「フィールドノート」を読む(鶴見良行私論)

 めおと旅(1)鶴見夫妻と野上夫妻
 1983年9月5日から3週間かけてのインドネシアへの旅では、南スラウェシの半島南部、マナド(北スラウェシ)、テルナテ(北マルク)、ジャワ島のスラバヤ、ジョクジャカルタ、ボゴール、ジャカルタを訪れている。中年カップル2組による4人の旅だった。
「少しゆっくりと旅されている」と書いているのは福家洋介である(『著作集11』p.75、福家洋介「Ⅲ章へのノート 同行/注釈者による前書き」)。
 中年カップルとは、鶴見良行・千代子夫妻と、脚本家の野上龍雄(1928-2013)・節子夫妻のことだ。
 福家洋介は、9月5日に野上夫妻と鶴見千代子が合流するまでの、8月10日から良行と旅を共にしていた。福家を含む村井吉敬、内海愛子ら「エビ研究会」の仲間たちだった。さらにその福家たちと合流する前の7月27日から8月10日の期間、良行は単独でマレーシア・サバ州を巡っている。同行者が入れ替わるこのような旅を良行は計画し、難無く成し遂げている。旅の同行メンバーが入れ替わることへの気遣いや苦労話は、ほとんど書き残していない。同行者が入れ替わってもフィールドノートへの書き込みは止まっていない。身近な環境変化の刺激で、むしろ筆が進んでいるように見える(『著作集11』p.74-174)。
 この旅で良行が撮った写真の1枚が単行本の『ナマコの眼』(筑摩書房、1990)のカバーに使われている。浜辺で女性がナマコを炊いている姿が写っている。「頭巾を被ったお婆さんが木のしゃもじでかきまわしている。どこか中世の魔女を思わせた」(『著作集11』p.75、福家洋介「Ⅲ章へのノート 同行/注釈者による前書き」)。写真家を目指していた20歳代後半の頃の良行が偲ばれる。

 さて、野上龍雄・節子夫妻とは、1970年代はじめ鶴見夫妻が南池袋に住んでいた頃、「栗鼠(リス)」の縁で交流が始まった。
「当時鶴見家ではラディカルと称するボスが君臨するシマリスの一族を飼育していて、たまたま住宅当番で知り合った節子が生まれたばかりの三個体を分けてもらった。こうなると鶴見家はリスの里親で、子供がいないという共通点もあって、奥方同士は急速に親しくなった。
 以後三十年にわたる両家のつながりは、掌にすっぽり包まれるほどの小動物がつくったことになる」(野上龍雄「それは栗鼠から始まった」『著作集10』月報第9号)
 野上夫妻と鶴見夫妻が住んでいた南池袋の公社住宅は、JR池袋駅東口から歩いて約5分の大通りに面していた。住居はメゾネット式に設計されていた。ふたつの階の階段左右に部屋があるような間取りだった。ベトナム戦争の時代(1964-1975)、在日アメリカ軍からの脱走兵士4人が最初に匿われた住宅が、この鶴見宅の下の階の部屋だった。1967年のことである。

 やがて野上夫妻と鶴見夫妻はそろってお茶や食事を共にするようになる。付き合いは、自然に深まり、鶴見夫妻にとって、野上夫妻は特別な友人となっていった。
 そして野上夫妻は、鶴見夫妻に同行して東南アジアへ3度の旅に出かけることになる。最初の旅は、野上節子にとっては初めての海外旅行であった。さらに節子は、べつに単独で2度の旅を鶴見夫妻と共にしている。鶴見夫妻と都合5度の旅を共にしたことになる節子の、鶴見アジア学への影響は小さくなかったと思われる。
 旅の途上で節子を相手に語り合うことで、一般読者に向けての語り方に、良行は気づきを与えられたのではないかと思われる。『マラッカ物語』(1981)では、読者を置き去りにするような議論が展開されているが、『ナマコの眼』(1990)では、一般読者への配慮が感じられる。その変化は、節子との旅がもたらした鶴見アジア学の「質の変化」のひとつだろう。

「宿では何時間もノートをつけていたが仕事の話しはほとんどしなかった。しても無駄だと思ったのだろう。これが以後の旅行でも定番となった」(野上龍雄「それは栗鼠から始まった」『著作集10』月報第9号)
 野上は、フィールドノートを書いている良行からは距離をとって見守っていたようだ。

 良行にとっての野上龍雄は、生涯の友であった。ふたりの人生は微妙に重なるものがある。
 野上は1928年に最高裁判事の父のもと東京で生まれている。野上は、旧制開成中学、松本高等学校を経て、東京大学文学部仏文科に学んだ。学業は順調だった。しかし、映画会社・松竹を2年連続受験し、落とされている。面接での吃音で不採用になった。野上はそこから奮起して脚本家となる。野上の辿った道は、29歳まで就職せずフリーのライターや編集者として生きた良行とも似ている。野上はその後、映画全盛期の脚本家、テレビ時代の人気脚本家として活躍した。父親との関係を含めふたりのあいだには、語らずとも理解しあえる世界があった──。


ナマコの眼
『ナマコの眼』(単行本)
筑摩書房・1990年
123456789

■庄野護(しょうの・まもる)
1950年徳島生まれ。中央大学中退。学生時代よりアジア各地への放浪と定住を繰り返す。1980年代前半よりバングラデシュやネパールでNGO活動に従事。1989年から96年までODA、NGOボランティアとしてスリランカの都市開発事業に関わる。帰国後、四国学院大学非常勤講師を経て、日本福祉大学大学院博士課程単位取得。パプアニューギニア、ケニアでのJICA専門家を経て、ラオス国立大学教授として現地に2年間赴任。『スリランカ学の冒険』で第13回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞を受賞(初版)。『国際協力のフィールドワーク』(南船北馬舎)所収の論文「住民参加のスラム開発スリランカのケーススタディ」で財団法人国際協力推進協会の第19回国際協力学術奨励論文一席に入選。ほか著作として『パプアニューギニア断章』(南船北馬舎)、共著に『学び・未来・NGO NGOに携わるとは何か』(新評論)など。