第10巻「歩く学問」“最後のエッセイ”を読む(2)


 著作集を第1巻から読み進めていって最終的に思い至ったのは、鶴見良行は何を書かなかったか?という疑問である。この第10巻収録のエッセイを読み、良行の「書かなかった領域」が少し理解できた。
 一つは、家族写真論や家族論を書いてきた良行が、自らの家族について書くことがなかったことだ。従兄の鶴見俊輔(1922-2015)は、自分の父や母について多く書いた。いっぽうの良行は書いてこなかった。家族との関係は、良行にとって大きな課題であった。
『著作集10』収録のエッセイ「鶴見俊輔の血縁思想」(pp.165-167)に、良行の母が登場する。
「小学校低学年のころ、私が母から聞かされた俊輔のイメージは“不良”と“天才”だった。これは俊輔が今日少年時について回想しているのと一致する」(『著作集10』p.165)
 自らの母について良行が書いたのは、この一箇所だけである。そこに母の名前(=鶴見英)は記されていない。こんなところに、良行と母の関係が暗示されている。
 父・鶴見憲(1895 -1984)について、良行が書いた文章がある。『マラッカ物語』(1981)の「あとがき」である。
「父が太平洋戦争開戦直前のシンガポール総領事、占領期の初代マラッカ司政長官である。大佛次郎の『帰郷』は、同窓である作家が父の官邸に滞在中に発想を得たのだ、ときいた。だがそうした個人的因縁は、本書の執筆とさしてかかわりがない」(『著作集5』p.304)
 このような断わりの文章を書いている。そこに父・鶴見憲と良行の距離が伺える。

 1984年、インドネシア旅行中に父・憲の危篤を知ったが、良行自身は直ぐに帰国しなかった。同行していた妻・千代子を先に帰国させ、自らは旅を続けた。毎晩、日本に電話し、父の容態を確認した。良行の帰国は、8月16日。父・鶴見憲は、8月18日に88歳で亡くなった(『著作集12』「鶴見良行年譜」p.431)。

 良行は、外交官だった父・鶴見憲の赴任先アメリカのロスアンジェルスで四男一女の長男として生まれた。アメリカでは小学校低学年まで過ごした。アメリカ人として育ったのである。日本で成人するまでアメリカ国籍を保持していた。父が満州国に赴任したときは、現地の小学校に通った。満州国高官の子供たちや亡命白系ロシア人の子供たちと共に学んだ。満州で小学校を卒業し、日本での中学受験のためにひとり帰国した。長男として育てられた良行だが、長男としての生きかたに違和感を持つようになっていた。
「結婚したとき家内の姓に入れてもらおうと思ったが、義父に『婿をとる気はない』と断わられた」(『著作集10』「鶴見俊輔の血縁思想」p.166)
 1952年の結婚時、鶴見姓を捨てるつもりがあったらしい。そこに、良行の妻〈旧姓〉安武千代子の父・安武氏(実業家)が登場している。この箇所以外で、良行は安武家の人々について書いていない。
 良行の義父母となる安武家の両親に結婚の正式な申し込みを託したのは、従兄の鶴見俊輔であった。当時、父・鶴見憲が安武家に通えないほど遠くに住んでいたわけではない。しかし、結婚を親同士の話とせず、従兄の鶴見俊輔に託して結婚の話をまとめてもらった。この話は、『著作集1』(1999)の巻末解説・鶴見俊輔「この道」(pp.293-294)でも語られている。新民法で結婚に親の同意が必要でなくなったが、自分とほぼ同世代の従兄に結婚話をまとめさせたのである。
 良行の家族や親族への向き合い方は、知人・友人の家族・親族についても同様であった。若い友人との付き合いで、父親の職業を尋ねることはなかった。

 そのような良行だが、例外的に知人の配偶者について書いたエッセイが『著作集10』に2篇ある。「たべものの道」(pp.175-179)と「台所からのぞく豊かな食卓とアジア経済の複雑さ」(pp.193-198)である。共にフィリピンでの同じ夕食会の出来事が書かれている。フィリピン大学のランディ教授宅での話である。
 以下は、「たべものの道」から。
「友人の家には彼の義父で民族主義思想家として有名なコンスタンティーノ教授も夫人同伴で現れた。彼らは思想家としてはラディカルだが、好みは保守的で頑固だ。ところがその夜、コンスタンティーノ夫人は、『これは私が持って帰るんだからみんな手をつけちゃダメよ』とバッグを抱え込んでしまった」(p.177)
 コンスタンティーノ夫人が持ち帰ろうとしたのは、良行が日本で料理して持ち込んだ「変わりキンピラ」であった。その日のキンピラは、「ヒネタクアンの千切りとシラス干し、淡路島の干しエビをゴボウとあわせた」キンピラ料理であった(p.179)。
 もう一つのエッセイ(「台所からのぞく豊かなアジア経済の複雑さ」)では、「ごぼうについては驚くべき反応があった。あの気難しいコンスタンティーノ夫人が『これはわたしのものよ』と残ったキンピラを抱え込んだのである」(pp.197-198)

 上記のように、コンスタンティーノ夫人についてエッセイの中で書いているのは、異例ともいえるだろう。通常、知人・友人の夫人について、良行が書いたり話したりすることはなかったからだ。
 レナト・コンスタンティーノ著、鶴見良行監訳『フィリピン・ナショナリズム論(上・下)』(井村文化事業社刊、勁草書房発売、1977)が企画されたとき、著者自身が良行を翻訳者に指定している(『著作集10』「フィリピンの縁」p.109)。そこからレナト・コンスタンティーノ夫妻との長い付き合いがあった。夫人のエピソードを2編のエッセイに書いたのは良行の死の前年1993年である。


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