鶴見良行私論(11)
【「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」と、鶴見良行】

 1965年、鶴見良行は38歳を迎えている。国際文化会館に就職して10年目であった。この年の2月、ベトナム戦争が拡大した。アメリカ軍が北ベトナムの首都ハノイへの空爆を開始し、地上軍を増強したのだ。宣戦布告なきベトナム戦争は、新たな段階に入り、世界中でベトナム戦争反対運動が巻き起こった。日本でも「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)が生まれ、政党に関係しない無党派市民が動き出した。2月に結成準備がはじまり、4月に正式に発足した。良行は、ベ平連の運動に最初から参加し、1974年の解散まで活動した。
 1965年4月22日に最初の月例デモが行われた。この月例デモは以後、天候に関係なく毎月呼びかけられた。集合地は、東京の清水谷公園である。私も何度か参加したことがある。ベ平連結成の呼びかけ人には、良行の他に鶴見俊輔、小田実、開高健、高畠通敏、久保圭之介らが名を連ねていた。久保圭之介は初代の事務局長である。久保はのちにアメリカ兵の脱走兵支援運動で良行と共に重要な役割を担うことになる。ベ平連という名前を考えたのは、政治学者・高畠通敏であった。良行は、ベ平連のなかで「外務省」の役割を担うことになる。アメリカなど外国の反戦運動との連絡業務である。

 べ平連が発足して間もなくの1965年6月、良行はアメリカへ向かっている。その途中、南ベトナムのサイゴンに6日間滞在した。渡米の目的は、ハーバード大学で2カ月間開かれるベトナム問題の国際会議(セミナー)への出席である。セミナーの主催者は、ヘンリー・キッシンジャー教授(1923‐)であった。ニクソン政権およびフォード政権期の国家安全保障問題担当大統領補佐官、国務大臣を務めた。セミナーには、日本から他にも参加者がいた。小説家・大江健三郎もそのひとりである。アメリカはベトナム戦争に反対する日本の知識人を増やしたくなかった。このセミナーの招待に多額の費用をかけたのは、いわば、ベトナム戦争へのアジア知識人対策でもあった。

 良行のもとにはノーマルチケットが送られてきたのだろう。良行は飛行機の切符を変更して、台湾、香港を経由して南ベトナム(当時)のサイゴンへ向かう。サイゴン滞在は、6月17日から22日までの6日間だった。南ベトナム訪問後はタイ、インドを経て、イタリアなどヨーロッパを経由してアメリカ・ボストンにたどり着いている。(吉岡忍「新しい運動の時代感覚と思想」/ 草高木光一編著『べ平連と市民運動の現在』所収、p.38、花伝社、2016)
 このとき良行は、「ちょっとだけ」のベトナム体験と思っていたかもしれない。しかし、この6日間の滞在で、良行はサイゴンで生涯忘れることの出来ない体験をする。サイゴン市内最大の市場前の広場で行われた若いゲリラ兵士の公開処刑を目撃したのだ。その体験がその後の鶴見良行を方向づけた、といえるだろう。

 日本に帰国したあとの良行は、ベトナム反戦運動の活動家になってゆく。本人にもその自覚が芽生え、周囲の人々の目にもそう映るようになる。良行を「常識左翼」と呼んだ評論家(森秀人)がいたが、良行は気にしていなかった。市民活動家としての良行が目に見えるかたちで日本社会に登場するのは、最初の脱走アメリカ兵4人が現れたときだ。1967年10月のことである。

 ベ平連の運動は、日本全国での月例街頭デモに加え、米軍基地周辺では英語のビラを配布し、ときには米兵に「脱走」を呼びかけていた。しかし、本当に脱走兵が出るとは誰も想定していなかった。ところが、1967年10月、日本国内の米軍基地から本当に米兵が脱走してきた。「インスピレットの四人」といわれる最初の脱走米兵である。「インスピレット号」は、米軍の空母の名前である。北ベトナム爆撃に向かう途中、寄港中の横須賀から4人が脱走し、べ平連に援助を求めてきたのだった。(吉岡忍・鶴見俊輔『脱走兵の話‐ベトナム戦争といま‐』p.11、編集グループSURE、2007)

 最初の脱走兵4人が出現したときの経過が、『脱走兵の話』(p.63-64)にしるされている。
 作家の小田実が九州の佐世保まで行き、ボートをチャーターして航空母艦の周りをまわって英語で「脱走しろ」とメガホンで呼びかけた。小田のそばには吉川勇一が同行していた。彼らは、脱走兵が本当に現れると思っていなかった。脱走の呼びかけをしてみようと思ってやったにすぎない。京都の自宅に戻っていた俊輔は、吉川から電報を受け取る。京都の鶴見宅には、まだ電話がひかれていなかった。電電公社に電話の設置を申し込んでも半年、1年と待たされる時代であった。俊輔は、良行に電話をするため喫茶店にでかける。良行はべ平連事務所にいた。
「『脱走、脱走』っていうのはよくないから、これから『そば屋』っていうことにしよう」と良行が言い、俊輔は同意した。俊輔が電話をかけていたのは、植物園近くの喫茶店「オーク」だった。「そば屋の話」に熱中する鶴見俊輔教授に学生たちは変だと感じ注視していたという。

 アメリカ軍の航空母艦「インスピレット」の乗員4人が日本で脱走兵となったときからの一週間はべ平連関係者にとって怒濤の1週間になった。
 経緯はこうだった。
 1967年10月26日夜、11時。新宿の音楽喫茶風月堂の前で、当時東京大学の学生であった山田健司(1947-)が、風月堂から出てきた2人のアメリカ人に声をかけられる。
「安く泊まれるところはないか」。彼らが手にしていた所持金は130円であった。
 彼らを山田健司は、自分のアパートに泊める。深夜に山田は自分の友人を呼んだ。アメリカ兵を名乗る彼らから「脱走」という話が出たからだ。翌10月27日朝、さらに別の山田の友人2人がアパートにやってきて2人の米兵と語り合った。脱走兵との最初のコンタクトは、そのように始まった。
「脱走の意思を公表したい。ただし、政治団体はいやだ」というのが彼らの希望だった。(関谷滋・坂元良江編『となりに脱走兵がいた時代』p.12、思想の科学社、1998)
 10月28日、山田健司らと2人の脱走米兵は東大の駒場キャンパスに移動した。山田らは、演劇をやっておりその稽古場ならベ平連との接触も安全だろうと思ったという。山田はべ平連事務所に電話して、「本物かどうか確かめてほしい。FBIの逆スパイという可能性もある」と連絡する。
 午後4時に鶴見良行と吉川勇一(べ平連)事務局長がやってきて、2人に約1時間のインタヴューをおこなった。良行、吉川は米兵のことを信頼したようで、彼らの居場所を本郷に移すことになる。午後8時に米兵たちをべ平連に引き渡した。だが、この時点でさらにもう2人の脱走米兵が新宿の喫茶店・風月堂にいた。彼らも夜11時過ぎには山田が新宿に迎えに出てなんとか保護した。そうした経過のやり取りで、山田健司らが使った暗号は、「豆腐屋の一軒で」だった。この「豆腐屋」という用語は、俊輔と良行のあいだでは、「そば屋」に変わる。

 良行は、池袋にあった自宅に4人を匿い、鶴見宅は記者会見などの映像記録の舞台となった。もちろん、映像は、場所が特定されないよう工夫した。脱走兵を匿うことは、それまで守ってきた市民生活の規律の限度を越えるものと意識されていた。なぜなら、アメリカ軍を脱走した4人の兵士たちは、アメリカ国家に反逆した犯罪者であったからだ。犯罪者を匿った良行たちもまたアメリカ国家への犯罪者と見なされる。そう良行たちは考えていた。最初の時点で良行たちは、日本社会で脱走兵を匿うことがどんな犯罪に相当するのかという自覚はなかった。ただ、アメリカ国家への犯罪である以上、日本国家も許さないだろうと認識していた。「だから、脱走兵を援助するわれわれ自身も逮捕される可能性があると思っていた」と鶴見俊輔は語っている。(『脱走兵の話』p.15)
 結果的に日本国には脱走兵支援を処罰する法令がないことが分かる。しかし、アメリカ国家に反逆した事実は残り、それが将来どのような結果をもたらすのかという判断は難しかった。それでも、脱走アメリカ兵を匿い、安全な国に逃がすことを良行らは自分たちのなすべき活動と考えた。

 脱走兵4人が自ら語った話は、映画「インスピレットの四人」(製作:ベ平連、40分、1967)として記録に残された。映画には11月1日付けの新聞朝刊が写る。撮影日(10月31日)を特定するために映された映像である。映画は、1967年11月中に公開された。映画の中では、作家開高健が、他の3人の日本人(日高六郎、鶴見俊輔、小田実)と共に写り、発言している。
 4人の脱走兵たちは、横浜からソ連商船に乗ってソヴィエト・ロシアを経由してスウェーデンに逃れた。

 現在インターネット上に掲載されている武藤一羊「鶴見良行とベ平連」に、1967年の鶴見良行の果たした役割が描かれている。
「脱走兵援助という当時の運動常識にないことをべ平連が手がけたとき、鶴見は池袋の自宅マンションを初期のアジトとして提供した。ソ連経由で四人の米兵脱走兵をスウェーデンに逃がす計画が決まったとき、東京で記者会見を行って事実を公然化する必要を強調したのは鶴見良行だった。モスクワは、脱走兵を、米国との対決という点では利用できるものとして評価するだろう。だが国家という立場からは兵士の脱走は忌むべき重罪だ。国家としてのソ連は兵士の脱走一般を許容したくない。だからどうでるかは分からない。ソ連に着いて行方不明になるかもしれない。その危険を未然に防ぐためには、脱走兵援助の事実を東京で公開して、モスクワの手を縛るべきだと彼は強く主張した。みなが同意しそれが方針となった」(武藤一羊『帝国の支配/民衆の連合』社会評論社、2003)

 その後、脱走兵は次々と現れた。当初は、ソヴィエト・ロシア経由で北欧の国(スウェーデンなど)に亡命させていた。やがてソヴィエト・ロシアは、軍事機密を持たないアメリカ兵への援助を拒絶するようになる。その結果、北欧の国への亡命は困難になった。中国は、アメリカとの関係悪化をおそれ、当初から脱走米兵の受け入れを拒絶した。北朝鮮へ行った韓国系アメリカ人兵士ひとりは、やがて消息不明となる。どの社会主義国も反戦運動に対してあてにならないことが分かってきた。そのことを知った脱走兵援助にかかわる日本の市民たちは、社会主義国に幻想をいだかなくなる。ヨーロッパで社会主義国が崩壊する20年以上前のことである。

 べ平連は、1974年に「解散」した。日本の市民運動や政党の歴史の中で、ベ平連のように話し合いで、争いもなく、平和裏に解散した例は、かつてなかった。若い世代が「解散」の主導権をとった。吉岡忍や井上澄夫といった人たちである。脱走兵支援運動の中で育った若い人材が、ベ平連の解散を促したともいえる。解散の理由と目的は、ベトナム戦争が市民運動の主要なテーマでなくなりつつあり、公害輸出を反対する運動や反日貨運動の市民運動と連帯することに向かうためであった。日本の市民運動が、このような形で発展的に解散した例はほとんどなく、その意味で脱走兵支援運動は日本の新しい歴史をひらいたともいえるだろう。

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読者の方より、本文中の事実関係におきまして誤っているとのご指摘があり、訂正いたしました。申し訳ございません。該当箇所はアンダーラインを施しております。参考文献といたしまして、鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二『戦争が遺したもの』(新曜社、2004)、黒川創造『鶴見俊輔伝』(新潮社、2018)のご紹介がありました。以上、ご報告申し上げます。2021.8.22


となりに脱走兵がいた時代
関谷滋・坂元良江編
思想の科学社・1998年
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■庄野護(しょうの・まもる)
1950年徳島生まれ。中央大学中退。学生時代よりアジア各地への放浪と定住を繰り返す。1980年代前半よりバングラデシュやネパールでNGO活動に従事。1989年から96年までODA、NGOボランティアとしてスリランカの都市開発事業に関わる。帰国後、四国学院大学非常勤講師を経て、日本福祉大学大学院博士課程単位取得。パプアニューギニア、ケニアでのJICA専門家を経て、ラオス国立大学教授として現地に2年間赴任。『スリランカ学の冒険』(初版)で第13回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞を受賞。『国際協力のフィールドワーク』(南船北馬舎)所収の論文「住民参加のスラム開発スリランカのケーススタディ」で財団法人国際協力推進協会の第19回国際協力学術奨励論文一席に入選。ほか著作として『パプアニューギニア断章』(南船北馬舎)、共著に『学び・未来・NGO NGOに携わるとは何か』(新評論)など。