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「歩くことは学ぶこと」3(『辺境学ノート』の帯文より) 1984年、エビ研究会の東インドネシア調査旅行(『辺境学ノート』1988)の途上、鶴見良行の父・鶴見憲(1895-1984)危篤の知らせが入った。東京の兄弟たちと連絡を取り合いながら良行が帰国のタイミングを図っていた様子がノートに残されている。携帯電話などなく、主要な港町に着かなければ電話もできない時代であった。 1984年7月20日ウジュン・パンダン(スラウェシ島)での記載。 「電話局から東京の妹へ電話。父(鶴見憲:引用者註)の具合があまり芳しくないので早く帰れとのこと。とりあえず、千代子に予定を早め、20日に帰ってもらうことにする」(『辺境学ノート』p.90) 1984年8月5日ウジュン・パンダン(スラウェシ島)での記載。 「パレパレ、トラジャ方面への旅を終えて、一日の休息、洗濯、日記の整理など。インドネシアの近代と前近代について考える。 夜、電話局から東京に電話。父が八月中は持ちそうなことをきく。予定通り、カリマンタンへ向かうことを告げる」(『辺境学ノート』p.144-145) 8月15日には次のように書いている。 「バンジャルマシンで乗り換え、六時(コタバルから:引用者註)ジャカルタに達した」(『辺境学ノート』p.188)。8月18日の臨終には間に合ったようだ。 外交官だった父・鶴見憲(1895-1984)に言及した記述については、『マラッカ物語』(1983)のあとがきにも出てくる。 「父が太平洋戦争開戦直前のシンガポール総領事、占領期の初代マラッカ司政長官である。大佛次郎の『帰郷』は、同窓である作家が父の官邸に滞在中に発想を得たのだ、ときいた。だがそうした個人的因縁は、本書の執筆とさしてかかわりがない」(p.441)と、父については素っ気ない。 家族について書かない人だった。語ることもなかった。ただ、妻・千代子さんについては、特別だった。千代子さんと一緒に旅をし、共に学ぶようになって(1982年以後)からは旅日記に千代子さんの登場が増える。 良行の従兄の鶴見俊輔(1922-2015)は、父・鶴見裕輔(1885-1973)や母・鶴見愛子について繰り返し書いている。対談で語ることもあった。しかし、俊輔より4歳年少の良行は、自身の育った家族について書くことも話すこともほとんどなかった。 良行は1926年にアメリカ・ロスアンゼルスに生まれた。父・鶴見憲が在米領事館に勤務していた時期である。父がオレゴン州ポートランド領事の頃、良行は現地の小学校に入学している。アジア人の子供は良行だけだった。 1932年、鶴見憲は満州国の日本大使館一等書記官に就任し、新京(現在の長春)に赴任する。当時、東京の小学校に通っていた良行は、満州・新京の小学校に転校した。そこで、満州国官僚の子弟や白系ロシア人の子供たちと共に学び遊んだ。のちのち良行が父の赴任先に同行しなくなるのは、旧制中学への進学準備のためである。 小学校で転校を繰返した良行の学び方や、友人との付き合いは、その後の人生に影響を与えたと思われる。しかし、アメリカや満州での小学生時代についてほとんど書き残していない。ただ、良行が酒を飲んだとき、満州時代に耳にした歌について語ることはあった。 鶴見憲の赴任地は、天津(1922)を振り出しに、ロスアンゼルス、ワシントンD.C.、新京(長春)、ポートランド、ハルビン、上海、マラッカ、そしてシンガポールの日本総領事として敗戦を迎えている。戦前、これだけ多くの勤務地をこなした外交官はまれであろう。彼が「特命」外交官だったといわれるのは、誇張ではない。 1942年に鶴見憲が関与したとされるマレー民族の独立運動支援工作がある。戦後の1960年代日本テレビ系で放送された『怪傑ハリマオ』(放映1960-61、原作・山田克郎)というテレビ映画が人気を博した。「怪傑ハリマオ」=「マレーの虎」には、谷豊という実在のモデルがいた。日本人工作員である。谷と接点を持ったのが、外交官・鶴見憲であった。当時、マラッカ司政長官を務めていた。マレー半島で活躍した日本人の首領・谷豊は、日本の外務省から活動資金を得ていたようだ。そうした事柄のゆえに、鶴見憲は多くを語り残していない。 戦中にも同じく谷豊をモデルにした大映映画『マライの虎』(1943)が日本で製作・公開されている。戦争宣伝のための国策映画である。この文化事業にも鶴見憲が関与したとされる。戦後、松竹映画『ハリマオ』(1989)が製作・公開されているが、この作品はフィクションで、歴史的な時代考証はなされていない。 鶴見憲は、終戦直後に外務省を退職し、熱海市長を務めた。その後は、兄・鶴見裕輔(後藤新平の義子)の政治活動の支援を生きがいとしていたらしい。裕輔は総理大臣をめざすほどの政治家だった。しかし、戦後政治の変化にはついていけず、憲の出番もなかった。 公開はされていないが、鶴見憲は日記を残している。この鶴見憲の日記と良行のフィールドノートには、その記述の仕方に関連があるのではないか。これは私の想像だが、良行の東インドネシア旅日記に至る筆記技術の出発点は、父の仕事ぶりにあったのかもしれないと思うのだ。提示できる証拠はない。しかし、父が多くの勤務地を経験し、本省へ数多くの重要な調査報告書を書き送っていた。その仕事ぶりを見て良行は育っている。父から学んだものが必ずやあったはずである。良行は、東大法学部卒業(1952)時には、ほぼ完成された筆記能力を身につけていた。 良行の書く能力について、従兄の鶴見俊輔が次のように書いている。 「もし彼(鶴見良行、引用者註)が彼の父とおなじく外交官試験をうけて、外務省に入ったら、書記として英語・日本語両方の会議作成に重宝され、官僚としての昇進を重ねていただろう」(鶴見良行『著作集1「出発」』鶴見俊輔による「解説」P.299、みすず書房、1999) |
『辺境学ノート』 鶴見良行 著 めこん・1988年 |
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■庄野護(しょうの・まもる) 1950年徳島生まれ。中央大学中退。学生時代よりアジア各地への放浪と定住を繰り返す。1980年代前半よりバングラデシュやネパールでNGO活動に従事。1989年から96年までODA、NGOボランティアとしてスリランカの都市開発事業に関わる。帰国後、四国学院大学非常勤講師を経て、日本福祉大学大学院博士課程単位取得。パプアニューギニア、ケニアでのJICA専門家を経て、ラオス国立大学教授として現地に2年間赴任。『スリランカ学の冒険』で第13回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞を受賞(初版)。『国際協力のフィールドワーク』(南船北馬舎)所収の論文「住民参加のスラム開発スリランカのケーススタディ」で財団法人国際協力推進協会の第19回国際協力学術奨励論文一席に入選。ほか著作として『パプアニューギニア断章』(南船北馬舎)、共著に『学び・未来・NGO NGOに携わるとは何か』(新評論)など。 |
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