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『マングローブの沼地で 東南アジア島嶼文化論への誘い』(朝日新聞社、1984)の内容は、朝日新聞社から発行されていた週刊誌「朝日ジャーナル」の1983年7月1日号から1984年4月6日号まで36回にわたって連載されたものである。連載終了直後の5月30日に単著として刊行されている。
週刊誌に連載執筆することに、良行が意識していた作品があった。司馬遼太郎『街道をゆく』シリーズ(朝日文庫)である。「街道をゆく」は「週刊朝日」に連載されていた。
「司馬作品は、読みやすい」と当時の良行は話していた。1970年代半ば、南池袋にあった良行の書斎の壁にはスチールの大型本棚が三つ並び、その最下段に司馬遼太郎全集が並んでいた。紀行文と歴史論を組み合わせた司馬作品の手法で東南アジア紀行を書くこと──。良行の長年の目標であった。
『著作集7マングローブ』には朝日選書版(1994)が収録されている。選書版には初版(1982)の「あとがき」(『著作集7』p.273)に続く新たな「あとがき」(『著作集7』p.275)がある。日付は1994年1月。単行本の初版(1982)と選書版(1994)はともに朝日新聞社からの刊行である。
『マングローブの沼地で』は、第Ⅰ章「ミンダナオへの旅」で始まる。フィリピン・ミンダナオ島は『バナナと日本人』(1982)の舞台である。バナナ研究とマングローブ研究は同時進行していた。
良行には、単著を約7年かけて書くという、「7年説」があった。
『アジアを知るために』(筑摩書房、1981)の「あとがき」には、「(所収の=引用者註)わずか二本の論文を書くのに約七年の歳月を要した」(p.233)とある。同じように、『バナナ』も『マングローブ』も約7年の準備と取材を要している。
『マングローブの沼地で』は、週刊誌の連載時から読者に好評だった。単著刊行は、連載中に決まっていたようだ。初版(1984)の帯文に、次の文章がある。 「原点への旅
東南アジアの島々の文明は沼地で興った。沼地には海を頼りに生きる人々、漁民・商人・海賊と、森を焼いて移動する焼畑農民がいた。海も大地も大帝国を生まなかった。ここにあるのは、村落単位の移動分散型社会である。フィリピン、マレーシア、インドネシアの沼地を歩いて、人々の歴史と今日の姿を報告する」
それから15年後の『著作集7』(1999)の帯文は、次の文章である。
「海と大地をつなぐ沼地から、自由に組み替え、移動していく島嶼東南アジアの社会が誕生した──独創溢れる長篇『マングローブの沼地で』に併せ同時期の味わい深いエッセイの数々を収録する」
これら二つの文章から15年の時差による鶴見作品の評価が読みとれるだろう。1984年の出版では、移動分散型社会を新たな社会論として提起したときの雰囲気が伝わる。99年の『著作集7』の帯では、『ナマコの眼』(1990)に至る「鶴見アジア学」の展開が読みとれる。
『著作集7』は、450ページの大著である。464ページの『著作集9 ナマコ』(1999)、502ページの『著作集5 マラッカ』の長編3作品は、十分な準備と取材を経て書かれている。これらの三部作を刊行順に読めば、文体の精度の高まりが感じられる。岩波新書『バナナと日本人』(1982)を上記3部作の「解説」として読む方法もあるだろう。
『マラッカ物語』(1981)が刊行されたとき、「最後まで読む人は、全国で何人くらいいるだろうか?」などと良行周辺の人に言われた。一般読者には難解な本であった。 しかし『マングローブの沼地で』は、多くの読者に読んでもらえる文章の流れがあった。読者の東南アジアへの理解も徐々に深まっていた。Ⅰ章「ミンダナオへの旅」、Ⅱ章「ザンボアンガからスルーへ」、Ⅲ章「ボルネオへ」と続く流れで、旅の紀行文と共に、その地の歴史と現状が語られる。旅の目的については冒頭に簡潔に述べられている。
「東南アジアの文化の原型は、海辺の沼地にあるのではないか。少なくとも、その一つは沼地から生まれたのだと思う。沼地は、この地域独特の文化と生活様式を育てた。古(いにしえ)のことだけをいうのではない。この文化は、現代の東南アジアにも、深く影響している。それを確かめたくて歩いてみることにした。
沼地文化論は、一種の日本批判である。日本人は自分の文化を評価するについて、優等主義だ。早くから定着―国家社会を建設した優れた先進文化で自分を測ろうとする。優れた者に追いつこうとする。ヨーロッパ近代は、日本人が追いかけたモデルだった」(『著作集7』p.3)
文化論を語りながらも文化理論や社会理論への言及は、避けている。読者に馴染みのないマングローブの沼地で暮らす人たちの生活と歴史を淡々と語ることに徹している。横の繋がりで生活し、タテの社会関係を避けてきた沼地の人々。形式的に表面上は特定のサルタン(盟主)に属しても、自由に移動して所属するサルタンを替えることができた。
国家のようなまとまりのある社会から離れて自由に生きてきたのがマングローブの沼地に住む人々である。その生活様式と歴史は、従来の日本の一般的な国家観や社会観を覆す内容があった。国家を持たない人々が現在も存在していること。沼地の人々の詳細な生活を伝えることが主要テーマであった。
フィリピン、マレーシア、インドネシアでの国民意識の形成は、いまだ十分でない。国民意識が未完のまま、母語の異なる多くの民族が共存する。彼らは、所属する民族へのアイデンティティを優先して生きている。そんな未完の国民意識について、近代国家として「遅れている」という見解がある。しかし、良行はそうは考えなかった。国民意識を優先することに異議を感じていた。人々は、もっと自由に生きてよい。そう考えるときの自由とは、国家権力からの自由である。(参照=鶴見良行『反権力の思想と行動』盛田書店、1970 /『著作集2』所収)
日本で縄文・弥生時代を取り扱うテレビ番組などで、「縄文時代の日本人」「弥生時代の日本人」などの標題で番組制作している。縄文や弥生の時代、「日本人」という概念や意識は成立していなかった。成立するのは、江戸末期から明治時代にかけてである。にもかかわらず、「日本人」という言葉が安易に使われる。それに異議を申し立てた。
マングローブの沼地にある移動分散型社会は、国家を追い求めてこなかった。そこに良行は人としての自由を感じたのだった。
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