからその論文のコピーをとったことはココス島で口外しないように」(p.30)との注意を良行は受けている。「研究論文として資料出所を明示できないのは、ほとんど致命的な欠点となる。」(p.30)としながらも、良行はオーストラリア国立大学の研究論文を論文Yとし、マードック大学の論文を論文Xとして自らの報告を書いていく。2種の論文のうち出所の記述を発表禁止とされていたのは、マードック大学の資料のみである。しかし、直接注意を受けていない資料コピーにも慎重に対処した。

 論文資料の出所記述が発表禁止されるほど、オーストラリア社会ではココス島は、係争地として扱われている。所有権が争われてきた。争いの当事者は、イギリス出身の旧領主とオーストラリア政府である。現在も問題がすべて解決しているとはいいがたい。そのような島への訪問は、現地で思わぬ反応を呼ぶことになる。最初の訪問で宿泊したロッジの経営者グラント氏は、次のように良行に話しかけてきた。
「あなたは東京の国際文化会館に勤めていたね」(P.33)
 ロッジの関係者は、宿泊者である良行の身元を確かめるために日本に国際電話で照会していたのだった。94年2月のココス島への最初の訪問で、観光するでもなくブラブラしていた鶴見夫妻をロッジの経営者はいぶかったらしい。京都にある龍谷大学まで直接電話連絡して、良行の身元と経歴を確認していた。
「外来者にたいする警戒心はかくも強いのであった」と良行は書き、『ココス島奇譚』第1章「出逢い」を締めくくっている。


「ココス島奇譚」鶴見良行
『ココス島奇譚』
みすず書房・1995年
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■庄野護(しょうの・まもる)
1950年徳島生まれ。中央大学中退。学生時代よりアジア各地への放浪と定住を繰り返す。1980年代前半よりバングラデシュやネパールでNGO活動に従事。1989年から96年までODA、NGOボランティアとしてスリランカの都市開発事業に関わる。帰国後、四国学院大学非常勤講師を経て、日本福祉大学大学院博士課程単位取得。パプアニューギニア、ケニアでのJICA専門家を経て、ラオス国立大学教授として現地に2年間赴任。『スリランカ学の冒険』(初版)で第13回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞を受賞。『国際協力のフィールドワーク』(南船北馬舎)所収の論文「住民参加のスラム開発スリランカのケーススタディ」で財団法人国際協力推進協会の第19回国際協力学術奨励論文一席に入選。ほか著作として『パプアニューギニア断章』(南船北馬舎)、共著に『学び・未来・NGO NGOに携わるとは何か』(新評論)など。