|
前回述べてきたように移動分散型社会の文化について伝えることが『マングローブの沼地で』の第一のテーマであった。第二のテーマは、「差別」である。マングローブの沼地周辺では、陸の民が海の民を差別してきた歴史がある。その歴史を辿ることで、差別はどのように生まれてきたのかを考察した。
「海洋民は、大地の民、農民にいつも差別されてきた。それは全世界的なことらしい。なぜ、そうなのか。それも、沼地文化論で考えてみたい」(『著作集7』p.5)
『マングローブの沼地で』朝日選書版の「あとがき」に歴史学者の網野善彦への言及がある。
「歴史は必ずしも定着農耕地帯だけを舞台として展開したのではなく、熱帯雨林の焼畑耕作者や採取狩猟民は絶えず移動しながら生きている。日本の歴史はあまりにも稲作中心、コメ史として書かれすぎている。それが私の異議である。これはその後、日本史の網野善彦さんなどと繰り返し論じあったことである。さらにいえば、『移動は未開、定着は進歩』と単純に信じられているが、歴史はそれほど単純一直線の進歩ではなかった」(『著作集7』p.274)
1994年1月の文章である。良行が亡くなったのは、同年12月であった。もう少し生きていれば、網野との議論はさらに深まったと思う。
『対話集 歩きながら考える』(太田出版、2005)には、網野と良行の対談が2編収録されている。「アジアと日本の〈海の民〉」と「海民の世界から見直す日本文化」である。語られているのは、網野の日本中世史の研究と、良行の東南アジア研究が比較・対比されている。網野『日本中世史の民衆像 平民と職人』(岩波新書、1980)と『マングローブの沼地で』の比較ともいえる。網野が描いた日本中世の自由民は、良行が語るマングローブの沼地で暮らす移動分散型の人々と重なる。
マングローブの沼地に住む人々は、中世的社会から一気に20世紀に投げ込まれたかのようだった。そこから網野の著作を学びはじめた。日本中世史のなかにマングローブの沼地の文化を理解するヒントを求めた。網野は中世日本社会の研究を基に、その後に続く封建社会での身分制発生史に取り組んでいた。差別はどのように生まれ、制度化されたのか。そこでも良行と網野の問題意識は重なっていた。
江戸時代には約300の藩があった。それらの藩の身分制度は、細部が異なっていた。身分と関連づけられた職業は、藩によって違っていた。差別を「封建遺制」といえるのかどうか。明治時代になって新たに生まれた被差別地区もある。「封建遺制」論争は、歴史研究者のあいだで現在も続く。沖縄には近世の士農工商という身分制度は存在しなかった。九州と北陸の近世身分制度には、細部に違いがあった。一律には捉えきれない。
良行の差別についての考察は、いくつかの著作に分散する。同じ著作でも差別への考察は、分散してある。『著作集7』Ⅳ章3「鳥神の世界」にも差別文化に関する記述がある。 「イバンを放浪者と呼んだのは、ここに先行していた同じ焼畑のカヤン族である。いくらかの差別用語である。集団の名称が差別の感覚を伴なわずに生まれるかどうか疑わしい。差別を契機に名称が生まれてくる経過と、差別を克服する人間の努力は、別の次元の問題である。(中略)差別は支配=被支配の上下関係にかかわりなく発生することもあるのだ」(『著作集7』p.230)
第Ⅲ章にも差別への言及がある。下に引用する。
「白人僧と現地人僧の間に身分差別が生じる。差別の解消が掛け声となってくる」(『著作集7』p.176)
この箇所では、フィリピン独立運動の英雄ホセ・リサール(1861-96)を論じている。フィリピンでスペイン人主体のカトリック教団が地主集団として農園を経営していく過程で、人手が足りなくなりフィリピン人神父を必要とした。そんな時代の到来で現地人ホセ・リサールのスペイン留学が実現する。留学したリサールは、知識と語学力を身につけて著作を発表していった。やがて、国際的に知られる作家となる。その時代の白人僧とフィリピン人僧の間にあった差別について、ホセ・リサールは冷静に書き残している。
良行は次のように書いている。
「リサールとプライヤーの交際は急速に進む。どちらかというと男っぽい気性のアダ夫人が積極的だった。亭主の方は、教養ある東洋人の出現に戸惑い、少しばかりの差別感をいだいたようだ」(『著作集7』p.178)
プライヤーという人物は、イギリス人ウィリアム・プライヤーである。イギリスによる北ボルネオ植民地経営の時代、彼はサンダカン開拓に従事した。ホセ・リサールはスペインから香港行きの船でプライヤー夫婦と知り合った。そして、香港からサンダカンへの航海を共にする。その航海での会話で、ホセ・リサールはコメ不足のサンダカンにフィリピンから農民を連れてきて米作に従事させるという構想を提案した。この計画は実現しなかった。しかし、ホセ・リサール自身はサンダカンへの入植移民を真剣に考えていたという。このリサールの物語のなかにも「差別」がときおり顔を出す。
「4サンダカンのリサール」(『著作集7』pp.175-181)は、とりわけ丁寧に書かれている。その理由の一つは、戦後最初にホセ・リサールを日本に紹介したのが、良行だったからだ。ホセ・リサールの著作『ノリ・メ・タンヘレ─わが祖国に捧げる』(井村出版事業社、勁草書房販売、1976)の翻訳出版は、良行が企画したものだった。
もうひとつの理由があった。それは、山崎朋子『サンダカン八番娼館─底辺女性史序章』(筑摩書房、1972)との縁である。女性史家・山崎朋子(1932−2018)の研究手法に良行は敬意を抱いていた。山崎と良行は、共に独学でアジア学の独自の研究領域を切り拓いた民間学者であった。
からゆきさんの地・北ボルネオのサンダカンが、現在どうなっているのか。良行は現地を取材している。サンダカン郊外のマングローブ林が日本の会社によって伐採されていた。働いている労働者は、ミンダナオ内戦から逃れ、移民してきたフィリピン人労働者たちである。伐採されたマングローブ林がチップスとなり日本の製紙工場に送られていた。世界で唯一、日本はマングローブの木材を紙の原料にしていた。マングローブ林の利用なしに、新聞紙を補給しえない日本となっていた。さらに、マングローブ林なしでは製造できない世界的な飲み物があった。コカコーラである。コカコーラの色あいを出す染料は、マングローブの皮から作られている。フィリピンには巨大なコカコーラ工場があり、サンダカンのマングローブが輸出されていた。(参考=『著作集7』p.154)
東マレーシアのサバ州では日本の企業群が、マングローブ林を破壊していた。いっぽうで、マングローブの再生に努力する農民を支援する日本の民間団体(NGO)があった。バングラデシュの農村で活動していたシャプラ=ニール(国際協力・民間開発団体)である。その活動に良行は注目した。
「ベンガル湾の海辺では、生態系を回復するためにマングローブの移植が逆に行われているという」(『著作集7』p.79)
良行のもとにバングラデシュのマングローブ林についてのレポートが送られてきたのは1982年であった。『マングローブの沼地で』の執筆が開始された頃である。送り主は、シャプラニールから現地に派遣されていた斉藤千宏(1954−、日本福祉大学教授)である。この斉藤レポートは、その後の良行の研究スタイルを変えた。(参考=斉藤千宏『NGO国際ボランティアレポート』明石書店、1997)
それまでの良行は海外ボランティアというアジアへのアプローチを疑っていた。東南アジアの国々で出会ってきたJICA青年海外協力隊のボランティア隊員たちとは、距離を置いて接してきた。彼らはボランティアの受け入れ体制の不十分な現地行政に不満をいだき、その不満だけを語っていたからだ。その良行が、斉藤からのレポートに感銘を受けた。以後、良行はNGO(民間団体)の海外活動に興味を持つようになる。
シャプラ=ニールは、東京・早稲田奉仕園に事務局を構える。早稲田奉仕園は、海外援助の民間団体に所属する人々の交流の場でもあった。その周辺の飲み屋に良行が出没するようになるのは、1982年以後のことになる。
|