第4巻「収奪の構図」の時代(2)───


 1974年から鶴見良行は「統合帝国主義」という全体像のもとに個別研究を開始している。
『アジアを知るために』(筑摩書房、1981)と『アジアはなぜ貧しいのか』(朝日選書、1982)の2冊の単著がそれらの研究を構成している。
『アジアはなぜ貧しいのか』は、講演録をもとに書かれている。1981年秋の朝日カルチャーセンター(東京)での9回の講演「比較南北史学の試み」である。
「しかし、私(鶴見良行:引用者註)は構想だけを生かして、講演のおこし(原文は下線部が傍点:引用者註)をまったく捨てて新たに執筆しました。そのため編集者の笠坊乙彦氏にご迷惑をかけたことをお詫びします」(『著作集4』p.191)
 講演録は良行により全面的に書き改められたが、語りの口調は残された。

『著作集4』収録の『アジアはなぜ貧しいのか』では、マレーシア、インドネシア、フィリピンの地方史が語られる。いきなり地方史が論じられているのだ。そこに「鶴見アジア学」の個性が感じられる。その記述方法について、日本の大学に所属する研究者たちの一部からは、「学術的な書き方でない」との批判があった。しかし、逆にその型破りの記述は読者の支持を得た。この件に関連して、作家・池澤夏樹が『著作集5』「マラッカ」の解説で書いている。
「読んでいて気持がいいのは、この総論と各論のバランスが微妙で、しかも各論が先にたって総論を率いてゆくところだ」(p.409、池澤夏樹による解説「『マラッカ物語』の応用問題」)

 池澤は『マラッカ物語』(1981)について書いているのだが、同じことが『アジアを知るために』や『アジアはなぜ貧しいのか』についてもいえる。池澤は先の「解説」で、次のようにも書いている。
「姑息な研究者は総論を用意した上で、それと矛盾しない各論を既成の研究の中から拾い出してはめ込んでゆく。都合の悪い材料は排除するのだから、どんな結論でも作れる。いわゆる御用学者の作文にこの手のが多い」(p.409)

 学術論文を読みこなしてきた良行が、「総論と各論」の関係を知らないはずはない。良行を批判していた研究者たちは、アメリカの大学院で学んだ論文構成を基準に考えていた。そのことを良行は承知しつつ、新しい学問領域としての「アジア学」に挑戦してきた。1980年代までの日本のアジア学は、先行研究の少ない学問領域だったのである。

『著作集4』には、『アジアを知るために』の後に書かれた『アジアはなぜ貧しいのか』が先に収録されている。総論と各論のバランスを考えての編纂者の判断かと思われる。先の池澤が指摘しているように、「鶴見アジア学」では総論のなかに各論が、各論のなかに総論が紛れ込む。それを楽しんで読むことができるのは、読者の特権である。

『アジアはなぜ貧しいのか』での3つの地方史の各章は、「植民地化の過程」の標題ではじまる。
 ・「マラヤ植民地化の過程」
 ・「インドネシア植民地化の過程」
 ・「フィリピン植民地化の過程」
 マレーシアはセランゴール、インドネシアはスマトラ、フィリピンはミンダナオの地方史である。これら狭い地域に限定された3つの地方を選んだ理由については、「はじめに」で説明されている。
「(略)三つの地方を選んだのは、それぞれの住民が独自の経済と文化をもちながらも、一九世紀以降、共通の力に押しつぶされ、流されていった状況を説明したかったからです。その力とは資本主義制度の一部としての植民地主義です。この時代に住民の多くは、世界市場に輸出するための物産をつくるようになった。そのためには、海賊たちさえも陸(おか)に上がらなければならなくなった」(『著作集4』p.4)

 3つの地方史を借りて書いた理由についても説明がある。
「そこを客体として描きつつ、主体として尊重したかったからです。(中略)歴史の手法を採ったのは、それが、歴史の主体の発見にかかわるからです。歴史の創造の主体がなければ、それは描き得ない。しかし、発見の主体は私の側にある。歴史を創造する主体と描く主体は、このようにしてかかわっていきます」(『著作集4』p.7)

 第一部マレーシアではセランゴール州の歴史が語られる。首都クアラルンプールが位置する州である。19世紀のスズ鉱山の経営では、中国からの移民労働者に支払われた賃金が、アヘンの販売という形で資本家に再び吸い取られる仕組みがあった。その歴史に、主人公として描かれたのが、中国からの移民労働者・華人ヤップ・アロイである。
「かれは一八三七年、広東の恵州で生まれた客家(ハッカ。西晋末と北宋末に北方から南方に移った漢人。広東、福建、広西などに居住)です。一八歳でマカオからシンガポールに渡ります。中国の太平天国の乱からアヘン戦争へとつづく動乱の時期に、激増した流民の一人でした。流民労働力を植民地へと運ぶ船宿や人買いの制度が出来上がっています。無産者の苦力は新客(シンケー)といわれ、三年ほどの労働を抵当に、人買いの流れに身を委ねます。運よく三年の年季を生き延びると、自由労働者として老客(ラオケー)になります。日本の昔の店奉公と較べて、三年はそれほど厳しくないと考えられるかもしれませんが、マラヤの鉱山現場では、華人苦力の死亡率五割以上がざらでした。シンガポールは労働力の集散地でもあったのです」(『著作集4』pp.21-23)

 最下層の移民労働者、華人ヤップ・アロイは、セランゴールのスズ鉱山で働きはじめた。その後、頭角をあらわしていく。終いにはスズ鉱山主となる。地域のリーダーとなったヤップ・アロイは、福建、広東、潮州、海南、客家など華人系言語集団をまとめあげた。彼自身が多くの中国方言を使いこなせた。さらに、マレー語も使えた。当時のセランゴールは、マレー人領主のもとにあった。地方のマレー人支配階級とのコミュニケーションにマレー語は欠かせなかった。

 華人ヤップ・アロイを主人公に、良行は1860年代に6年間続いたセランゴール内戦を描いた。スズ鉱山の争奪と背後にあったアヘン交易の利権を争う内戦の実体についても分析している。この内戦は、クディン勢とマディ勢という二つのマレー人領主間の争いであった。しかし、争いの実体は、外人部隊の多い代理戦争のような内戦でもあった。インドのセポイ兵、シーク兵、ヨーロッパ人将校などが参戦していた。華人ヤップ・アロイは、クディン勢の勝利に貢献した。いわば、華人ヤップ・アロイが、マレーシアの歴史を創ったのである。

『アジアはなぜ貧しいか』の2部では、インドネシアのスマトラが舞台になっている。そこでは、パドリ戦争で活躍したマレー人アブドッラが主人公として登場する。「アブドッラ物語 あるマレー人の自伝」(『朝日ジャーナル』1981.2.27)を書いた良行は、続いて『スマトラ燃ゆ アッラーのみ名のもとに 19世紀パドリ戦争の血と真実を描く歴史ルポルタージュ」(『著作集5』収録、初出『使者』1981年夏、小学館)を書いた。こうして個人を主人公にした「歴史ルポルタージュ」(良行が用いた用語)が続いた。

『アジアはなぜ貧しいのか』の刊行翌年の83年5月に良行はマレーシア・サラワク州クチンの空港で最初の入国拒否に遭う。さらに同年7月にサラワク州ビンツルの空港でも入国が拒否された。8月には首都クアラルンプールの空港で入国拒否が起きた。マレーシアは各州の自立性が高く、入国管理については東マレーシアが、より厳しい。そのため、東マレーシアでの入国拒否に、良行はそれほど驚かなかった。しかし、首都のクアラルンプール国際空港での入国拒否については、ショックを受けている。

 3度の入国拒否について、私の推測を以下に述べる。
『アジアはなぜ貧しいのか』のマレーシア史の記述内容が関係していたと思われる。19世紀セランゴールのスズ鉱山での賃金支払いとアヘン販売による収入の仕組みを歴史的に分析した部分である。華人ヤップ・アロイを19世紀セランゴールの歴史の主人公としたこと、そしてその地でのアヘンの販売に政府が関与していたこと。この2点に、マレーシア政府関係機関が反応したのではないだろうか。
 以後良行は、マレーシアへの訪問を控えた。結果、インドネシアが主たる取材調査地となる。8年後の1991年にマレーシアを訪問した良行は、自分の名前が入国拒否者名簿から消えたことを確認している。

4101112