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「目が鍛え直され発想がふくらむ 新しい自分が生まれる」2(『アラフラ海航海記』の帯文より) 1988年の東インドネシアへの航海で、鶴見良行が最も時間をかけて選んだ人材が、新妻昭夫(1949-2010、動物学者。後の恵泉女子大学教授)である。新妻は、東インドネシアの島々で蝶を採集していた英国人、アルフレッド・R・ウォーレス(1823-1913)の研究者であった。 ウォーレスは、チャールズ・R・ダーウィン(1809-82)よりも早く進化論を完成し、論文を英国のダーウィンに送っている。進化論の発表(1858)はダーウィンとウォーレスの連名でなされている。しかし、進化論で名を後世に残したのはダーウィンだけであった。 そんな「消された男」のウォーレスは、新妻をはじめ多くの日本人に愛されてきた。日本の昆虫愛好家たちにとって、ウォーレスはあこがれの存在であった。蝶などの昆虫をマレー諸島で採集して英国本国に送ることで、ウォーレスは生計を立てていたからだ。 ウォーレスとダーウィンの物語は、アーノルド・C・ブラックマン『ダーウィンに消された男』(朝日新聞社、1984)に詳しい。この本の共訳者が新妻昭夫である。 『ダーウィンに消された男』に続き、新妻は、ウォレス『熱帯の自然』(平河出版社、1987)の共訳者となった。そして、本の巻末に新妻による解説「アルフレッド・R・ウォレス」を書いている。45ページにわたる長文の解説論文である。この新妻論文に注目したのが、良行であった。そして、筑摩書房で企画されていたウォーレス『マレー諸島』の翻訳者に新妻を推薦する。1987年の半ばのことだ。新妻と良行に面識はなかった。良行は、面識のない人物を出版社に紹介したことになる。 良行の推薦に対して、新妻が次のように書いている。 「ためらいながらも(『マレー諸島』の翻訳を:引用者註)承諾したのは、鶴見良行さんの推薦だという(担当編集者)郷(雅之)さんの一言だった。鶴見さんと面識はなかったが、『マングローブの沼地で』(朝日新聞社)は愛読書だったし、雑誌「ちくま」に連載されていた「ナマコの眼」も毎月欠かさず読んでいた。ウォーレスと地理的、時代的に重なる部分が少なくなかったこともあったが、現場を歩き、一次資料を丹念に渉猟しながら考えるという学問の姿勢に、共感というか、あこがれを感じていたからである」(ウォーレス『マレー諸島』(下)新妻昭夫「解題」p.577、ちくま学芸文庫、1993) 1987年12月、新妻は筑摩書房の編集者・郷雅之(後の『鶴見良行著作集』の担当編集者)に連れられて、当時武蔵野市にあった鶴見宅に出かけた。その日、鶴見宅ではアラフラ海航海計画の第一回打ち合わせ会が開かれていた。新妻にとって良行との最初の出会いである。新妻は、航海参加への「面接であった」(『マレー諸島』(下)p.577)と書いている。 良行にとって1988年のアラフラ海航海に、新妻はぜひとも参加してほしい人材だった。なぜなら、3000キロにもおよぶ航海ルートは、ウォーレスの足跡をたどる旅でもあったからだ。誰よりもウォーレスの足跡に詳しい新妻は旅のメンバーに欠かせなかった。スラウェシ島(セレベス)のウジュンパンダンで集合し出航、バチャン島、アル島、アンボン島、バンダ諸島、カイ諸島を経て、アル諸島のアンボンで現地解散。それぞれの島でウォーレスが何をしていたかを知る新妻は、共に旅をするメンバーたちにとって羅針盤となった。 すでにウォーレスについて充分な知識があった新妻だが、本格的にウォーレス研究に取り組んだのは、この良行たちとのアラフラ海航海後のことであったらしい。 「私にとってウォーレス研究が余技から主要課題になったきっかけは、一九八八年夏に鶴見良行名誉隊長、村井吉敬隊長のもとにおこなわれたインドネシアの島々をめぐる航海に参加したことである。その年のはじめからウォーレスの主著『マレー諸島』(ちくま学芸文庫、一九九三年)の翻訳に着手していたし、航海はマレー諸島の主要な島々をたずねることになっていた。(略)ちょうどアザラシの研究に区切りがつき、後輩に調査と保護活動を引き継いだところだった」「この航海で、ウォーレスの足跡をたずねるという自覚が明確なものとなった」(新妻昭夫『種の起源をもとめて ウォーレスの「マレー諸島」探検』「あとがき」p400-401、朝日新聞社、1997) 良行たちとのアラフラ海航海が、新妻のウォーレス研究を自覚的なものにした。新妻がいう「ウォーレスの足跡」とは、東インドネシア(マレー諸島)と南米、イギリスを含む地球規模の領域を意味する。 新妻のウォーレスへの熱中は、「ウォーレスごっこ」と藤林泰などに呼ばれていた。そのことについて、新妻自身が書き残している。 「この航海で、(中略)彼(=ウォーレス:引用者註)がおとずれた場所を再訪し、できるだけ彼と同じことをしてみた。熱帯林をさまよい歩いてみたり、虫を追いかけてみたり、船酔いに苦しんでみたり、そして彼が書いた論文や報告あるいは手紙をそれが書かれた場所で読んでみる──ウォーレスの気分にひたろうといろんな努力をしてみた。そんな私のようすを見ていた藤林泰氏は、「ウォーレスごっこ」と絶妙なネーミングをしてくれた」(新妻昭夫『種の起源を求めて』「あとがき」p.401) 「ウォーレスごっこ』を楽しんでいた新妻は、いつの間にか「鶴見良行をなぞる」生き方をするようになった。そう本人が書き残している。 「じつはいま、また鶴見さんの真似をしてしまっているのだが、それについてはいい結果が出たときに報告したい」(新妻昭夫「良行さんをなぞる」『鶴見良行著作集』第3巻月報所収) 新妻の「良行をなぞる」旅は、別の意味で悲しい結果を招いた。共に体調の異変で手術を受け、その後は二人とも順調に回復していたと思われていたのに急死している。 新妻は、2010年に60歳で亡くなった。新妻につづき、13年には村井吉敬が不帰の旅へと旅立っている。94年の良行の死去から数えると、アラフラ海航海に参加した16人のうち3人がすでに亡くなっている。 スラウェシ島の最大都市ウジュンパンダンにあるホテル・ラマヤナ。このホテル名は、良行のフィールドノートにたびたびあらわれる。良行たちの定宿だったロスメン(安宿)である。1988年のアラフラ海航海では出発時、参加者たちの集合場所となった。 村井たちは、そのホテルに1978年頃から10年以上通い、良行も1983年から数年通った。街の中心へは歩くには少し遠い。どこにでもあるような、町外れにある小さなホテルだ。1998年3月に私は良行の足跡を追って、ホテル・ラマヤナに滞在した。ホテルは清潔に保たれていた。従業員たちは、私のカタコトのインドネシア語を丁寧に聞いてくれた。しかし、ホテルとしての特別感を感じることはなかった。 良行は、ホテル・ラマヤナに特別感を感じている。定宿に使っているうちに従業員たちと親しくなり、彼らから様々な情報が入るようになった。ホテルで働く多民族の若者たちは、インドネシアを調べ歩く良行たちに興味を示した。良行たちは、彼らをインフォーマント(情報提供者)として教えを乞うようになった。 『辺境学ノート』(1988)の1984年7月4日の旅日記には、ホテル・ラマヤナで働くアルバイトの学生たちに話を聞く場面が記録されている。 「苦学生の出身地は次の通り。ブトン[Butong]一人。ケンダリ一人。サマリンダ[Samarinda]一人。バンジャルマシン[Banjarmasin]一人。フローレス[Flores] 出身のパプア系マネジャー一人である。かれらはいずれも笈を負って遊学し、ここで働きながら学んでいる。ウジュン・パンダンがマルク圏からカリマンタン[Kalimantan] へかけての一種の中心地であることがわかる」(『辺境学ノート』p.17) (注)進化論に関して、新妻昭夫はウォーレスとダーウィンを同等に扱っている。私は、ウォーレスが進化論を先に発見したかのように書いている。私のような一般読者は少なくない。『ダーウィンに消された男』の影響もある。 |
『ダーウィンに消された男』 アーノルド・C・ブラックマン著 羽田節子・新妻昭夫 訳 朝日新聞社・1984年 『マレー諸島』 アルフレッド・R・ウォーレス著 新妻昭夫 訳 ちくま学芸文庫・1993年 『種の起源を求めて』 新妻昭夫 著 朝日新聞・1997年 |
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■庄野護(しょうの・まもる) 1950年徳島生まれ。中央大学中退。学生時代よりアジア各地への放浪と定住を繰り返す。1980年代前半よりバングラデシュやネパールでNGO活動に従事。1989年から96年までODA、NGOボランティアとしてスリランカの都市開発事業に関わる。帰国後、四国学院大学非常勤講師を経て、日本福祉大学大学院博士課程単位取得。パプアニューギニア、ケニアでのJICA専門家を経て、ラオス国立大学教授として現地に2年間赴任。『スリランカ学の冒険』で第13回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞を受賞(初版)。『国際協力のフィールドワーク』(南船北馬舎)所収の論文「住民参加のスラム開発スリランカのケーススタディ」で財団法人国際協力推進協会の第19回国際協力学術奨励論文一席に入選。ほか著作として『パプアニューギニア断章』(南船北馬舎)、共著に『学び・未来・NGO NGOに携わるとは何か』(新評論)など。 |
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