第8巻「海の道」の時代(2)───

『著作集8』の帯に、次の文章がある。
「東南アジア多島海で重要な交易路として機能してきた“マカッサル海道”の歴史にアプローチする長編『海道の社会史』に著者積年のテーマである〈海民論〉全500枚を初集成する。解説・秋道智彌」

「海民論」は、『海道の社会史』(1987)以後の良行の論考を、第8巻の編集を担った村井吉敬(1943-2013)が集成したものだ。「海民論」という標題は、『著作集8』の本文や目次にない。第Ⅳ章「海を渡る人びと『海道の社会史』の周辺」(pp.175-311)が、「海民論」である。全15編の論文で構成されている。

 先に書かれた『海道の社会史』も上智大学での講義をもとに書かれたが、同様に「海民論」の第一節「新しい東南アジア学の発想」も上智大学での講演がもとになっている。通常の学部での講義でなく、上智大学外国語学部アジア文化研究所主催の「いまアジアを学ぶとは」のテーマで行われた講演であった。1987年1月のその講演は、立ち見の学生が教室外にあふれるほど人が集った(参考=『著作集8』「解題」p.323)。

「新しい東南アジア学の発想」は『海道の社会史』に至る、「越境する」試みについて述べられている。
「社会史は、日本史の網野善彦さんその他の努力でかなり最近はよく聞かれるようになりました。
 (中略)
 どういう手法(社会史の手法=引用者註)を持っているかというと(中略)第一に民衆の生き方にアプローチする。ですから、制度史よりは生活史という傾向が強い。それから、学問の越境を許す寛容性がある。学問には、歴史学、社会学などそれぞれの学固有の手法があるわけですけれども、そういうものにこだわらない、そういう意味からいうとインターディシプリナリーなんです」(『著作集8』p.187)

「もう一つは、国境で考えない。つまり、日本の歴史をある時代より前は、古墳時代とか、そうした時代においては、日本列島の住民として考えていて、“日本人”としては考えていない。つまり、日本の歴史を日本人の歴史としては考えていない。むしろ、そこには様々な人がいる。日本列島の歴史として考えている。
 (中略)
 インドネシアの歴史をインドネシア国民の歴史としては、全然考えられないわけで、インドネシアという言葉自体、発明されたのは、一八五〇年代です。マレーシアという概念はもっと新しいし、フィリピンはスペインのフェリペ王子の名前をとったわけで、フィリピン人というのは、フィリピンに住んでいるスペイン人のことを言っていたんです」(『著作集8』pp.187-188)

 良行が取り組んだ東南アジア島嶼部における国境を越える領域での研究は、今日においてもそれほど進んでいない。専門分野を国ごとに分ける考え方に変化が起きていないからでもある。良行が国境を越えて研究できたのは、民間研究者であったからなのかもしれない。

 良行が国際文化会館嘱託職員(非常勤職員)を退職し、上智大学外国語学部およびアジア文化研究所兼任非常勤講師となったのは、1986年4月である。『海道の社会史』は、1987年3月に刊行された。『著作集8』の後半にある「海民論」は、1987年から91年までの論考である。上智大学での所属は、86年から1989年までの3年間であった。その間に書かれたのが、「海民論」であった。同時期の執筆に、『ナマコの眼』(筑摩書房、1990年)がある。

 上智大学に所属した3年間でエネルギーを注いだイベントは、木造船「チェハヤ号」によるアラフラ海への調査航海だった。
「1988年62歳
 7月13日 インドネシアへ出発。アラフラ海航海を目的に、7月27日から8月30日の間、140トンの木造線「チェハヤ号」で仲間16名と航海、解散後、タイに立ち寄る」(『著作集12』「年譜」p.432)

 このイベントを企画・立案・実施も上智大学に所属していた時代である。仲間たちが集りやすい環境にあった。
 上智時代の良行は、「海民論」の論考を書き進めながら代表作『ナマコの眼』(筑摩書房、1990)の執筆にとりかかっていた。
「海民論」は、『ナマコの眼』の背景を説明する学術ノートでもある。二つの論考は、対をなして互いに補い合っている。しかし、「海民論」の全容が明らかになったのは、良行の死後であった。村井が『著作集8』を編集したことにより、「海民論」が読者の前に示された。

 上智大学教員の村井と良行の関係は、それぞれが残した著作からも窺える。二人の関係は、人間同士の関係としても濃密だった。村井も良行も修士や博士などの学位を持たなかった。上智大学は、博士学位の研究者を多数迎えながらも学歴や学位を最優先しない自由な学風があった。
 村井と良行が所属した外国語学部は、上智大学文学部から派生した学部である。文学部の創設(1928)は、カソリック教徒であり人類学者だった鳥居龍蔵(1870-1953)による。鳥居は、日本の学界に最初に「歩くアジア学者」として登場した研究者であった。鳥居の生涯を扱った中園英助『鳥居龍蔵伝 アジアを走破した人類学者』(岩波書店、1995)の帯に次の文章が載る。
「東京帝国大学を辞去し、家族とともに東アジア全域を踏破した日本初の探検型フィールドワーカー・鳥居龍蔵」

 鳥居龍蔵の自叙伝『ある老学徒の手記』(岩波文庫、2013)には、鳥居は小学校中退とある。しかし、該当の小学校に残る文書には卒業となっていた。学校に来なくなった生徒を卒業として処理することは、現在の高等学校でもなされている。小学校を経たあとの鳥居は、人類学を独学した。そして、学術誌に投稿するようになる。彼の論文は東大の人類学教室教授・坪井正五郎(1863-1913)に認められ、鳥居は人類学教室の倉庫係として働きはじめた。その後、東大での授業を聴講し、医学部の学生に混じり人体解剖の実習も行った。多くの論文を書き上げ、東大助教授となった。次期教授と思われていたが突然、東大を辞職した。博士論文の審査不正に異議を唱え、自ら東大を辞職したのである。フィールドワークなしの人類学博士論文を鳥居は認めなかった。

 その後、家族でモンゴルに渡り、戦中・戦後は北京にあった米国ミッション系・燕京大学(米ハーバード大学の支部)で客員教授として研究と教育に携わった。鳥居が北京で収蔵した全図書は現在、米ハーバード大学図書館にある。妻・鳥居きみ子(1873-1959)もモンゴル文化研究の人類学者であった。きみ子は、モンゴル語で講義ができた。中国語、フランス語、英語も話した。きみ子の業績の一つは、世界で初めて民族音楽をレコードに記録したことにある(参考=竹内紘子『鳥居きみ子 家族とフィールドワークを進めた人類学者』くもん出版、2024)。

 いっぽうの鳥居龍蔵は民族学で初めて写真による記録を残した。鳥居の写真は、100年を経て世界で認められるようになった。現在、台湾のテレビで山岳民族の文化が取り上げられるとき、鳥居の写真が使われている(参考=『鳥居龍蔵全集』全12巻、朝日新聞社、1975-76)。
 上智大学文学部創設者としての鳥居龍蔵が、良行に自由な学風を残していた、と私には思える。

 鳥居は、台湾での山岳地少数民族を何回かに分けて調査したあと中国西南部での山岳少数民族の調査を実施した。台湾と中国大陸の民族分布の比較研究である。当時(1903年)の鳥居の記録に次の記述がある。
「この比較研究を発展させるためには、フィリピンの調査も必要となる。マレー諸島の調査も必要となる。太平洋諸島の調査も必要となる」(参照=徳島県立鳥居龍蔵記念館資料「中国西南部の旅人 鳥居龍蔵と高原の少数民族」2026年、p.30から意訳して引用)

 鳥居龍蔵の山からの視点と、良行の海からの視点が交わる領域に注目したい。そこに新たな発見がありそうだ。


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