鶴見良行私論(2)
 【1973年、『マラッカ物語』への旅立ち】

『マラッカ物語』(時事通信社、1981)は、アジア学者・鶴見良行(1926-1994)が東南アジアのマレー半島を研究領域とした作品である。この著作は、鶴見良行にとって「アジア学」の最初の研究書となった。研究書という言い方に、異論があるかもしれない。記述方法が学術論文の書き方に従っていない。そこに、専門の研究者たちからの批判が生じてきた。「文献の使い方が……」などの意見である。著者本人は、研究という言い方をさけ、「歴史ルポルタージュ」と称していた。
 日本において、文学系の作家が歴史を扱った作品を上梓し歴史をゆがめてしまうことに、多くの歴史研究者が迷惑だと感じてきた。現在もそのように思っている歴史研究者は多い。しかし、いっぽうで、たとえば司馬遼太郎から学ぼうとした社会科学者も少なくない。鶴見良行もそのひとりである。鶴見良行を社会科学の研究者とすることに異論があるかもしれない。鶴見良行には、雑誌「思想」(岩波書店)に発表した論文があり、その論文は東大教授などの査読を受けている。しかし、良行はそのような学術論文のスタイルから脱して、司馬作品のように多くの読者に考えてもらえるような作品を書こうとしてきた。特定の学会には所属せず、民間学者をつらぬいた。読者の読みやすさを優先した。それでも『マラッカ物語』は、内容的に読者にとって読みやすい作品ではない。

 先に「鶴見良行が学会に所属しなかった」と書いたが、正確には事実ではない。幾度かは学会に所属し、学会員としての年会費も支払ったこともある。また、学会会場にも足を運んだこともある。日本平和学会発足直後の1970年代の会場で「不機嫌な顔をした鶴見良行を見た」という人に私は出会ったことがある。私自身10年間、日本平和学会に所属していたのだが、そこで鶴見良行の噂を何度か聞いた記憶がある。戦後の日本の平和学の流れに、鶴見良行は少なくない貢献をしてきた。ここでは、その詳細にふれない。

『マラッカ物語』(1981)出版の前年に『アジア人と日本人』(晶文社、1980)を刊行している。この本はエッセイ集・雑文集である。原稿の依頼があれば、何でも書いた1970年代後半の原稿を集めた本である。『マラッカ物語』は読みづらい長編作品だが、『アジア人と日本人』は高校生や主婦にも手に取ってもらえる本に仕上がっている。編集者・津野海太郎の編集技術が、この読みやすい書籍を生んだと思われる。『アジア人と日本人』のなかに11ページの小論「バナナ・食うべきか食わざるべきか」(p.138-148)がある。この小論に多くの読者が反応した。版元への読者カードのほとんどが「バナナ・食うべきか」へのコメントだったという。
 予想外の読者の大きな反応に、出版社を越えた編集者のネットワークが、動いた。その結果生まれたのが、『バナナと日本人』(岩波新書、1982)である。だが、本書もアジア太平洋資料センターでの何年にもわたる研究プロジェクトの成果が下敷きになっている。研究チームによる成果があったからこそ、『バナナと日本人』は短い執筆期間で完成させることができた。毎夜、数人での酒を囲んでの編集会議が開かれたという。その翌日の夜には、良行が朝までに書いたという400字50枚をこえる新たな原稿が持ちこまれた。そんな日が何日か続き、脱稿したと聞いた。「1週間で書いた」という話を良行の周辺の人から聞いたことがある。が、私は信じていない。しかし、良行が原稿を書く驚異的な早さは私自身が何度か見ている。書いた文章をそのまま活字に出来るような読みやすい文章だった。

『マラッカ物語』の中に、短い研究メモ「なまこ考」(第2章「海に生きる人びと」p.81-93)があった。その「ナマコ」というテーマは、のちに大著『ナマコの眼』(1990)となる。こうした経過をさかのぼれば、『マラッカ物語』の中に良行の東南アジアについての広範囲な問題意識が散在しているのが読みとれる。「なまこ考」という一節も、『バナナと日本人』を生み出した「バナナ・食うべきか食わざるべきか」と同様に、本文に11ページというほぼ同じ分量で収まっている。偶然の11ページである。私は読者として、そんなところに鶴見良行の執筆作業の偶然を感じてきた。
『マラッカ物語』の書き出しは、次のようにはじまる。
「そもそもの始まりは、10行にも満たない新聞記事である。そこから私は、マラッカ海峡の古代にまで遡る長途の旅にでることになった。」(序章「水爆の運河」)。
 東京で1973年7月10日から12日まで開催された公開の国際会議。そこで、マレー半島の付け根にあるタイ領のクラ地峡に水爆を使って東西の海洋をつなぐ運河計画が主要な議題として論じられた。その会議についての短い新聞記事から、『マラッカ物語』の取材がはじまった。

 1973年は、鶴見良行にとって大きな意味を持つ年である。その年、鶴見良行は、勤め先だった国際文化会館の理事を辞職している。嘱託として元の職場との関係は続くが、良行は「ルポルタージュ作家」への道を歩みはじめていた。
 最初の現地取材旅行は、1973年8月から9月にかけてである。マレーシア・ペナンで国際会議に出席したあと、タイのプケットに飛んでいる。現地に飛んだ良行は、その後もフィールド調査と文献調査を重ね、1981年に『マラッカ物語』を書き上げたのだった。



マラッカ物語
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■庄野護(しょうの・まもる)
1950年徳島生まれ。中央大学中退。学生時代よりアジア各地への放浪と定住を繰り返す。1980年代前半よりバングラデシュやネパールでNGO活動に従事。1989年から96年までODA、NGOボランティアとしてスリランカの都市開発事業に関わる。帰国後、四国学院大学非常勤講師を経て、日本福祉大学大学院博士課程単位取得。パプアニューギニア、ケニアでのJICA専門家を経て、ラオス国立大学教授として現地に2年間赴任。『スリランカ学の冒険』で第13回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞を受賞(初版)。『国際協力のフィールドワーク』(南船北馬舎)所収の論文「住民参加のスラム開発スリランカのケーススタディ」で財団法人国際協力推進協会の第19回国際協力学術奨励論文一席に入選。ほか著作として『パプアニューギニア断章』(南船北馬舎)、共著に『学び・未来・NGO NGOに携わるとは何か』(新評論)など。