鶴見良行私論(11)
【番外編:鶴見良行と四国(2)】

 京都での岡村昭彦(1929−1985)のホスピスとバイオエシックス勉強会の参加者であった香川県在住の渡辺淳氏は、その分野での先駆者のひとりであった。渡辺氏は京都や大阪に通いながらその過程で、アジア学者・鶴見良行に出会うことになる。渡辺氏の知人、宗教学者(新約聖書)・田川建三(1935−、大阪女子大学名誉教授)を通じて、大阪女子大での良行の集中講義を聴講する機会を得た。1983年夏、はじめて良行の集中講義を聞いた渡辺氏は、つぎのように書いている。
「アジアの海と島々をかけめぐり、地べたを這うような仕方で、アジアを見続けてきた男がいる。飄飄とした風貌と、ポンポンと飛び出してくるハリのある声。懐かしい先輩に再会したときのように、その講義に引きこまれ、二日間がアッという間に過ぎ去りました」(『みすず407』1995年2月号、p.67)

 当時、良行は、『週刊朝日』での「マングローブの沼地で」の連載を開始したばかりだった。渡辺氏と良行は、その1年後の84年、香川県善通寺市の講演会場で再会する。それが良行の第1回目の四国への旅となる四国学院大学での講演である。
 良行は、このとき2回の講演をこなした。大学での午後の学生向け講演と、夜の地区労会館での一般市民向け講演である。大学での講演について事務手続きを主導したのは原喜美教授(当時)であった。
 社会学者・原喜美(1916−2018)は、戦後の早い時期にフルブライト留学生としてアメリカの大学院で社会学を学んでいる。社会学が日本で重用されていた時代に帰国し、国際基督教大学(ICU)の教員となる。ICUを定年退職となった後は、フィリピンのアテネオ大学客員教授となり教鞭をとった。良行とは国際文化会館で何度も顔を合わせている。長年の知人であった。

 原が社会学や東南アジア学で果たした役割は、地味だが確かなものである。共著に『家族問題の社会学』(サイエンス社、1981)がある。昭和の社会学者・原喜美らが、平成の社会学者・上野千鶴子(1948−)たちに活動の場を用意したといえる。
 原は、学生一人ひとりの細やかな指導に手を抜かなかった教員である。だから退職を重ねても、次の学校から声がかかって再就職してきた。ICU教授を退職(1981年)まで務め、フィリピンの名門・アテネオ大学(1981−1983)を経て四国学院大学へ赴任し、退職年齢まで勤め上げている。その後香川短期大学に教授として招かれ、そこでも退職年齢まで勤め上げた。さらに1991年10月に沖縄キリスト教短期大学の第5代学長に就任。2期8年を務めている。実に4つの大学で任期を全うしたという経歴をもつ。102歳で死を迎えるまで健康に生きた、生涯、教育者であった。
 原が善通寺市で生活した家屋は、畑の中の一軒家であった。とがった屋根の形が目を引く建物である。画家がアトリエ兼住居として使っていた家らしい。その特徴ある住宅は今も建っている。

 私が原喜美を知るのは、彼女が日本の過疎地へ東南アジアからやってきた移民花嫁の最初の調査者であったことからだ。1988年、地方自治体が率先してフィリピンなどから過疎の農村へ花嫁を斡旋するという社会現象がおきた。四国や東北の農村地帯で、真剣に取り組まれた自治体事業でもあった。徳島県西部の東祖谷山村(ひがしいややまむら)では、村の青年たちが現地フィリピンへ集団で出かけ、お見合いし、翌日結婚した。その後マニラの日本大使館でフィリピン人花嫁に日本人パスポートを作成してもらい、花嫁花婿たちがそろって帰国した。本人たちも支援者たちも、中間に入った業者たちも「まじめに」取り組んだ事業である。当時、四国学院大学文学部社会学科教授の原喜美は、四国・東祖谷の山岳傾斜地農村に嫁いだフィリピン人花嫁たちを訪ね、直接話を聞いている。アテネオ大学教員としてフィリピンで暮らした経験のある原は彼女たちと本音の会話ができた。

 その現場調査が刺激となって、資料集『アジアから来る花嫁たち 村の国際結婚』(南船北馬舎、1988)は生まれた。当時から30年以上が経過している。第一世代のアジア人花嫁たちが「孫」の顔を見るようになった。21世紀の現在、次世代在日アジア人によるアジア人花嫁たちの「聞き書き」調査が始まっている。原が最初に残した足跡は、大きな広がりを持ちつつある。

「『誰も知らぬことが、行われていることは、面白いなあ……』 誰も知らぬことが行われている世界、それこそが<日本人ばなれ>の運動者の棲む場所でした」(鶴見良行「日本人ばなれの生き方について」/『アジア人と日本人』所収、p.47、晶文社、1980)
 この文章は、北京で住み続けた学究・中江丑吉について書かれた文章なのだが、人についての物語を楽しむ良行が理解できる一節である。マニラで大学教授を経験した原喜美が、四国でフィリピン人花嫁と出会う話については、面白がっていたものだ。

 原喜美が四国学院大学社会学科の教授に招かれた当時(1983)は、社会学科長に岡本三夫教授(平和学、元日本平和学会会長、広島修道大学名誉教授)がいた。岡本三夫の配偶者・岡本珠代は東京の国際文化会館での良行の同僚であった。配偶者の岡本三夫は、日本平和学会創設時の1973年前後から良行との接点があった。良行には市民運動としての平和学の構想があった。良行が主体的にかかわってきた反戦平和運動(べ平連:ベトナムに平和を市民連合)の解散は1974年である。べ平連の解散を主導したのは、良行や井上澄夫ら「アジア勉強会」のメンバーたちだ。運動としてのアジア学、平和運動の交流の場としての平和学会を構想していたのが良行ら市民派の平和運動家たちであった。

 岡本三夫ら学会主流派の研究者たちは学問研究としての平和学会の確立を急いでいた。既存の社会学や政治学から独立した平和学研究を目指していたのである。そのことに、良行ら平和運動家たちは異議をとなえていた。平和学は学問研究を優先すべきではないと考え、市民の平和運動を平和学研究に優先するべきとしていた。
 1973年の日本平和学会創設から半世紀が過ぎようとしている。今、この問題を振り返って考えてみることは重要である。市民の平和運動と平和学研究のあり方に再検討が求められている。

 1984年秋に鶴見夫妻が善通寺市の四国学院大学を訪問したとき、日本に平和学を伝えた岡本三夫も配偶者の岡本珠代も一時的に日本にいなかった。岡本三夫はイギリス・バーミングハム大学の客員教授(平和学)として英国に1年間赴任していた。岡本珠代は、バイオエシックス(生命倫理学)研究のため、3人の子供を連れて米国ミシガン州立大学大学院哲学科博士課程に留学中だった。
 そうした時期に善通寺市へ移住してきたのが津田ファミリーである。津田守(現在、大阪大学名誉教授)、津田ヨランダ・アルファロ(現在、神戸女学院大学教授)たちだ。津田守は、四国学院大学文学部社会学科での東南アジア学担当の専任講師としての赴任だった。津田守と共に津田ヨランダ・アルファロさんは主婦として善通寺市にやってきた。長男をマニラで、長女を東京で出産した津田ヨランダ・アルファロさんは、善通寺市で次女を出産することになる。
 この2年後、津田ヨランダ・アルファロさんは大阪で次男を出産する。1985年、津田ヨランダ・アルファロさんは家族とともに善通寺市を離れ、大阪に移住していた。配偶者の津田守が大阪外国語大学助教授(フィリピン語担当)に採用されたからである。その約10年後、津田ヨランダ・アルファロさんは、子供たちを連れてハーバード大学大学院博士課程に留学した。めまぐるしく移動を重ね、4人の子供を出産し育てあげながら、自らの研究を深めていった。

アジアから来る花嫁たち
『アジアから来る花嫁たち』
南船北馬舎・1988年

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■庄野護(しょうの・まもる)
1950年徳島生まれ。中央大学中退。学生時代よりアジア各地への放浪と定住を繰り返す。1980年代前半よりバングラデシュやネパールでNGO活動に従事。1989年から96年までODA、NGOボランティアとしてスリランカの都市開発事業に関わる。帰国後、四国学院大学非常勤講師を経て、日本福祉大学大学院博士課程単位取得。パプアニューギニア、ケニアでのJICA専門家を経て、ラオス国立大学教授として現地に2年間赴任。『スリランカ学の冒険』(初版)で第13回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞を受賞。『国際協力のフィールドワーク』(南船北馬舎)所収の論文「住民参加のスラム開発スリランカのケーススタディ」で財団法人国際協力推進協会の第19回国際協力学術奨励論文一席に入選。ほか著作として『パプアニューギニア断章』(南船北馬舎)、共著に『学び・未来・NGO NGOに携わるとは何か』(新評論)など。