第5巻「マラッカ」の時代(2)───


 鶴見良行『マラッカ物語』(時事通信社、1981)に注目したひとりに、東南アジア研究者・矢野暢(1936-99)がいた。
「民間の研究者でもこれほどの研究ができる。研究機関に所属する研究者は、もっと努力しなければならない」
 そんなふうに、矢野は周囲の大学院生や同僚研究者たちに語っていたという。
 1990年、矢野が京都大学東南アジア研究センターの所長に就任したのち、良行は京都大学でのセミナーや研究プロジェクトに参加するようになった。日本学術振興会からの研究助成金も受け、共同研究にも参加した。
 1980年初頭、矢野はマレー半島の歴史に最も詳しい研究者であった。南タイにあるマレー半島の小さな村で1964年春から2年間農村に住み込んで研究した。矢野のタイ語は、タイの大学で講義できるほどだった。京都大学に在職時には、大阪外国語大学タイ語学科での非常勤講師を続けている(1966−93)。
 矢野が住み込んだ村は、戸数304の小さな村だった。ドーンキレクというソンクラの町に近い村である。その村については、矢野暢『南北問題の政治学』(中公新書、1982)の第一章「『南』の世界の素顔」に描かれている。
 その本に矢野が、次のようなことを書いている。
「国際政治をマクロに論じる研究者は、ミクロの視点をもって住民が見えなければならない」と。
 矢野の文章では、「ミクロコズムとマクロコズムとの緊張を悩まない『南北問題』論は、いわば無慈悲な議論である」(p.16)とある。
 ミクロとマクロの視点を持って東南アジアを見ること。矢野と良行に共通する視点であった。
 矢野暢は南部タイの農民生活を通して世界政治を見た。いっぽう良行は国境を越えて生活する海洋民族バジャウなどを追い、その旅を通じて、国家の意味について考えた。移動する民衆にとっての国家の意味について考えた。

 矢野と良行の二人が対面で交流したのは、1991年から2年足らずの短い期間だった。
 矢野は、93年に研究室運営でのハラスメント問題が表面化し、京都大学での研究を停止、やがて大学を追われた。その後、99年ウィーンで客死。63歳だった。良行が亡くなったのは94年。68歳だった。

『マラッカ物語』(1981)発刊当時、矢野は45歳。良行は55歳。良行の「アジア学」研究者としてのデビューは遅かった。いっぽう矢野はすでに東南アジア研究の第一人者であった。『「南進」の系譜』(中公新書、1975)や『日本の南洋史観』(中公新書、1979)などが「アジア学」を志す人々に読まれていた。『マラッカ物語』と同時期の本として、『南北問題の政治学』(中公新書、1982)がある。その内容は、東南アジア学でもある。東南アジアのミクロな視点から地球規模のマクロな国際問題を論じている。
 二人の「アジア学」を比較するときに見過ごせないのは、ともに魯迅研究者で知られる中国文学者・竹内好(1910−77)の業績から各自の「アジア学」を開始していることだ。
 矢野は、『日本の南洋史観』(中公新書、1979)のエピローグ(あとがき)で、竹内好と雑誌対談したときのことを書いている。
「そのとき、竹内氏が語られたことの中で、とても印象に残っているのは、日本以外のアジアの国々にも『アジア主義』があるのではないか、という問題提起であった。わたしは、これはちょっと考えてみないといけないな、と思った。」(p.195 )
 良行の「アジア学」の初期の論考に『日本人ばなれの生き方について』(『著作集3』pp.24-43)がある。そこに描かれている中国学者・中江丑吉(1889-1942)の人生は、竹内好の論文から学んだものだ。死の直前まで北京で過ごした中江を「日本人ばなれの生き方」として良行は描いている。その論考が、良行の「アジア学」の出発点でもある。(参考=ジョシェア・フォーゲル『中江丑吉と中国 ヒューマニストの生と学問』岩波書店、1992)

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