第3巻「アジアとの出会い」の時代(1)───


『著作集3 アジアとの出会い』には、「ベ平連」解散(1974年)から単著『アジア人と日本人』(晶文社、1980)までの論考が収録されている。
 良行にとっての最初のアジア体験は、すでに述べてきたように、1965年6月の南ベトナム(当時)のサイゴン(現ホーチミン市)での6日間の滞在時の出来事であった。早朝の市場前で民族解放戦線兵士の公開処刑を間近に見たことだ。当時39歳。しかし、本格的にアジア学研究に取り組むようになるまでにはさらに数年を要した。

 1973年3月に国際文化会館企画部長を退任した良行は、フリーのジャーナリストとして原稿を書くようになった。出版社からの依頼があれば、断ることなく書いていた。その時代の多岐にわたる原稿を単著にまとめたのが、『アジア人と日本人』であり、この単著を中心に編纂されたのが『著作集3』である。しかし、単著の扱いはやや異なる。これまで単著の目次が『著作集』の目次にも読みとれていたものが、この『著作集3』の目次からは読みとりにくい。 たとえば、巻頭の「権力との衝突で急進化 フィリピンの学生運動」(『朝日ジャーナル』1971年2月12日号)は単著未収録である。第Ⅰ章にある「マレーシアに戒厳令はいらない もうひとつの世界」(pp.131-141)も単著にはない。さらに第Ⅱ章の、タイの新空港建設をめぐる問題を扱った「エアポート売り込み戦争」(pp.171-221)もそうだ。

「ブラックアウト覚え書」(雑誌『展望』1977年9月号)も単著に未収録である(『著作集3』pp.292-310)。この論考には『マラッカ物語』(1981)から『ナマコの眼』(1990)に至る良行の文体形成が読みとれる。
 フィールド・ノート、現地の人々との対話、文献による個別研究などが融合・混在した独自の文体である。純粋な学術論文でもなく、旅行記でもない。そのような記述方法が、「ブラックアウト覚え書」から始まる。
 この文体にたどり着くまでには、試行錯誤があった。たとえば、『アジアを知るために』(筑摩書房、1981)収録の「統合帝国主義の展開」(『著作集4』)は、雑誌『思想』(岩波書店、1977年7月)に掲載された学術論文である。当時、『思想』編集部では学会に所属しない研究者の論文は、東大教授に査読を依頼していた。このとき良行には感じるところがあったようだ。『思想』に合わせるような文体で書き続けることへの疑問である。少数者の学問であるよりも、より多くの読者を得ることでアジア学の裾野を広げようと考えた。そこから、読者重視の文体を意識しはじめる。 そうしてたどり着いたのが、「ブラックアウト覚え書」の文体である。

 論文タイトルにある「ブラックアウト」の意味が分かりにくいかもしれない。大規模停電を意味する「ブラックアウト」は、当時の東南アジアの社会情勢を表わす。フィリピン、タイには軍事独裁政権が存在し、民衆を武力=暴力で支配していた。インドネシア、マレーシア、シンガポールは、一党独裁国家であった。「ブラックアウト」は、独裁政権下の東南アジア社会を意味した。 独裁社会で民主主義を求める人々との繋がりを良行は摸索した。

「ブラックアウト覚え書」の中に「方法としてのアジア」という表現がある。
「方法としてのアジア」とは、何だろう?
 それを考えるとき、『著作集3』の帯にある次の文章が思い出される。
「『アジアは、方法として私を支えるに至っている』アジアと日本の人びとをつなぐ(地図)を描くために、著者はアジアへの旅を重ねていく──真にラディカルな問いがここにある。解説・鹿野政直」

「アジアを方法として生きる」「アジアを方法として学ぶ」ことが、良行のアジアとの向き合い方となった。アメリカや日本への興味や関心を失ったわけではない。アジアをとおして身の回りや世界を見つめ、アメリカや日本を見つめ直した。
 この転機をもたらしたのが、フィリピンの歴史哲学者・レナト・コンスタンティーノとの出会いである。『アジア人と日本人』の「あとがき」で、「アジアは方法として私を支えるに至っている」と書いている。その直前の文章に「『反時流』という思想の方法を教えてくれたフィリピンのレナト・コンスタンティーノに深く感謝している」(『著作集3』p.377)としるしている。

 1919年にフィリピン・マニラに生まれたコンスタンティーノ(1919−99)は、フィリピン大学法学部を経てニューヨーク大学大学院に学んだ。1945-46年イブニング・ヘラルド紙コラムニスト、1946-49年、国連本部駐在のフィリピン外務省顧問。帰国後、ファー・イースタン大学の政治・歴史学教授。フィリピン大学、ロンドン大学、津田塾大学の客員教授を経験。朝日、毎日新聞にも寄稿した。(参考=ウィキペディアなど)

 良行がレナト・コンスタンティーノの名前を最初に聞いたのは、1970年4月。その出会いについて、「フィリピンはなぜフィリピンであるのか」(『著作集3』P.314)の冒頭に書いている。
「五一歳の今日まで、いろいろの書物を読み、影響を受けた。今『あなたが感銘した思想家は』と訊ねられれば、私はためらうことなく、かれの名を加えるだろう。日本の思想界の潮流からすれば、これはたぶん奇異なことだろう。フィリピンなんて……。そもそもフィリピンに思想家がいるのか」

『著作集3』のなかで最も言及される人物が、レナト・コンスタンティーノである。巻末の人名索引(p.2)を見ると、20箇所に及ぶ。
 コンスタンティーノの名前が最初に表れるのは、「アジア報道の方法」(pp.65-76)である。初出は東京新聞掲載の小論(1973年9月19日夕刊)だ。小原研の筆名で書いている。そこで述べられているのは、「アジアで日本に関わる問題が起きたとき、日本の新聞はなぜ現地の知識人にコメントを求めないのか?」との問いであった。

 レナト・コンスタンティーノの著作から良行は、とりわけ民族概念について多くを学んだ。概念としてのフィリピン人が成立するのは、現在でなく未来であるということ。民族としてのフィリピン人は、成立途上にある。こうした考え方に、刺激を受けた。民族や国家を所与のものとしてきた日本社会で、コンスタンティーノの歴史哲学は新鮮だった。 良行のアジア学は、そこからはじまった。

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