第10巻「歩く学問」“最後の旅”を読む(1)


 私たちは『著作集10 歩く学問』を最終巻として読むことになるであろう。というのは、第11巻と第12巻は、「フィールド・ノート」Ⅰ・Ⅱが収録されており、「付録」ともいえるからだ。良行の死後刊行された単著『ココス島奇譚』(みすず書房、1995)を冒頭に置いたのが、第10巻である。次の文章が表紙帯に載る。
「国境を越え、更に遠くへ──日本人の〈一粒種幻想〉の虚妄を衝き、リアルなアイデンティティのありかを探る遺作『ココス島奇譚』ほか、最晩年の珠玉のエッセイを初集成する。解説・網野善彦」

「リアルなアイデンティティ」とは、総人口2000人に満たないココス島民が独自のアイデンティティ(まとまり)を維持して、オーストラリアのココス島と、東マレーシア・サバ州で暮らす現実をいう。
 ココス島の島民は約600人、マレーシア・サバ州に住むココス島出身者たちは約1000人。その約1000人が、サバ州政府からプリブミ(「土地の人」の意)29民族の一つに数えられている。いっぽうで、サバ州に住む中国本土出身の広東人、福建人、潮州人、客家人などは、ココス島民より人口が多いにもかかわらず、一括して華人とされている。このようなサバ州のプリブミ(土地の人)政策は、西マレーシア(半島マレーシア)政府の民族政策と明らかに異なる。民族区分が異なっているのだ。
 半島マレーシアでは、4分法で民族を区分する。すなわち、マレー人、華人、インド・タミル人、その他である。いっぽうの東マレーシア・サバ州では、民族は大きく二分される。プリブミ(土地の人)か否かという区分である。先住民族を含む住民はプリブミとされ、29の民族がリスト化されている。中国系住民たちは華人として一つにまとめられている。

 ココス島民の島外移民が始まったのは、人口過剰時代を迎えた20世紀後半である。先祖の出身地であるインドネシアのジャワ島には移送されず、当初は半島マレーシアに移された。その理由は、ジャワ島がオランダ領だったからだ。オーストラリア政府はマレー語を母語とする回教徒のココス島民の一部を当時イギリス領であった半島マレーシアに移民させた。その後、第二次世界大戦を経て、ココス島民が東マレーシア・サバ州へ集団移住した。サバ州に移住したココス島民は、一つの村を形成して暮らしてきた。こうしてサバ州にココス島民のコミュニティが誕生し、社会的認知を得るに至る。

「ココス島という島名が初めて眼に入ったのは、マレーシア領サバ州でオイルパーム農園の調査を始めた五年前である」(『著作集10』p.3)
「五年前」を逆算すると、1989年頃にサバ州でココス島民に出会ったらしい。なぜ、サバ州でココス島民が民族に準ずる扱いを受けるに至ったのか。その疑問から良行のココス島民研究が始まった。 以来、ココス島へは4回でかけている。最後の旅は、1994年10月27日出発の旅である。亡くなる約50日前であった。

「サバはもともと人口移動の激しい、国境の壁の低い土地だった。そもそも国境があったかどうかも定かでない。オイルパーム・プランテーションを支えるブギス移民労働者は、この土地の『国境なき社会』風の環境になじんでやってきている」(『著作集10』p.66)
 サバ州のオイルパーム農場で働くブギス人たちは、ボルネオ島のインドネシア側からやってきた。同じボルネオ島であり、彼らにとって国境を越えることへの意識は低い。そんなブギス人たちとゆるやかな関係を保ちながら、ココス島民も自分たちのアイデンティティ(まとまり)を維持してきた。人口密度が低く、マレー語を共通語とするとはいえ、30を越える言語が存在するサバ州である。1989年の統計(『著作集10』p.5)では、サバ州の総人口は、141,196人であった。

 1990年代からサバ州ではオイルパーム生産が盛んとなり、労働者を必要とした。そのとき、先住のイバン族やルングス族は、オイルパーム農場で賃金労働者になろうとしなかった。自分たちの生活様式を守ることを優先した。そこに労働者として移民してきたのが、ボルネオ島のインドネシア側にいたブギス人たちであった。ブギス人たちのサバ移民の流れは、ココス島民のサバ移民をも巻き込むような移動となった。民族同士がゆるやかに交流し、民族の対立や紛争が少なかったのがサバ州である。とはいえ、民族同士の「好き嫌い」は存在した。

 良行の関心は、ココス島民というアイデンティティ(まとまり)の創生と発展にあった。わずか2000人に満たないココス島民たちが、世界の中で「私たちはココス島民だ」と主張し、州政府に認められて生活してきた。ココス島民の村がある東マレーシア・サバ州は、西マレーシアからの入州者にパスポートの所持を義務づけてきた。

 言語と民族の関係は、国や地方によって異なる。アジアの内陸国ラオスの民族は、約50。隣接する中国は巨大な領土だが、その中国の民族も約50に分類されている。アフリカのケニアでも民族の分類は約50である。この「約50」という分類は、アメリカ合衆国の州の数、日本の都道府県の数とも相似する。国民を約50に分割することが、20世紀近代国家の標準的な統治方法だったのかもしれない。
 その際、国家がどのような基準で民族を区分するかは、各国の民族政策や民族自治の質と関係する。スリランカではキリスト教各派、ヒンズー教徒、回教徒といった宗教集団ごとに一定の自治が法律で認められてきた。主に出産、婚姻、葬儀をめぐる各集団の慣習の保持を国が保障する。ケニアでは、一夫多妻が認められている民族がある。また、双子が生まれたときは一人を死亡させるという慣習がある民族もある。そんなケニアでは、言語や生活方式が類似する隣接する民族同士が一つの民族に統合し、同じ民族名を名乗ることが起きてきた。民族の側から再編が起きるのだ。それは、国家に対する民族の政治力の強化を目的としてきた。 であれば、小さくまとまって生きてきたココス島民から何を学ぶか? 良行の意識にあったのは、小さな差異を捨てさり、大きくまとまろうとしてきた日本人のアイデンティティ(まとまり)の再考であった。
 アイヌ人、在日朝鮮人、沖縄人などの集団的アイデンティティを社会的に小さく評価し、大きなまとまりとしての日本人を維持しようとしてきたのが、日本である。 このアイデンティティ問題を解くために、良行はココス島に通った。

 ココス島の地理上の位置を示す地図は、『著作集10』p.11の図2「サバとココス島の位置」にある。インドネシアのスマトラ島の南にある。しかし、インドネシアから海路でココス島へは行けない。インドネシアのジャワ島と較べても遥かに遠いオーストラリア西海岸のパースからの空路でしか行けないのである。そんなココス島がオーストラリア領となったのは、オーストラリア系白人がココス島を最初にココヤシ畑として開拓したからだ。島に労働者として移民してきたのが、インドネシアの回教徒の人々であった。彼らは、賃金奴隷として連れてこられたのである。そんな奴隷を出自としたココス島民が、現在のマレーシア・サバ州でココス島民としてのアイデンティティ(まとまり)を持って生きている。その不思議な歴史の研究に没頭したのが、最晩年の良行であった。

 最後に残したエッセイの中で、良行はココス島への旅について語っている。死の約3カ月前に収録されたNHKラジオ「人生読本」の談話をテープ起こしして筆を入れた「アジアに見せられて」(『著作集10』pp.228-235)である。最終節の第3節で次のように述べている。
「ボルネオの一番北にサバ州、これ、マレーシア領ですけどね、そこに入って、そこのオイルパームのプランテーションを研究していたわけです。そこにココス村というのがあるんですよ。いったいココス村ってなんやろうというわけで調べたんです。ココスというのは結局インド洋のまんなかにココス島という現在人口六百何十人という島があるんですよね。でね。それが何でプランテーションに自分たちの村を作っているのか非常に関心があって、だからココスにこの一年間で四回行くわけですけどね。それは日本、中国、朝鮮の方たちとちょっと違うんです。つまり、彼ら、はっきり言えば無人島だったところにイギリス人がやってきて自分たちの領土にしたんですからね」
 このあとに結論があるが、省略する。鶴見良行にとって、結論は相対的により小さな意味しかもたなかった。身近なモノや人々との出会いから、調べ、歩き、考える。そのことが、より重要であった。バナナについて調べ、エビの産地を見て歩き、ナマコについての文献探索をなし、旅の途上で出会ったココス島民のルーツを辿った。そして、ココス島民のアイデンティティ(まとまり)の意味を探求してきた。その作業のプロセスが、良行自身の生活の中で日々の生きる意味を生んできた。


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