第10巻「歩く学問」を読む(3)“沖縄と鶴見良行”


 鶴見良行が書くことに距離を置いてきた領域の一つに「沖縄」があった──。

『著作集10』に「糸満」と題する作品がある(pp.201-202)。亡くなる2年前に刊行された『沖縄いろいろ事典』(ナイチャーズ編著、新潮社、1992)収録の小論である。短いものだが、時間をかけて丁寧に仕上げられた論考である。
「イトマンの漁業は親方制によるものでした。その階層はインジョー・テーソ(親方・袋網所有者)、トモヌイ(共乗り、サバニや垣網の所有者)、ヒースイ(蠣網、平漁夫)くらいでそれほどの閉鎖的なものではなかった。むしろ本土の網元制度の方が過酷な階級性であったようです」
 イトマン女性を中心にして糸満社会が分析されている。海民社会論でもある。独自の権利行使をしていたイトマン女性の社会的背景を描いている。

 上記の小論のほかには、沖縄に関連した書籍についての評論がある。『著作集6 バナナ』に収録されている平恒次『日本国改造試論』(講談社現代新書、1974)の書評である。本書の内容は、沖縄出身で国際機関に長く勤めた平恒次による「沖縄論」になっている。またほかに沖縄について書かれた論考に、週刊誌『朝日ジャーナル』(1966年11月6日)掲載の「沖縄 祖国復帰の祈り 米琉間の矛盾激化の中で」(『著作集12』「著作目録」p.442)がある。筆名「眺」で書かれたものだが、著作集には未収録である。

 以上の3編の沖縄に関する論考が確認できるのだが、やはり良行は、「沖縄」についてはほとんど書いてこなかったといえる。そんな良行に「糸満」を書かせたのは、池澤夏樹(作家、1945-)であったようだ。
 良行が「糸満」を寄稿した『沖縄いろいろ事典』に執筆者代表として「あとがき」を書いているのは、池澤夏樹である。池澤には、論考「歩くナマコ 鶴見良行の仕事と希望」がある(『歩く学問 ナマコの思想』コモンズ、2005)。「鶴見良行文庫」開設10年を記念して開かれたシンポジウムでの基調講演をもとに執筆したものだ。池澤は『著作集5 マラッカ』に巻末解説「『マラッカ物語』の応用問題」も書いている。
 1993年から約10年沖縄に暮らした池澤は、良行が沖縄を深く学んでいることを知っていた。池澤によって、沖縄研究者としての鶴見良行が発見された、といえるかもしれない。

 池澤と良行は、近いところにいた。ここでの「近さ」とは、思想的、文学的な近さである。ふたりは、現実社会で会ったことはない。沖縄に初めて旅したのは、池澤が1973年、良行が1981年である。二人の最初の旅の年については、『沖縄いろいろ事典』の執筆者一覧(p.143)にある。良行の沖縄旅行の記録は、『著作集12』の「鶴見良行年譜」には記載がない。
 国境や国家に関する強い関心が、池澤と良行に共通していた。国境や国家を意識して取り組んできたのが、池澤夏樹の文学であり、鶴見良行のアジア学であった。
 池澤に次の文章がある。
「アメリカとどう向き合おうかと考えている。 ジョージ・ブッシュ・ジュニアが大統領となって以来、ぼくはアメリカと距離をとってきた。とりわけ、二〇〇三年三月にアメリカ軍がイラクに侵攻した後はアメリカ的なもの全般に背を向けた。文学的な催しへの招待も断わった」(池澤夏樹『終わりと始まり』朝日新聞出版、2013)
 国家としてのアメリカへの向き合い方にも、池澤と良行に共通するものがあった。

 沖縄と良行を繋ぐもうひとりの人物に鹿野政直(早稲田大学名誉教授、1931-)がいる。日本近代史専攻の鹿野は、沖縄史研究者でもある。『著作集3 アジアとの出会い』に巻末解説「ベトナム反戦からアジア学」を書いているのが、鹿野である。良行を新しいアジア学の創設者として描く鹿野の手法には、沖縄学の父・伊波普猷(1876-1947)を描いた、鹿野の著作『沖縄の淵 伊波普猷とその時代』(岩波現代文庫、2018)に重なるところがある。
 さらに鹿野は、文庫『ナマコの眼』(ちくま学芸文庫、1993)の巻末解説も書いている。
 沖縄に深くかかわってきた鹿野と池澤が共に『著作集』に解説を書いている。これは、偶然ではない。良行もまた沖縄に深くかかわっていたといえるのではないか。

 そんな良行が沖縄について書くことを避けてきたのは、何故なのか?
 理由のひとつに考えられるのが、大江健三郎『沖縄ノート』(岩波新書、1970)である。
 大江と良行は米国ボストンの同じ宿舎で2カ月、生活を共にしている。1965年7月からの2カ月である。米国のハーバード大学に招待され、ヘンリー・キッシンジャー教授(当時、後の国務長官)を中心とするインターナショナル・セミナーに参加した。日本から招待されたのは、館林千里(社会党国際部)と合わせて3人。3人とも日米安保条約に反対し、当時激化していたベトナム戦争に反対していた。これら3人にハーバード大学は、往復航空券を送りボストンに招待した(参照=『著作集12』「鶴見良行年譜」p.428)。
 ボストンでの大江と良行は、夜の非公式の会合で何度も酒を飲みながら議論したことだろう。二人とも無類の酒好きであった。しかし、夜の会合で語り合ったことについて、二人とも何も書き残していない。良行はこの時、西回りの航空路でアメリカ・ボストンに向かった。送られてきた航空券を航空会社に持ち込んで航路を書き換えてもらったのである。南ベトナム(当時)のサイゴン(現ホーチミン市)では密度の濃い6日間を過ごした。
 このときのベトナムでの体験を米国への途上に滞在したイタリア・ローマのホテルで書いたのが、「ベトナムからの手紙 ある編集者へ」(『著作集1 出発』pp.167-179)である。サイゴンでは知人の新聞記者から記者証を借り、解放軍兵士の公開処刑を目前で見た。兵士は、良行の目前で頭を銃で撃たれて死んでいった。その尊厳を持った死に方に良行は衝撃を受けた。この体験が、良行を変えた。ベトナム反戦運動の積極的活動家となり、その延長にアジア学への道を歩むことになる。「鶴見アジア学」の出発は、この「ベトナムからの手紙」にあったといえる。
 その後、ボストンで良行が出会った1965年の大江は、『ヒロシマ・ノート』が雑誌『世界』(岩波書店)に掲載されて注目を浴びていた。アメリカに招待された理由も、雑誌連載中の「ヒロシマ・ノート」にあった。大江は反米作家と思われていた。いっぽうの良行は、アメリカに生まれ、来日アメリカ人が集う国際文化会館に勤め、知米派知識人とされていた。
 二人のアメリカへの向き合い方は、1965年のボストン滞在を境に立場を逆転させた。その後の大江は海外に出かけることが増え、アメリカにも度々でかけた。96年には、プリンストン大学で客員教授を務めた。いっぽう良行は、ベトナム反戦運動の中で脱走米兵を支援し、アメリカ国家に立ち向かった。67年の最初の脱走兵4人は当時、南池袋にあった良行のアパートで匿った。

 アメリカの大学に客員教授として招待された大江と、おそらくは入国拒否者名簿に載せられていたであろう良行。その違いを理解しようとするとき、次の二人の著作が参考になる。大江健三郎『沖縄ノート』(岩波新書、1970)と鶴見良行『反権力の思想と行動』(盛田書店、1970、『著作集2 べ平連』所収)である。この2冊から両者のアメリカとの向き合い方の違いが読みとれるだろう。


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