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べ平連活動家の中で最初にベトナムを訪問したのが、鶴見良行であった。1965年6月、米国ハーバード大学でのセミナー参加への途上で、ベトナムのサイゴン(現在のホーチミン)に1週間滞在した。米国から送られてきた航空券を航空会社に持ち込み、航路変更をおこなった。航空券が紙冊子だった時代、航空会社のカウンターで航路の変更は簡単に(無料で)やってもらえた。 ベトナム経由の西回りで米国に向かった。そしてサイゴンでの滞在で良行が見たのが、若い解放軍兵士の公開処刑であった。(参照=庄野護「サイゴンの6日間」) 「1965年(昭和40年)39歳(中略)6月22日午前5時50分、サイゴン市内のレロイ通りにあるベン・タイン市場前の大きなロータリーで、捕らえられた民族解放軍兵士チュラン・ヴァン・ダンの公開処刑を目撃、大きな衝撃を受ける」(『著作集12』p.428) 銃で処刑されるベトナム人青年の最期を良行は至近距離で見た。その体験が良行を変えた。それまで評論家・森秀人(1933−2013)らに「鶴見良行は『常識左翼』だ」といわれていた。しかし、この南ベトナムでの経験を経て反戦運動の活動家となっていく。 1965年の南ベトナムからアメリカへの旅の途中で書いた文章が、『著作集1』にある。第Ⅲ部「ベトナムからの手紙」(pp.155-235)である。そこに、イタリア・ローマのホテルで書いた文章がある。原稿は、ホテルの便箋に手書きされ、投函された。受け取った雑誌『思想の科学』編集者は、それを雑誌『思想の科学』1965年9月号に掲載した。 ベトナム戦争は通常、第二次インドシナ戦争をさす。ベトナムを舞台に1955年11月1日に始まり、75年4月30日に終了している。アメリカ軍とベトナム軍との戦争であった。戦争の現実から、南ベトナム軍と北ベトナム軍の戦争だと思っている人は少数だろう。ベトナム戦争の最後には、アメリカ軍がベトナムから敗走した。逃げ去る様子は、全世界に連日テレビで放映された。 1975年4月に終わったベトナム戦争には、前史がある。第一次インドシナ戦争である。第二次世界大戦後の1945年から54年まで続いた。フランス軍と北ベトナム軍(当時)との戦争である。1954年3月から5月にかけてのディエンビエンフーのフランス軍基地での戦闘で決着した。この基地は、北ベトナムの北東部、ラオスとの国境に近い場所にあり、難攻不落とされていた。その軍事拠点がベトナム人民軍に包囲されて陥落した。 インドシナ戦争には、さらなる前史がある。1941年12月、日本軍がベトナムに侵攻した。そのとき、日本軍による大規模な食糧調達がおきている。結果、50万人以上のベトナム人が餓死した。ベトナム人の他国の軍事支配に対する抵抗運動は日本軍への抵抗としてはじまった。1975年4月のベトナム全土解放にいたる長期の戦いに最初に火をつけたのは、日本軍であった。同世代のベトナム人と話をするたびに、筆者はその歴史を何度も聞かされてきた。 「ベ平連」(1965−74)時代、良行に影響を与えた人物として、平和運動家の由比忠乃進(ゆい・ちゅうのしん)がいる。 「由比忠乃進(1895−1967) 福岡県に生まれる。蔵前高等工業(現東京工大)卒業。二七歳の時エスペラント語の学習を始め、名古屋中央放送局に勤務しつつ同地にエスペラント会を創立する。一九三八年満洲ベアリングに就職。終戦後は満州にとどまり技術指導に従事する。四九年帰国後九ヶ月程「一灯園」に所属し、また国際語としてのエスペラント語の普及につとめる。六七年十一月十一日午後五時四五分ごろ、佐藤首相の訪米に抗議して総理官邸近くの路上で焼身自殺を計り、翌十二日午後四時死亡。同日同時刻、首相の特別機は羽田を飛びたった。自殺決行の直前までエスペラント訳「原爆体験記」を自費出版すべく翻訳に努力した。」(鶴見俊輔編『平和の思想 戦後日本思想体系4』p.406、筑摩書房、1968) 鶴見俊輔編『平和の思想 戦後日本思想体系4』には、由比忠乃進「抗議文及び遺書」が収録されている。以下は、遺書の一部。 「米国の沖縄・小笠原占領と、ベトナム侵略に抗議して焼身自殺する決心をした。この決意をしたのは、すでに去る四月(1967年=引用者註)の事で、広島市編集の原爆体験記と、ベトナム問題の記事のエスペラント訳が、八月には終わる見込みで、八月の終わりか九月の初めに決行の予定であったが、色々飛入りの仕事があり、延び延びになって今日に及んだ。 佐藤首相の訪米が目前に迫ってきたので、最早猶予出来なくなり、死の抗議を決行する。 死後のことを書き残しておく。(以下略)」(p.399) 1969年良行は論文「アメリカの中のベトナム」のエスペラント訳(PACON EN VJETNAM)をベトナム平和イスパニア・センターに寄稿した(『著作集12』p.446)。 なぜエスペラント訳だったのか? それは、由比がエスペランティストの平和運動家であったことによる。由比は、1967年3月に東京「べ平連」の事務局をひとりで訪問。事務局スタッフらと意見を交換し、「ベ平連」がアメリカの新聞に出す反戦広告へのカンパとして寄付金を置いていった。 「遺書」の他に由比忠乃進が1967年に残した文章は次のとおり。 「佐藤首相宛抗議文」1967年10月6日 「ジョンソン大統領宛抗議文」(原文はエスペラント)1967年10月6日 「最後の遺書」(焼身自殺直前の走り書き)1967年11月11日 抗議文は、冷静に書かれている。遺書も穏やかな言葉で綴られている。(前掲書、pp.389-400) 「ジョンソン大統領宛抗議文」の原文は、由比がエスペラントで書いた。その原文をアメリカのエスペランティスト、ミネルヴァ・リース夫人が英訳し、全米各地の新聞に掲載された。エスペラントの原文は、現在もエスペラント学習者のテキストとして読まれている。(参照:比嘉康文『わが身は炎となりて 佐藤首相に焼身抗議した由比忠乃進とその時代』琉球新報社、2011) 良行は由比忠乃進の行動と言葉を受けとめた。由比が抗議の焼身をした翌日(1967年11月12日)の夕刻、良行は東京・神田の学士会館で記者会見を開いている。匿っていた米軍脱走兵4人が、11月11日にソビエト船で横浜から日本を離れたことを発表。あわせて脱走兵の記録映画も上映した。翌日の毎日新聞、朝日新聞はこれらを大きく報道した。 『著作集2』第1部には、1967年に書かれた論考7編が並ぶ。アジア学に本格的に取りかかる直前の良行が、そこにいる。論考「日本国民としての断念」は、良行の「アジア学」の出発点でもある。 とはいえ良行は、アメリカや日本への関心を失ってアジアに向き合ったのではない。長年にわたり交流してきた評論家・吉川勇一(1931−2015)が、『著作集2』の解説「政治参加とアジア研究と」の中で次のように書いている。 「べ平連での実践も、アメリカや日本の政治に対する強い関心も、それはアジアへ向かう鶴見さんとって『単なる契機』などで決してなく、彼の研究・調査活動を推し進める背後の原動力となっていたのだ、(以下、略)」(p.413) |
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