第4巻「収奪の構図」の時代(1)───


『著作集』全12巻は、第1巻「出発」から順に刊行されてはいない。最初に出たのは、第6巻「バナナ」(1998年11月)である。次に、第9巻「ナマコ」(1999年2月)、そして第7巻「マングローブ」(1999年6月)が続いた。すでに知られていた単著と関連した巻が優先して刊行されている。
 第4巻「収奪の構図」(1999年12月)は、第1巻「出発」(1999年9月)に続く第5回配本である。『アジアはなぜ貧しいのか』(朝日選書、1982)と『アジアを知るために』(筑摩書房、1981)の2冊の単著が収録されている。加えて『アジアはなぜ貧しいのか』周辺の関連論文が載る。Ⅳ章「フィリピンの難民『アジアはなぜ貧しいのか』の周辺」(pp.193-241)がそれである。

 2冊の単著については、先に発行された『アジアを知るために』(1981)が『アジアはなぜ貧しいか』(1982)のあとに置かれている。刊行順の収録になっていない。そこに『著作集4』の特徴があるといえるかもしれない。なぜ時系列順での掲載ではないのか。 注目して読んでみたい。
 私論的にいえば、『アジアを知るために』は修士論文相当、『アジアはなぜ貧しいか』は博士論文相当といえる。逆の評価もあるだろうが……。

『アジアを知るために』は、執筆に7年かけている。第2章「東南アジア地域統合型の工業化」の主要部分は、岩波書店の雑誌『思想』(1977年7月号)に掲載された論文「統合帝国主義の展開」である。この論文は、雑誌掲載時に東大教授の査読を受けた。査読とは「学術誌に投稿された学術論文を専門家が読み、その内容を査定すること」(デジタル大辞泉)である。修士論文や博士論文は、通常3名以上の専門分野研究者による査読を受ける。査読で審査を受けて、学位論文と認定される。

『アジアはなぜ貧しいか』のほうは、講演録をもとに約3カ月の短い期間に書き上げられている。その書を博士論文相当と私がみなすのは、国際的な査読を受けたことによる。在日マレーシア大使館で英訳され、現地マレーシアにおいて歴史学や社会学の専門家たちに査読された。その結果、良行はマレーシアの入国拒否者名簿に載せられた。良行にとってマレーシアへの入国拒否は1983年に3度起きている。なぜ入国拒否となったのかについては、後述する。(この点については、私論的推論です)

 当時の良行はアジア学研究者として仕事をしていくためには、学術論文を書く必要があった。研究者の通過儀礼のようなものである。良行にとっての通過儀礼は、岩波書店の『思想』にアジア学研究論文を載せることであった。「統合帝国主義の展開」は、フィリピンの工業地帯でフォードを中心にして世界自動車産業の展開過程を分析したものである。

 学術論文を意識して書かれた論文が、『著作集4』収録の2冊の単著といえる。以後の作品は、学術論文を意識していない。「読み物」として書かれている。1981年から82年にかけての良行は、将来どの方向に研究を続けていくか、摸索していた。研究費の調達を含め、悩ましい問題があった。それら課題の一つを解決したのが、岩波新書『バナナと日本人』(1982)によって読者の評価を得たことである。『バナナと日本人』から『ナマコの眼』(1990)に至る過程が、鶴見アジア学の展開であった。『バナナと日本人』にいたるまでの試行錯誤が、『著作集第4』に収録された論考に読みとれるだろう。

 論文「統合帝国主義の展開」の共同研究者「T君」については、単著のあとがきに次のようにある。 「関心を共有してくれたT君がマニラにあって、私の調査項目表によって新聞、雑誌類の切抜きを作製してくれていたことだ。年に二、三回ほどフィリピンに出かけ、その帰途は、リュック一杯になる資料を、いかに超過料金を払わずに飛行機に乗せるかを苦心した」(『アジアを知るために』「あとがき」p.233)
「T君」とは、津田守(大阪大学名誉教授、タガログ語、フィリピン学専攻)である。1972年に船便でフィリピンに渡った津田は、国立フィリピン大学大学院で修士論文に取り組んだ。
 津田の修士論文 A Preliminary Study of Japanese-Filipino Joint Ventures, Quzon City:Foundation for Nationalist Studies,1978 は、フィリピンで単著として刊行された。その業績もあり、津田は講師として1982年までフィリピン大学で講義を担当した。フィリピンでの津田の研究に注目し、四国学院大学文学部社会学科の創設時(1983年4月)に専任講師として招いたのが、四国学院大学教授・岡本三夫(故人、広島修道大学名誉教授、平和学)である。岡本の配偶者・岡本珠代(故人、生命倫理学、広島県立看護大学教授)は、国際文化会館での良行の同僚であった。

 津田は、『バナナと日本人』(1982)の原稿の検討会にも参加している。連夜の原稿読み合わせ会であった。「あとがき」(p.228)には、「原稿の検討会には、前述の若い仲間三人を含むフィリピン研究者たちが加わってくれた」とある。1972年から82年までの津田は、良行の共同研究者であった。
 1984年秋、良行は当時、香川県善通寺市に暮らしていた津田家を訪問している。このときは、瀬戸内海沿岸でのナマコ調査が目的だった。『ナマコの眼』が刊行されたのは、1990年である。調査開始から単著の刊行まで約7年。良行の7年周期は、『ナマコの眼』でも確認できる。

 論文「統合帝国主義の展開」は、津田守と良行が共有した研究テーマであった。『アジアを知るために』を修士論文相当と私がみなすのは、津田守の修士論文と同時に共同で書かれた論文であったからだ。 日本企業によるフィリピンへの経済進出は、現地のコミュニティ生活全体を巻き込む機能をもつようになる。日々の労働だけでなく、食生活や娯楽までが資本のシステムに飲み込まれていった。そのように分析した良行は、1970年代後半の日本のフィリピン進出を「統合帝国主義」と名づけたのだった。
 はたして、45年前に良行が「統合帝国主義」と名づけた経済システムは、GAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)などが個人の消費生活までも地球規模で支配統合する21世紀型社会の現実となっている。

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