「フィールドノート」を読む(鶴見良行私論)

 「歩くことは学ぶこと」1(『辺境学ノート』の帯文より)
 鶴見良行(1926-94)が残したフィールドノートは20冊あるが、現在は埼玉大学共生社会研究センターの鶴見良行文庫(2005-)に収蔵されている。そのうち生前に活字化され出版されたものに『辺境学ノート』(めこん、1988)、『アラフラ海航海記』(徳間書店、1991)の2冊がある。没後に刊行されたものとしては『エビと魚と人間と 南スラウェシの海辺風景─鶴見良行の自筆遺稿とフィールド・ノート』(みずのわ出版、2010)がある。これは良行の手書きノートをコピーした書籍で、良行の思考の経路を筆跡でたどれる本となっている。
 以上に加えて、『鶴見良行著作集11「フィールドノートⅠ」』(みすず書房、2001)、および『著作集12「フィールドノートⅡ」』(2004)がある。『著作集11』の前半部分に『辺境学ノート』以前の1982年と83年の旅日記が収録されている。82年のフィリピン・ミンダナオ島への旅と、83年のジャワ・バリ島紀行である。これらの旅は(ほぼ)単独行であった。
 後半には、1984年から86年までの『辺境学ノート』(1988)の旅日記が地域別に読みやすく編集されて収められている。84年以降の東インドネシアへの旅は村井吉敬ら「エビ研究」グループでの調査旅行だった。

 良行の手書きのフィールドノートは、文字は小さいが可読性は高い。各所に手書きの地図や小さなパンフレットの切り張りなどがある。配列と構成は、計算されて書かれたかのように読みやすい。個人的な日記ではなく、将来ひとに読まれることを意識して書いていたと思われる。

「フィールドに出るには、知力と気力が必要だ。何を見て何を考えるのか、鶴見さんは、十分な事前調査と資料の収集に余念がなかった。日本で研究の蓄積の薄い分野であるため、英語文献の渉猟は欠かせない。地図も読み込む。船旅の場合は、水産庁に海路地図も買いに出かけた。事前の研究と現場での発見が、旅のおもしろさを何倍にもする。そして、一見、何でもないような細かなこと(引用者による下線)でもとにかく記録する。それが後で生きてくることがある。その記録が、日本での研究に弾みをつける。これを鶴見さんはくりかえしていた」(『著作集11』p.382、内海愛子「解説」旅は気力と知力と体力 同行者が見た鶴見良行)
 上の引用は、『辺境学ノート』(1988)の旅で同行者だった内海愛子による解説である。東インドネシアを数度にわたり旅を共にしてきた。

 最初にフィールドノートを『辺境学ノート』(1988)として書籍化することを企画したのは、出版社めこん社長・桑原晨と聞いている。
「アジア学を志す次世代の人たちに参考となるような形で、フィールドノートを公開する」(「まえがき」の要約)
ことが目的であった。「私がノートを発表するのは、アジアを歩く若い人たちに期待しているからである」と良行は書いている。当時、良行はすでに自らのフィールドノートを刊行することを思い描いていたようだ。

「私は若い人たちから『鶴見さんは、どういう勉強の仕方をしているのか』という質問をよく受ける。(略)私の仕事は三つの作業から成り立っている。フィールドノートと読書カードと写真である。作品に使う情報量としては、たぶん読書カードがもっとも多いだろう。(略)写真とフィールドノートは、記録の手法としてはまったく違うが、その利用法、つまり再自覚化、作品化という作者の成長については、いくらか似たような性格があるかもしれない。これが、ノートを公刊する私の意図である」(「まえがき」『辺境学ノート』)

『辺境学ノート』を企画しためこん社長の桑原は、JICA(当時の国際協力事業団、現在の国際協力機構)青年海外協力隊の日本語教師としてラオスに赴任し、1970年から71年までの約2年間を首都ヴィエンチャンで過ごしている。同じ頃にヴィエンチャンにいたのが、その頃からの知人・星野昌子(1932-)である。星野は青年海外協力隊の初代隊員(1965)としてラオスに日本語教師として赴任した。その後、ラオス語の能力が評価され、星野は在ラオス日本大使館で大使秘書としてラオス語通訳を務めた。この大使館勤務時代(1968-71)が、桑原のヴィエンチャン時代と重なり、2人の交友が始まる。

 1980年代の星野昌子は、民間国際協力の現場に立ってきた。日本のNGO活動を切り拓いた一人である。のちに敬愛大学教授を務めた。昌子の連れ合いが、星野龍夫(1940-)である。学会や大学からも距離を置いて独自に研究活動してきた人類学者である。東南アジアでの研究滞在歴は、十数年に及ぶ。論文をフランス語で書くだけでなく、タイ語とラオス語に通じ、80年代からタイ文学の多くの訳書や著作(共著『食は東南アジアにあり』ちくま文庫、1995)にかかわってきた。

 良行と星野龍夫は、勁草書房・井村文化事業社という場を共有していた。星野の最初の翻訳『東北タイの子』(1980 )と、良行の共訳書『フィリピン民衆の歴史4』(1980)は同時期に勁草書房内で編集作業が行なわれていた。星野は以後、数冊の翻訳本を勁草書房・井村文化事業社より出版している。星野の翻訳本がなければ、一般の読者がタイ文学の全体像を知るのは難しいことであったろう。

 星野昌子・龍夫が示したタイ語とラオス語の語学水準に挑んだのが、良行の弟子であった赤嶺綾子である。赤嶺は、龍谷大学経済学部の2年次(1989)から大学院を通じて6年間、良行のもとで学んだ。雑誌『思想の科学』の「鶴見良行追悼号」ともいえる1995年9月号「特集・歩く学者たち」には、赤嶺の寄稿した文章が残る。
「鶴見先生と学生の関係は教師と学生の教える・教えられる関係ではなかった。先生は、学生のフィールドでの小さな発見でさえもと共に驚き、楽しみ、また、学生の幼稚な疑問や無知をバカにせず、共に学ぶ姿勢で接して下さった」(『思想の科学』1995年9月号、p.83、赤嶺綾子「鶴見良行先生の授業風景」)

 赤嶺は、タイやラオスでの現地調査研究活動の途中でラオス語の能力を外務省に認められ、外務省の語学専門職員となる(1995)。良行の死(1994)の翌年である。星野昌子がラオスの日本大使館付けラオス語通訳になって35年後のことだ。先駆者の星野昌子がいたことで、赤嶺は自力で外務省専門職にたどり着いている。

 いっぽう、星野龍夫がいなければ、井村出版事業社(勁草書房)からのタイ文学の翻訳作業は、何年も遅れていたと思われる。勁草書房社内の井村出版事業社は、勁草書房の初代社長である井村寿二(1923-88)と良行が企画して立ち上げた出版社である。赤字になったときに、井村が責任を負うという意味合いで別会社とした。星野龍夫には、多数の訳書があるが、代表作は『濁流と満月 タイ民族史への招待』(写真・田村仁、弘文堂、1990)である。タイ語やラオス語の古文書にも通じる星野だけが書ける歴史人類学の書であろう。中世東南アジアで、「ジャワ」がどこにあったかについての論考は、これからアジア学を学ぶ人にとって必読文献である。

 星野昌子・龍夫の際だった語学水準を知るめこんの桑原社長は、自らの出版社からタイ語やインドネシア語の正統な語学書を出版してきた。さて『辺境学ノート』(1988)もその「めこん」からの出版である。担当の編集者は、藤林泰。藤林は、1982年頃にフィリピンで良行と出会っている。
「フィリピンで日本語を教えていた藤林泰さん(略)にお世話になった。感謝します」
(鶴見良行『海道の社会史 東南アジア多島海に人びと』「あとがき」朝日選書、1987)

 鈴木静夫(1984)の「あとがき」にも編集者・藤林泰についてのこんな一文がある。
「勁草書房の井村寿二社長と藤林泰氏には、編集上貴重なご示唆をいただいた」(鈴木静夫・横山真佳編著『神聖国家日本とアジア 占領下の反日の原像』鈴木静夫による「おわりに」、勁草書房、1984)

 藤林(1948-)は、日本語教師として滞在したフィリピンから帰国して勁草書房にしばらく席をおいた。勁草書房内での藤林は、編集者として鈴木静夫、鶴見良行、井村寿二の人間関係を近くで見ていただろう。この3人の関係を知る数少ないひとりである。

 のちに、編集者から研究者となる藤林は、『かつお節と日本人』(岩波新書、2013)の共著者となった。その本は、良行らの「バナナ研究会」「エビ研究会」「ヤシ研究会」のあとを継いだ「カツオ節研究会」による10年をこえる研究成果として書かれている。

「研究会のメンバーの多くは、『バナナと日本人』(岩波新書)を著した鶴見良行さんの直接・間接の薫陶を受けた顔ぶれだった。バナナがあり、エビ研究があり(村井吉敬『エビと日本人』『エビと日本人Ⅱ』岩波新書)、そしてヤシ研究があって(鶴見・宮内編『ヤシの実のアジア学』コモンズ)、かつお節研究へと続いた」(宮内泰介・藤林泰『かつお節と日本人』「あとがき」岩波新書、2013)

 鶴見良行文庫が埼玉大学にあるのは、藤林泰の勤務する大学であったからだ。現在、鶴見良行文庫には、良行所蔵の単著32冊を含むほぼ蔵書約7000冊が保管され、公開されている。写真は、4万5千点。読書カードは15000項目2万枚を所蔵する。遠隔地の学習者が、鶴見良行文庫の内容を知るには、立教大学の「鶴見良行文庫アーカイブ」(インターネット上の図書館)を利用するのが便利である。こちらの設立にも藤林の尽力があった。

鶴見良行『辺境学ノート』
『辺境学ノート』
めこん・1988年


鶴見良行著作集11
『鶴見良行著作集11』
みすず書房・2001年
12345

■庄野護(しょうの・まもる)
1950年徳島生まれ。中央大学中退。学生時代よりアジア各地への放浪と定住を繰り返す。1980年代前半よりバングラデシュやネパールでNGO活動に従事。1989年から96年までODA、NGOボランティアとしてスリランカの都市開発事業に関わる。帰国後、四国学院大学非常勤講師を経て、日本福祉大学大学院博士課程単位取得。パプアニューギニア、ケニアでのJICA専門家を経て、ラオス国立大学教授として現地に2年間赴任。『スリランカ学の冒険』で第13回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞を受賞(初版)。『国際協力のフィールドワーク』(南船北馬舎)所収の論文「住民参加のスラム開発スリランカのケーススタディ」で財団法人国際協力推進協会の第19回国際協力学術奨励論文一席に入選。ほか著作として『パプアニューギニア断章』(南船北馬舎)、共著に『学び・未来・NGO NGOに携わるとは何か』(新評論)など。