「フィールドノート」を読む(鶴見良行私論)

 「歩くことは学ぶこと」2(『辺境学ノート』の帯文より)
 1988年7月から8月にかけて東インドネシア・アラフラ海へ船を仕立てての旅行には、鶴見良行が声をかけた16名が参加した。出版社めこんの編集者、桑原晨、藤林泰も航海に参加する予定であった。しかしその準備の中で、『辺境学ノート』の編集作業が同時に行なわれていた。藤林が参加し、桑原社長は会社の留守番として残った。今ではアジア書籍出版社で広く知られる「めこん」だが、88年当時は社員2人の小規模出版社だった。2人とも会社を留守にして出かけるわけにはいかなかった。

「一九八三年から四度ほどエビ研究会の調査で東インドネシアの島じまを歩いた」(『辺境学ノート』「まえがき」の書き出し)。
『辺境学ノート』の旅を概観すると次のようになる。
 第一章 南東スラウェシ 鍛冶屋の島・サルタンの城 009
 第二章 南スラウェシ ペテペテの旅 081
 第三章 南カリマンタン エビ養殖と浜造船の村 151
 第四章 アル群島 エビとナマコと真珠貝 189 (数字はページを表す:引用者註)

 構成を目次的に書き出した理由は、「目次が見当たらない」という読者の声があったと聞いたからだ。実際は「まえがき」のあとに目次はある。見開きのページに描かれた地図の中に横書きで小さな活字でしるされている。この目立たない目次が一部の読者に見落とされたらしい。

『辺境学ノート』に収められている良行のフィールドノートは、四度の「エビ研究会」調査旅行のものである。エビ研究は、バナナ研究の後に始まっている。バナナ研究(1979-80)については、鶴見良行『バナナと日本人 フィリピン農園と食卓のあいだ』(岩波新書、1982)となって書籍化されている。本書は多くの読者を得た。しかし、良行たちはその成功に満足しなかった。「バナナ研究」の過程で新たに生まれた「エビ研究」が課題となっていた。

 エビ研究会(1982-88)は、 バナナ研究会(1979-80)と違って、現地調査の比重が大幅に増した。現地での本格的な共同研究となった。バナナ研究ではフィリピン大学第三世界研究所ランドルフ・S・ダビッド教授や、当時フィリピン大学講師であった津田守(大阪大学名誉教授)らのグループも参加した。日本側からは良行が主宰していたアジア勉強会のメンバーたちがフィリピンでの現地調査に訪れている(『バナナと日本人』あとがき)。しかし、エビ研究会のフィールド調査の規模と人材投入は、バナナ研究会をはるかに上回る規模となった。

 村井吉敬(1943-2013)がエビ研究会のリーダーを務めた。エビ研究会の研究成果を『エビと日本人』(岩波新書、1988)、『エビと日本人Ⅱ』(2007)に纏め上げたのも村井である。良行が、村井に研究リーダーを託したのは、
(1)世代交代を意識していたこと、
(2)良行自身は「なまこ」研究に集中したいと思っていたこと、
の理由があった。

 村井吉敬は当時すでに上智大学の教員だった。早稲田大学を経て、インドネシアのパジャジャラン大学に留学し、その時の体験をもとに『スンダ生活誌 変動のインドネシア社会』(NHKブックス、1978)を書いた。
『スンダ生活誌』が出版された1978年は、出版社めこんの創立年でもある。1978年という同じ年次に起きた別々の出来事は、奥深いところで関連している。良行と村井の交流も78年ころから始まっている。以降、新聞などにはほとんど報道されないような現地NGO(民間開発団体)に関する情報などをふたりは交換してきた。

 上智大学の教員として村井は、学生指導の分野で実績をあげている。村井ゼミの1回生からは、大学教授クラスの女性研究者を3人以上輩出している。佐竹眞明(名古屋学院大学教授)は、フィリピン学で良行からも学んでいるが、大学院で村井から直接指導を受けたひとりだ。佐竹の博士論文(『フィリピンの地場産業ともうひとつの発展論』明石書店、2004)審査では、村井が主査を務めている(1998)。博士号を持たない村井が、多数の博士研究者を育てた。そのような教育環境が上智大学にはあったし、今もある。その教育環境の起源をたどるには上智大学の創立(1928)に関わった鳥居龍蔵(1870-1953)までたどる必要がある。鳥居は、日本最初の「歩くアジア学者」であった。1896年の台湾調査で、写真機を最初に記録機材として用いたのは、鳥居龍蔵だった。鳥居については、これ以上ここでは触れない。

 村井吉敬がインドネシア留学時代(1975-77)に現地で生活を共にしていたのが、配偶者の内海愛子(現在、大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター所長、恵泉女子大学名誉教授)である。二人はバンドンに暮らし、内海は村井と同じ大学で日本語教師として教えた。庶民的な地域に暮らし、周囲のインドネシア人(スンダ民族〉と交流した。標準インドネシア語にも習熟した。インドネシアの都市は、社会格差によって居住区が分かれている。どこに住むかは、大きな問題となる。村井と内海は、そのことをよく理解していた。そして、社会階層の上から下までの人々と分け隔てなくつきあう社会技術を身につけた。

『鶴見良行著作集11』の内海愛子による解説に、良行の旅日記のつけ方についての記述がある。
「鶴見さんは(中略)人々が何を持って(バスなどで:引用者註)移動しているのか、細かく観察して記録している。根気のいる作業である。私はときどき放棄している」(p.383)

 1984年のエビ研究会のインドネシア調査では、インドネシア語に通じた村井・内海夫妻の存在と、さらに流暢なインドネシア語をあやつる福家洋介(1951-、大東文化大学教員)の参加があった。彼らによってエビ研究会のインドネシア班は膨大な現地調査資料を集積しえた。

 1982年と83年のエビ研究会インドネシア班の現地調査は、村井、福家、内海の三人で出かけている。良行が合流して4人態勢になるのは、84年からだ。鶴見千代子さんが参加して5人旅行となることもあった。良行が調査地を東マレーシアから東インドネシアにシフトしたのは、東マレーシアへの入国拒否があったからである。83年に2度にわたり、入国拒否を受けた。ヴェトナム戦争反対運動への関与が、アメリカ政府の「望ましくない人物」のリストに記載され、そのリストがマレーシア入管にあった可能性がある。入国拒否の詳しい理由は分かっていない。1983年の旅ノート(『著作集11』所収)に、マレーシア入国拒否についての良行自身の分析がしるされている。

 1983年まで良行がインドネシアへの調査旅行に積極的でなかったのは、語学の問題による。インドネシアを旅行する際、英語だけでは困難が伴う。良行のインドネシア語は初級の1000語レベルだった。単独で旅行はできた。しかし、住民への質問調査には、語学力が不足していた。その語学力を補ったのが、84年から旅を共にするようになった村井、内海、福家のインドネシア語の達人たちである。

 こうして1984年に良行は、エビ研究会の東インドネシア調査旅行に合流する。エビ研究会はインドネシア班のほかに、インド・スリランカ班、国内流通班があった。このうち「もっとも目ざましい仕事」(村井吉敬『エビと日本人』「あとがき」)をしたのが、宮内泰介(現在、北海道大学教授)である。国内流通班に所属していた宮内が、東京大学大学院に提出したエビ研究の修士論文は、村井らエビ研究会全員の手本となった。宮内(1961-)は、元めこん編集者・藤林泰(1948-)と共著『かつお節と日本人』(岩波新書、2013)を書いている。宮内と藤林は、良行ら16人で出かけたアラフラ海航海(1988)への参加者でもあった。

鶴見良行『辺境学ノート』
『辺境学ノート』
鶴見良行 著
めこん・1988年


スンダ生活誌
『スンダ生活誌』
村井吉敬 著
NHKブックス・1978年
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■庄野護(しょうの・まもる)
1950年徳島生まれ。中央大学中退。学生時代よりアジア各地への放浪と定住を繰り返す。1980年代前半よりバングラデシュやネパールでNGO活動に従事。1989年から96年までODA、NGOボランティアとしてスリランカの都市開発事業に関わる。帰国後、四国学院大学非常勤講師を経て、日本福祉大学大学院博士課程単位取得。パプアニューギニア、ケニアでのJICA専門家を経て、ラオス国立大学教授として現地に2年間赴任。『スリランカ学の冒険』で第13回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞を受賞(初版)。『国際協力のフィールドワーク』(南船北馬舎)所収の論文「住民参加のスラム開発スリランカのケーススタディ」で財団法人国際協力推進協会の第19回国際協力学術奨励論文一席に入選。ほか著作として『パプアニューギニア断章』(南船北馬舎)、共著に『学び・未来・NGO NGOに携わるとは何か』(新評論)など。