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『著作集8 海の道』は『海道の社会史 東南アジア多島海の人びと』(朝日選書、1987)を中心に編纂されている。巻の後半には『海民論』全500枚が載る。『海民論』は、『著作集8』の刊行で編集された。『海道の社会史』以後の論考がまとめられている。良行がもうすこし長生きしていたら、『海民論』は単著となっていたかもしれない。
『海道の社会史』は、ナマコの交易路「マカッサル海道」がテーマである。のちの『ナマコの眼』(筑摩書房、1990)と繋がる。『ナマコの眼』を書く準備として『海道の社会史』を書いた、ともいえる。あるいは、『海道の社会史』を書くことで、『ナマコの眼』執筆に向かう準備となったと推測できる。良行の著作活動は、これまでにも複数の著作が相互に関連していた。
西側のボルネオ島と東側のスラウェシ(セレベス)島に挟まれたマカッサル海峡を「マカッサル海道」と名づけたのは良行である。マカッサル海道を舞台に「ナマコ交易の歴史」について、2冊の本(『海道の社会史』『ナマコの眼』)を書いたことになる。その2冊に約10年かけている。
東西を結ぶマラッカ海峡は、「マラッカ海道」として知られていた。しかし、「マカッサル海道」は同様には論じられてこなかった。ナマコが中国に運ばれたマカッサル海道は、欧米の歴史書に記述されてこなかった。そこに歴史への視点の歪みを見たのが、良行であった。
この視点の歪みは、「産業や文化が国の行政の支配によって進む」(『著作集8』「月報第7号」p.11)という近代主義の考え方と繋がる。
国家が産業や文化を支配するようになったのは19世紀以後のことだ。18世紀まで産業や文化は、国家がなくても発展してきた。人々の生活の営みは国家成立以前から存在した。国家が登場してからも人々の生活の営みが大きく変わることなく存続してきた地域も少なくない。マカッサル海道の両岸の人々の生活はまさにそのような地域であった。
16世紀に西洋人たちがマカッサル海峡に到達し、香料の貿易を開始した。しかし、彼らは南北を走るマカッサル海峡を「海道」として利用しなかった。
「ここ(マカッサル海道=引用者註)を使わなかったのは、西洋人たちだけであって、島々の住民にとってマカッサル海道は、かなり便利な航路だった。マカッサルの無名性には、西洋人の認識が反映しており、不当な見落としがあるような気がする」(『著作集8』pp.1-2)
その問題意識からマカッサル海道を論じていく。序論で語られている3点の眼目を簡単に要約しておく。 (1)マカッサル海道の無名性を洗い直せば地域の歴史に新しい光を当てることになるかもしれない。
(2)西洋の植民地支配は19世紀の半ばから始まったが、プランテーションや賦役労働が島嶼東南アジア全域を覆ったわけでない。植民地支配を受けなかった地域や住民に注目して偏った東南アジアの理解の欠落を埋め、歪みを正すために海道に的を絞って研究する。
(3)「地方史は、国家史の立場と必ずしも一致しない」(インドネシアの史家)。日本では、単一民族論の迷信が強く、権力の集中と統合の度合いが高いので、島嶼東南アジアにおける「田舎の主体性」が見落とされてしまう。中央に統合されず、のびのびとしているのも、また美しい生き方ではないか。
「ヨーロッパ近代から入った理論への異議申し立て」(『著作集8』p.4)が通底する。現場を歩いて得られた観察から記述していく手法である。
「西洋近代で生まれた概念ーたとえば土地所有、封建制、民族国家、中世・近世・近現代などの時代区分ーでは、島嶼東南アジアの社会は分析しきれないのではないか」(p.5)
「時代区分」という概念が、そこで述べられている。日本歴史学界における時代区分論争は終戦直後から1980年代まで続いた。その論争に良行と交流のあった網野善彦も関与した。網野の『日本中世の民衆像 平民と職人』(岩波新書、1980)の背景に、歴史家・安良城盛昭(あらきもりあき、元大阪府大教授、1927-93)との論争があった。(参考=論争の概要は次の文献に載る。安良城盛昭『天皇・天皇制・百姓・沖縄 社会構成史研究よりみた社会史研究批判』吉川弘文館、1989)
その「時代区分」批判という観点からも『海道の社会史』は書かれている。地理的にもインドネシアとパプアニューギニアにまたがる「マルク圏」、マレーシアとインドネシアにまたがる「スラウェシ圏」、フィリピンとマレーシアにまたがる「南ミンダナオ圏」が論じられている。3つの圏域全体を良行は、マカッサル海道として論じた。良行以外にマカッサル海道を論じた研究者は日本にいなかった。なぜなら、国別に領域を分割して研究してきたのが、日本の社会科学研究であったからだ。
本の執筆に際しては、多くの読者に届くように物語性を重視した。時には学術論文では避ける用語も使っている。「勝手に想像している」「私にはわかっていない」(共に『著作集8』p.134)、「私の印象である」(p.136)など、推測的な記述が散在する。
1985年59歳のとき、良行は中央大学商学部で非常勤講師として半年間、講義している。大学講師として1年目の講義であった。講義内容は、アジア学であった。教室での学生たちとの議論は思うように進まなかった。その経験を踏まえ、翌年(1986年)は上智大学で非常勤講師として講義に臨んだ。担当科目は、「アジア文化演習」である。この講義は、『海道の社会史』につながる成果となった。主に学部生たちへの講義をもとに書いている。彼らと良行とのやりとりは、学生たちからのレポートを介してなされた。
「試験は、題をあらかじめ与えました。六回目くらいのときに題を与えて、課題論文でレポートを提出してもらった。(中略)その方達が三枚、五枚なりのレポートを書くと、私は読む時間が大変なので、課題論文を試験の時間に書いてくださいと申しました。」(『著作集8』p.184) 上智大学での講義は、1989年度まで3年間続いた。その3年間に、『ナマコの眼』を執筆している。
東南アジア島嶼部に詳しい研究者・秋道智彌(あきみちともや、1942-、地球環境学研究所名誉教授、国立民族学博物館名誉教授、専門は海洋民族学)が、『著作集8』の巻末解説「海の道をたどる」(pp.313-322)を書いている。そこには良行の論考についての専門的な評論がある。
「域内における流通網では、ブギス人、マカッサル人、華人などの果たす役割は大きい。そのことを鶴見氏は百も承知である。フロンティアの漁民や流動するブギス人に注目することがさしずめ肝要である」(p.317)
そして、
「としても、そこから移動する物産を集荷し、あるいは流通ネットワークに乗せこむ商人や中小の流通業者、集荷、荷受人などを含めた交易論が必要ではないか。私は、そのネットワークを、さまざまな民族集団がとくに重要な役割を担っている点に注目し、エスノ・ネットワークと呼んだ」(『著作集8』pp.317-318)
秋道智彌が論じているのは、ナマコがマルク圏からマカッサル海道を通過して中国に運ばれる過程の、収穫から加工・集荷・流通における多様な種族のネットワーク(役割分担)である。秋道は、つぎのように書いている。
「インドネシアのバジャウ-ブギスの関係、タイやマレーシアにおける頭家(タウケー)、フィリピンにおけるスキなどを詳細に検討することが交易論をより豊かにすると考えている」(『著作集8)p.318)
この解説を秋葉が書いたのは、2000年。『海道の社会史』の刊行から13年の時を経ている。その年月の経過から、秋葉が「エスノ・ネットワーク」への視点を得たのかもしれない。(参考=秋道智彌『海人の民族学ーサンゴ礁を超えて』日本放送出版協会、1988年)
良行がナマコの生産・流通を含めてマカッサル海道に取り組んでいた頃、種族同士の連携やネットワークを分析するだけの情報は得られていなかった。ナマコ交易における各種族のエスノ・ネットワークの分析・解明は、良行が次の世代の研究者たちに残した課題であったのだろう。
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