鶴見良行私論(1)
 【鶴見和子と俊輔と良行】

 社会学者、吉見俊哉の著作に『アメリカの越え方 和子・俊輔・良行の抵抗と越境』(弘文堂、2012)という本がある。鶴見和子、鶴見俊輔、鶴見良行ら3人が、アメリカをどのようにのり越えたかについて論じている。
 3人の中で最年長者の鶴見和子は、戦前に米国ヴァッサー大学で社会学修士号、戦後にコロンビア大学で社会学博士号を取得している。そのあいだに日本共産党への入党と離党を経験。弟の鶴見俊輔は、日米戦争開戦直前にハーバード大学哲学科を卒業し、和子と俊輔の姉弟2人は日米交換船でアメリカを離れている。戦争が起きなければ、2人のアメリカ滞在はさらに延長されていただろう。しかし、開戦を知って「帰国しなければならない」と思ったのは鶴見俊輔である。俊輔は、アメリカ人としては生きていけない自分に気づいていた。いっぽう鶴見和子は、アメリカに留まっても研究者として生きていける素養を備えていた。和子の日本帰国は、弟の意見や家族の意向を汲み取って帰国している。俊輔は、日本が戦争に負けるときに日本に居なければならないと帰国を決意するが、姉の和子は弟の言っていることが分からなかったようだ。
 その違いが戦後、鶴見和子の日本共産党への入党、離党にも関係している。鶴見俊輔には、最初から日本共産党への入党の意思はなかった。東大出身の党官僚によって運営されている日本共産党を俊輔は批判してきたが、晩年は日本共産党に寛容に変容した。自民党に対抗する政党の必要性を認めたということかもしれない。

 3人のなかで一番若かった鶴見良行は、日本共産党との距離のとりかたについて悩んでいた時期がある。良行が参考としていたのは、和子の終戦後、早い時期での入党、1950年頃の離党にいたる経緯であった。良行は、東大法学部を卒業してから、就職せずに何年間かを過ごしている。

 鶴見良行(1926-94)は、アメリカ・ロスアンゼルス生まれである。ワシントン、ポートランドを経て、満州のハルピンで幼少期を過ごした。満州国で初等教育を受けている。終戦の年をはさんだ期間(1945-48)には旧制水戸高校で過ごしている。入学直後に4カ月の休学に入っているが、その時期休校状態で進学には影響しなかったようだ。1945年8月の終戦を経て、水戸高校での生活を再開している。

 鶴見良行は、3人のなかでは、もっともアメリカを内面化していた。というのは、良行は少年時代をアメリカで過ごしているからである。
 15歳でアメリカに留学した鶴見俊輔は、反抗期の少年時代を日本で過ごしている。米国留学を経て、英語には不自由しないまでにはなったが、頭の中にはいつも日本語があった。
 少年時代をアメリカで過ごし、アメリカの小学校で学んだ鶴見良行の頭の中は、英語がつまっていた。日本語の書き言葉は、良行が努力して身につけた言語である。水戸高校入学時の良行は、アメリカ国籍の離脱について相当なエネルギーをかけて考えていた。高校在籍時にアメリカ国籍を放棄するが、その後、数年のあいだ悩み続ける課題となった。アメリカ国籍があることや政治家・鶴見裕輔を叔父に持ち、父が外交官・鶴見憲であったことを周囲の学友たちには口にできない環境の中で学んでいた。

 吉見俊哉『アメリカの越え方』のなかに次のような記述がある。
「1960年代後半、良行は40歳を過ぎて渡米し、ハーバード大で数年間を過ごすが、そこで彼は、『白人教授たちがフランス・ワインと(ママ)傾けて、論理的にはベトナム戦争に反対しながら、ライフスタイルとして優美な生活をしていること』に反発を覚え、『もうひとつのアメリカ』すなわちアフリカ系アメリカ人やエスニック・マイノリティによって生きられるアメリカに触れてゆく。」(p.160-161)

 上記の記述に関して、鶴見良行がハーバード大学で「数年過ご」したという事実はない。鶴見良行が、ハーバード大学のセミナーに参加したのは事実である。キッシンジャーなどが授業したセミナーであり日本からは作家の大江健三郎も参加している。しかし、それは3カ月のセミナーである。
 もう一箇所の新説は、「鶴見良行は、和子や俊輔とは母方の従兄弟」(P.167)と断定している箇所である。これを読んだ多くの読者は戸惑ったことだろう。鶴見俊輔の父親・裕輔と良行の父親・憲は、兄弟である。父親同士が兄弟である以上、「母方の従兄弟」は間違いである。

 鶴見良行の父親・憲(1895-1984)は、外交官として天津、ロスアンゼルス、ワシントンDCの勤務を経て、一度は東京の本省に戻った後、満州国の一等書記官を経て米国ポートランドの日本総領事館に勤務する。第二次世界大戦の直前は、ハルピン日本総領事、上海の日本大使館勤務を経て、シンガポール総領事を経験する。第二次世界大戦開戦時にはマラッカ州長官としてマレー青年同盟やインドネシア独立運動に外務省機密費を使って工作した。
 鶴見憲の1940年代のマレー半島での秘密工作と、鶴見良行の1960年代のアメリカ兵脱走兵支援活動は、重なる部分がある。その秘密主義的要素である。

 昭和時代に「怪傑ハリマオ」というテレビ番組が高視聴率を得た時代があった。1960年から61年にかけてである。太平洋戦争の直前にマレー半島で活躍した日系人を描いた勧善懲悪の物語。怪傑ハリマオの正体は日本の海軍中尉であり、マレー半島の潜伏スパイであった。怪傑ハリマオを生んだ日本の外交官が鶴見憲である。戦後は、熱海市長なども経験した。



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■庄野護(しょうの・まもる)
1950年徳島生まれ。中央大学中退。学生時代よりアジア各地への放浪と定住を繰り返す。1980年代前半よりバングラデシュやネパールでNGO活動に従事。1989年から96年までODA、NGOボランティアとしてスリランカの都市開発事業に関わる。帰国後、四国学院大学非常勤講師を経て、日本福祉大学大学院博士課程単位取得。パプアニューギニア、ケニアでのJICA専門家を経て、ラオス国立大学教授として現地に2年間赴任。『スリランカ学の冒険』で第13回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞を受賞(初版)。『国際協力のフィールドワーク』(南船北馬舎)所収の論文「住民参加のスラム開発スリランカのケーススタディ」で財団法人国際協力推進協会の第19回国際協力学術奨励論文一席に入選。ほか著作として『パプアニューギニア断章』(南船北馬舎)、共著に『学び・未来・NGO NGOに携わるとは何か』(新評論)など。