第5巻「マラッカ」の時代(1)───


『著作集5 マラッカ』は、単著『マラッカ物語』(時事通信社、1981)を中心に編纂されている。
 マラッカという名の街が、マラッカ海峡に接するマレー半島西岸にある。15世紀にマラッカ王国が成立し、16世紀にはオランダ領となった。貿易で栄えた港湾都市である。日本や琉球王国と繋がっていた。現在、多くの観光客が訪れる国際観光地となっている。
 鶴見良行の父、鶴見憲(1895-1984)は外交官時代、初代マラッカ司政長官(1942-45)を務めている。「だがそうした個人的因縁は、本書の執筆とさしてかかわりがない」。「あとがき」にそう書いている(『著作集5』p.304)。

『マラッカ物語』を題名からマレーシアについての本と思う人は少なくない。しかし、物語の舞台は、マレー半島北部、タイの南部である。マレー半島が狭まったクラ地峡が中心舞台となる。
 クラ地峡を東西に貫く運河を建設し、インド洋とシャム湾(太平洋)を結ぼうとする計画が持ち上がった。建設には水爆を用いると公表された。日本企業も参加する国際的な運河建設計画である。1973年7月のことだ。その新聞記事を読んだことから、良行の『マラッカ物語』への旅が始まった。
「そもそもの始まりは、一〇行にも満たない新聞記事である。そこから私は、マラッカ海峡の古代にまで遡る長途の旅に出ることになった」(『著作集5』p.3)

 1973年7月、良行は取材旅行を始めた。タイで民主化運動が進んでいた時期であった。その頃、民主化運動に関わるタイの市民たちと交流があった良行である。自身のタイ社会への役割として、クラ地峡運河建設計画の研究に取り組むことを自らに課した。『マラッカ物語』に至る研究は、良行のタイ民主化運動への参加でもあった。

『マラッカ物語』の序章、「水爆の運河」の書き出しとなっている「1 旅へ」は4ページの短い文章だが、内容は濃い。『マラッカ物語』の全体像が簡潔に描かれている。『著作集5』は400ページを超す大著であるが、概要を理解したい読者はこの書き出しの4ページを読めばよいだろう。

 クラ地峡に運河を掘る計画についての国際会議は、1973年7月10日から12日にかけて東京で開かれている。会議では水爆を用いる「原子力の平和利用」が公然と語られた。しかし、その後の経過は報道されていない。この計画が頓挫した理由のひとつは、同年10月15日、タイで民主革命が起き、当時の軍事政権が倒れたことである。運河計画を誘致していたタイの資本家たちは軍事政権側にいた。

 2025年の現在、クラ地峡の運河建設計画は、中国が中心となって進んでいる。世界情勢の如何によっては、中国が小型原爆を使って運河を建設することはありうるかもしれない。そもそもクラ地峡での運河建設計画は、19世紀のスエズ運河開通(1869)のころから存在した。当時はイギリスが中心であった。着工されなかったのは、採算についての明確な結論がえられなかったからである。
 イギリスの次に計画したのは、日本である。1940年代に日本語で出版された運河計画についての論文が数多く残っている。それらの文献は現在、中国の研究者によって詳しく分析されていることだろう。良行は、1940年代の日本による運河計画について、『マラッカ物語』では触れていない。知らなかったわけではない。マレー半島と日本の関係については省略することで『マラッカ物語』は刊行されている。

 前述の通りタイでは、1973年10月15日、タイ民主革命で軍事政権が崩壊し、そこから民主化が始まったのだが、76年10月6日に反民主・軍事クーデターが起き、民主化は止まる。運動を担ってきた学生たちの多くが殺害され、地下活動へと潜伏した。良行の取材も76年10月を境に変化した。
 バンコク(タイ)からの入国が減少したのである。74年に2回、75年には4回、バンコクからタイに入国している。しかし76年10月以降は、クアラルンプル(マレーシア)からタイ南部を目指す取材旅行が増えた。77年は、バンコクからのタイ入国は短期滞在の1回だけであった。増えたのは、マレーシア、シンガポールへの取材旅行である。マレーシア経由でタイ南部に出かけるようになり、鶴見夫妻にとってプケット島が特別な場所になる。その話については、別の場所で語ることになるだろう。良行の旅先と日程は、『著作集12 フィールドワークⅡ』(2004)の年譜(丸井清泰編)で確認できる。

 良行とタイの民主化運動との関わりについては、1973-76年に発刊された月刊『日タイ青年友好運動』(東大自主講座事務局編)に記録が残る。73年10月のタイ民主革命後に、東京で「日タイ青年友好運動」が発足した。その運動を支えた日本側の活動家たちは、良行の「アジア勉強会」の塾生たちである。「アジア勉強会」は、1971年5月に良行がスタートさせた週1回開講の塾であった。74年4月まで続いた。

 日タイ青年友好運動では井上澄夫(代表、1945-2014)が多くの事務をこなした。井上は「アジア勉強会」の1971年から2年余りにわたる塾生であった。井上は、良行ほか多くのメンバーの代理人として社会的活動を行った。スポークスマンとしての役割をかってでたのである。そのことで、良行はじめ他のメンバーは自分たちの活動に専念できた。当時の良行が、『マラッカ物語』の研究に集中できた背後には、井上の存在があったといえる。
 井上の著作『歩きつづけるという流儀』(晶文社、1982)には、1976年10月にバンコクで命が危険になった体験が記されている。タイへの入国が困難になった井上は、その後、メキシコを経て沖縄にたどりついている(参照=井上澄夫編著『いま語る沖縄の思い』技術と人間、1996)。

『マラッカ物語』と同時進行したもうひとつのタイ研究がある。
「エアポート売り込み戦争」(『著作集3』Ⅱ章)である。日タイ米仏の合弁会社が、タイの首都バンコク郊外に新しい国際空港を建設しようと計画した。これが「事件」となったのは、国際的な利権獲得事業であったからだ。日本のトーメンを含む国際巨大企業が新空港の建設計画をタイ政府に受諾させようとした。日本やアメリカの企業は新空港の維持管理システムで利益をあげる計画だった。タイ側の企業団は、土地を資本化して投資することを目論んだ。
 この「ノースロップ空港計画」(1973-76)は、バンコク版ウォーターゲート事件となって中止に追い込まれた。米国が最初に撤退した。当時のニクソン大統領はウォーターゲート事件(1972-74)で退陣を迫られていた。

「ノースロップ空港事件」について良行は、三つの論文を月刊雑誌に載せている。雑誌『潮』1976年7月号、8月号、10月号である。この3本の報告は、『著作集3』に収録されている。
「ノースロップ空港建設計画」と「クラ地峡運河建設計画」は、タイにおいて同時期に表面化した国際的な巨大プロジェクトであった。これら二つの計画の解明に取り組んだのが、良行であった。

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