鶴見良行私論(3)
【鶴見良行「移動分散型社会」と、矢野暢「小型家産制国家」】

 東南アジアの島々には、大きな川がない。短距離の交易で社会を発展させてきた時代、そこには大きな権力は育たなかった。文明や文化は、人々が集って住む川沿いに発達した。川沿いといっても沼地である。マングローブの沼地に囲まれた川沿いの小さな港が、社会の中心地であった。海に生きる漁師と森を焼いて移動する農民が港町で交易した。交易が発達すると商人が増加し、海賊たちも集まる社会が形成された。サンダカンのようなやや大きな港街は、19世紀の国際交易の時代になって発生した町である。それ以前の島嶼部の社会は、川沿いの小さな社会でしかなかった。
「海も大地も大帝国を生まなかった」ことに注目した鶴見良行は、「大きなまとまりを生まず」「ばらばらに生きる人々」をプラスに評価する東南アジア島嶼文化論を展開してみせた。

『反権力の思想と行動』(1970)以来、「国民」として生きることに違和感を持ってきた良行は、国民意識などない人々の生き方を東南アジア島嶼部で発見した。ミンダナオ島、ボルネオ島が主な調査地であった。『マラッカ物語』(1981)の後、調査地がマレー半島から東南アジア島嶼部に移動したことには、ひとつの事情があった。
 あるとき、マレーシアに入国しようとしてクアラルンプールの空港で入国を拒否されたことがあった。入管職員から「入国拒否者名簿に名前が載っている」と告げられ、空港ホテルで一泊した後、シンガポール行きの飛行機に乗った。以来、西マレーシアは良行にとって鬼門となる。ところが、『マングローブの沼地で』の調査旅行で、東マレーシアのサバ州コタキナバル空港に降り立ったところ、すんなりと入国が許可された。マレーシアは、西マレーシア、サバ州、サラワク州の3地域で独自に出入国管理がなされていたのだ。現在もそうかもしれない。マレーシアの場合、サバ州からサラワク州に飛行機で移動する場合、改めて入国審査を受ける必要がある。こんなところにも、東南アジアの「ばらばら性」が見て取れる。

 東南アジアの大陸部と島嶼部では、社会の性格は異なる。最も大きな違いは、町(街)を生み出すきっかけとなる河川の規模が異なる点である。大陸部にはチャオプラヤ(メナム)川やメコン川などの大河川が存在する。そこには、町が都市に成長した。そして、この都市が国家でもあった。都市=国家という姿が、東南アジアの大陸部の実態であった。住民は川の支流やマングローブの沼地のほとりに住み、支流をさかのぼって大河川の都市に買い物に出るという生活があった。しかし、都市から遠い辺地の住民は、川の支流やマングローブのほとりでほそぼそと暮らしていた。人々の暮らし方という点では、大陸部と島嶼部で大きな差異はなかった。

 川や海沿いの村が移動と分散を繰返すのが東南アジアの島嶼部の社会であった。その生活スタイルは、20世紀半ばまで続いていた。その社会類型を良行は「村落単位の移動分散型社会」と呼んだ。そこでの住民には「国民」意識というものは、ほとんど生まれなかった。税金や労働の供出が制度として定められても、その制度を「義務」と意識する考え方は薄かった。税金が払いたくなければ、となりの王国に移動して行った。移動していく住民を追いかけて追徴するということはなかった。日本社会では許されなかったような移動の自由が東南アジアの島嶼部社会にはあった。

「分散」は、村のような小さなコミュニティが二つになったり、三つになったりと分散して移動することである。モスク(回教寺院)が一つのときは、一つの村として存在しやすい。だが、モスクが一つであるとする法律などなかった。メッカに巡礼してきた村人が新しいモスクがつくって人が集るようになっても、そこに住民の紛争が起きることはまれであった。新しいモスクと古いモスクは共存し、やがて村は二つに分かれていく。新しく分かれた小さなほうの村は、移転して場所をかえる。分散・移動は、そのように起きる。そして、それは繰り返されるのだ。
 東南アジアの〈むら〉が移動するメカニズムについては、矢野暢によって実証研究がなされている。1964年から2年間住み込んだ南タイの村での調査記録がある(『東南アジア世界の構図』(1984、p.71-73)。

「派生村形成」と標題がつく記録には、一つの村から「四つの集落が一キロ以内の範囲に分岐し、さらにつぎの段階で四キロはなれた地点に二つの集落が飛び、そして現在、約七十キロ離れた地点に一つの集落が派生して形成されつつある」(矢野暢1984、P.71)
 派生村は、宗教共同体の分離によっても起きる。回教徒の村に新しくマサジット(祈祷堂)が生まれると村は、二つに分離していく。村の派生や分離は、紛争や軋轢を生まずに平和的になされていく。

 東南アジアの村が自由に派生したり分離したりすることについて、1960年代から70年代のアメリカの東南アジア学者には見えていなかった。見ようとしなかったのだ。彼らは、国家や村コミュニティをアメリカと同様のものと思い込む傾向があった。では、日本人はどうか? 江戸時代の藩や村のあり方に影響されて、行政村の単位でしか村を理解してこなかったのではなかったか。東南アジア学の最初の課題は、「くに」「むら」「かぞく」の役割において、日本やアメリカのそれらとの違いに気づくことである。矢野は、繰り返し様々な著書の中でそのことを述べている。

 そのような東南アジア社会を説明するに当たって矢野が提出してみせたのが、「小型家産制国家」理論である(矢野暢『東南アジア世界の論理』中央公論社、1980)。
 タイは、典型的な小型家産制国家であるとして四つの特性をあげている。第一の特性だけを引用しておく。
「第一に自然条件のために国家権力の光被範囲は狭隘にとどまり、国家領域の事実上のトータルな支配という意味での『領域国家』(テリトリアル・ステート)的特性は、タイでは最近までなかった。王権の所在地としての首都(クルン)以外の地域的拡がりをめぐる近代的な観念は存在しなかった。」(前掲書、 p.248)「所在地の首都がそれ自体完結した国家だということ」(前掲書、p.11)なのだ。つまり、支配する側からすれば、首都バンコクだけが国家となる。ゆえにバンコクのみがほかの都市に比べて突出して発達しているのである。日本やアメリカのような「国家」ではない。現在もそうではない。

 鶴見良行は「村落単位の移動分散型社会」と名づけ、矢野暢は「小型家産制国家」と名づけて説明を試みた東南アジア社会。矢野が扱った大規模な大陸部社会と、良行が扱った小規模な島嶼部社会という違いはあるが、そこに共通するものはある。矢野暢がより多くの説明理論を書き残したので、少しだけ付加して確認しておきたい。
「『小型家産制国家』とは、河川の支配を権力の基盤とし、領域支配の観念と実践に乏しく、分節的でルースな社会の上に成立する、ヒンズーの王権思想に拠る小規模な家産制的権力のことである。」(「小型家産制の理論」『東南アジア世界の論理』1980、P.7)
「ヒンズーの王権思想」という言及がある。東南アジアは、西からのインド文化と北の中国文化の混合した地域である。先にインドからヒンズー思想がやってきて基層文化となった。ヒンズー思想に基づいて、クメールやタイの王国が成立した。王権思想はヒンズーの考え方がなければ成立しない。タイは表向き仏教国家だが、王室にヒンズー教のバラモン僧がいる。現在も公職として働いている。インド文化の影響は、王制をささえる王権思想だけにとどまらない。
 13-14世紀に生まれたクメール文字やタイ文字もインド文字を借用したものだ。インドの表音文字をクメール語やタイ語を表記するように改良したのがクメール文字であり、タイ文字であり、ラオス文字である。ついでにいえば、15世紀に韓国で生まれたハングル文字もクメール文字やタイ文字の発生の延長に生まれた文字だ。韓国人は「韓国独自のオリジナルな文字」を主張してゆずらないが、インド文字がモンゴルを経由して韓国に伝えられハングル文字となったことは、すでに一部の専門家には知られている。

 文化や文明は大きな流れで理解したほうが分かりやすい。東南アジアの基層にある「インド」を理解することは、東南アジア学の初級から中級にいたる道といえる。

マングローブの沼地で(鶴見良行)

東南アジア世界の論理(矢野暢)

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■庄野護(しょうの・まもる)
1950年徳島生まれ。中央大学中退。学生時代よりアジア各地への放浪と定住を繰り返す。1980年代前半よりバングラデシュやネパールでNGO活動に従事。1989年から96年までODA、NGOボランティアとしてスリランカの都市開発事業に関わる。帰国後、四国学院大学非常勤講師を経て、日本福祉大学大学院博士課程単位取得。パプアニューギニア、ケニアでのJICA専門家を経て、ラオス国立大学教授として現地に2年間赴任。『スリランカ学の冒険』で第13回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞を受賞(初版)。『国際協力のフィールドワーク』(南船北馬舎)所収の論文「住民参加のスラム開発スリランカのケーススタディ」で財団法人国際協力推進協会の第19回国際協力学術奨励論文一席に入選。ほか著作として『パプアニューギニア断章』(南船北馬舎)、共著に『学び・未来・NGO NGOに携わるとは何か』(新評論)など。