「フィールドノート」を読む(鶴見良行私論)

 めおと旅(2)共同作業者としての千代子夫人
 1990年9月の癌摘出手術のあと、良行の国内外の旅のすべてに同行していたのは、夫人の鶴見千代子である。
 50歳をこえて鶴見夫妻が学び始めたインドネシア語は、千代子のほうが良行よりも上達が早かった。旅を重ねるに連れて、千代子のインドネシア語による会話力、取材力は向上していった。

「ヨメさんが海外旅行に連れて行けとせがんだことなどない」(「めおと旅」『思想の科学』1994年12月号所収)と書いている。いっぽうの千代子は、「私の仕事は鶴見良行」と言っていた。千代子は自分のことよりも良行を優先して生きた。良行が大学を卒業しても仕事に就かず、無職だったころに千代子は良行と結婚している。就職とか出世を夫に求めたことはない。そんな千代子が良行の旅に同行するようになったのは、良行の仕事に対する千代子自身の役割が自覚されたからだろう。

 東大法学部を卒業直後に結婚した良行は、1950年代半ばの29歳まで就職しなかった。編集者や通訳、研究助手などのアルバイトをしていた。意識的なフリーターだった。そんな良行を一貫して励まし続けたのが千代子である。代々木初台(1953年〜)や南千住(1957年〜)に居住していたころ、千代子は内職のような仕事をして家計を支えたこともあったらしい。1960年代になって南池袋の公団アパートに移って以後も千代子が自宅で内職をすることはあったようだ。

 良行と千代子の結婚について、父方のいとこにあたる鶴見俊輔が次のように書いている。
「一九五二年三月、東大法学部法律学科を卒業し、五月、安竹千代子と結婚。
 この結婚の申しこみを良行に託されて、私は、安竹さんの両親をおとずれた。その時の両親の返答がはっきりしたものでなかったので、良行は、私のきりだしかたが、不良性をおびていたからだと、怒った手紙を私あてに書いている。両親は承諾した。
 この結婚は、彼の生涯のもっとも成功した事件である」(鶴見俊輔「解説/この道」『著作集1』所収、p.293-294)
 次に続く文章は、印象深い。
「活字になった彼の仕事を、ことに晩期の仕事の質をつくったのも、この結婚にある」(前掲書)

 鶴見千代子がつくった鶴見良行の「仕事の質」とは、なにを意味するのだろうか?
 英語で高等教育を受けた鶴見俊輔には、「仕事の質」は欧米文化の文脈で理解されている。数量化できない情報は「質的情報」として認識されている。私のような読者は、良行の「仕事の質」をどう理解すればよいのだろうか? これは長い間の課題だった。今回、フィールドノート(『著作集11、12』)をあらためて読み返すことで、良行の「仕事の質」を理解するヒントを得たような気がする。

 1983年までのフィールドノートと、84年のフィールドノートに「仕事の質」の変化が感じられる。1983年7-9月の「サバ、スラウェシ、テルナテの旅」(『著作集11』)には、備忘録のようなメモの記述がある。

 8月16日 ウジュンパンダン
 千代子に伝えるべきこと
 (1)今、ウジュンパンダン、ラーマヤナ・ホテル。明日から旅行。22日頃にもどる。23日夜に電話する。
 (2)東京発のガルーダ、日、時間、便名、フライト・ナンバー。翌日のウジュンパンダン行きのガルーダ便、もし東京で予約が取れているのであれば知らせる。
 「ホテルは帯に短し、襷に長し」どれにするか迷っている。物価は思っていたよりかなり高い」

 以下、(3)(4)(5)は、簡略化して記す。
 (3)スーツケースが壊れて、代わりのカバンの持参を千代子へ依頼。
 (4)蚊が多く、千代子へ蚊取り線香持参の依頼。
 (5)千代子と共にやって来る野上龍雄・節子夫妻の健康確認。

 上記の1983年の旅は、7月27日に開始されている。東マレーシア、インドネシア・ジャワ島を経て、8月15日のスラウェシ島を訪れている。この時はじめてホテル・ラーマヤナに泊まった。以後の調査旅行に影響を与えることになるホテル・ラーマヤナでの滞在である。
 フィールドノートには、ホテル・ラーマヤナの見立てに、「帯に短し、襷に長し」の言葉をひいている。84年のフィールドノートには、別のホテルについて「帯に短し……」としるし、ホテル・ラーマヤナは悪くないと書いている。このような記述の不統一に、私は好感を持つ。どんな時に、だれと滞在したかで宿泊ホテルの印象は変わるものだ。83年の最初のホテル・ラーマヤナ滞在時には、千代子は参加していなかった。旅の後半から参加している。84年の滞在時には最初から千代子が同行していた。

 メモ的な記述は、1984年のフィールドノートから明らかに減少している。編集・校正作業を考慮しても、全体の文脈の変化が垣間見える。鶴見俊輔が『著作集1』の解説で書いているように、良行の「仕事の質」の変化には、千代子の関与があったようだ。
 1984年の旅では前述したように千代子は最初から行動を良行とともにしていた。陸路と海路を使いこなしてブトン島へたどり着いている。ひとりなら面倒な行路も、千代子や内海愛子が同行していたことで、難なく目的地のブトン島にたどり着けている。その旅でスラウェシ島周辺の文化や言語の多様さを実感できた。その体験をしたことで、村井吉敬との調査研究は一段階前に進んだ。それを良行の「仕事の質」の変化と私は理解した。

 千代子は良行のアジア学研究の共同作業者となっていった。千代子のインドネシア語能力も向上していく。二人には、調査旅行には共に出かけるという意識が生まれていた。そのことがフィールドノートから感じ取れる。

 1991年でのサバ州で鶴見夫妻は、次のような体験をする。
「3年前コタキナバルのサバ州文書館に通って1910年代の移民資料を二人で読み漁っていた。XEROXが故障していてノートに手書きで写さなければならなかった。彼女がいきなり叫んだ。『あなたこんな面白いことしているんならガンになったって同情しないわ』」。(「めおと旅」『思想の科学』1994年12月号所収、『著作集10』p.223)

 1990年9月に良行は国立京都病院(現・京都医療センター)で食道と胃の癌を摘出する手術を受けた。12月20日に退院。翌91年1月には龍谷大学での講義を再開している。3月にはフィリピン、シンガポールに出かけた。消化器官の機能が充分に回復せず、フィールドノートの執筆が困難となった。手書きのフィールドノートの終焉は、癌の手術以降の体力の低下によるものだった。それでも良行は旅を続けている。記録はテープレコーダへの吹き込みとなった。

 1994年10月27日、オーストラリア(パース、ココス島)を旅行。11月7日帰国。3回目のココス島訪問だった。それまでの良行の旅のリズムからすれば、明らかに過剰なものだった。「何かにあせっていた」ように感じていた周囲の人々はいた。限界への挑戦のようにも見えた。
 同年11月25日、香川県立多度津工業高校で「日本の港」のタイトルで講演。千代子も香川へ付き添っている。12月15日、龍谷大学大学院経済学研究科で「国際関係論」の講義。体調が悪くなり、講義を早めに切り上げている。翌16日、急性心不全のため、自宅にて永眠。
 
 最後の著作となる『ココス島奇譚』(みすず書房、1995)の取材旅行では、フィールドノートは残していない。読書カードとメモ(備忘録)をもとに執筆した『ココス島奇譚』は未完のまま刊行された。大量の読書カードは残されている。


「思想の科学」1994年12月号
『思想の科学』
1994年12月号

ココス島奇譚
『ココス島奇譚』
みすず書房・1995年
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■庄野護(しょうの・まもる)
1950年徳島生まれ。中央大学中退。学生時代よりアジア各地への放浪と定住を繰り返す。1980年代前半よりバングラデシュやネパールでNGO活動に従事。1989年から96年までODA、NGOボランティアとしてスリランカの都市開発事業に関わる。帰国後、四国学院大学非常勤講師を経て、日本福祉大学大学院博士課程単位取得。パプアニューギニア、ケニアでのJICA専門家を経て、ラオス国立大学教授として現地に2年間赴任。『スリランカ学の冒険』で第13回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞を受賞(初版)。『国際協力のフィールドワーク』(南船北馬舎)所収の論文「住民参加のスラム開発スリランカのケーススタディ」で財団法人国際協力推進協会の第19回国際協力学術奨励論文一席に入選。ほか著作として『パプアニューギニア断章』(南船北馬舎)、共著に『学び・未来・NGO NGOに携わるとは何か』(新評論)など。