鶴見良行『バナナと日本人』(1982)から20年を経て、『フィリピンバナナのその後 多国籍企業の操業現場と多国籍企業の規制』(改訂版、七つ森書館、2006)が出版された。黄色い帯文には「鶴見良行氏が『バナナと日本人』を出版してから20余年。その後、フィリピンバナナはどうなったか…」とある。『バナナと日本人』を起点に生まれたバナナ研究の成果のひとつが、ここにもある。
『フィリピンバナナのその後』は、学術研究書でもある。長年、国際消費者運動に携わってきた中村洋子(1947-、愛知県立芸術大学教員)は、消費者運動の視点からバナナ問題を論じ、その農薬使用の実態に焦点を当ててきた。
「中村洋子先生を中心に名古屋の研究グループが『バナナから人権へ』を出版され、私(鶴見:引用者註)があつかえなかった農薬の問題もとりあげられました。日常生活に密接したバナナをつうじて、東南アジアとのつながりをみていく、その方法の有効性がわかりました」(『鶴見良行著作集10 歩く学問』「エビと日本人」p.112、1988年6月「ルーム・こむ」にての講演。『学院ニュース 第256号』1988年11月1日発行に同事務局による構成で発表された)
中村洋子によるバナナ研究は、『バナナと日本人』(1982)の出版よりも早い1980年に開始されている。
「一人の小柄なフィリピン人が、ミンダナオ島からやってきました。一九八〇(昭和五五)年の晩秋のころでした。彼は日本各地を廻り、ミンダナオのバナナ労働者がどんなに過酷で非人道的条件の下で、バナナを作らされているかを話して歩きました。
では、なぜ彼はそのことを日本に訴えにきたのでしょうか。
それはミンダナオの広大なバナナ農園が、実は日本向けバナナを生産するために拓かれたものであったからです」(池住義憲・杉本皓子・中村洋子『バナナから人権へ』「はじめに」同文館、1988)
1980年にフィリピンから日本にやってきたバナナ労働者の名前は、ドドン・サントス。アジア太平洋資料センター(PARC)が制作したスライド「人を喰うバナナ」の上映と共に全国を講演して歩いた。当時、ドドン・サントスは鶴見良行とも多くの時間を共有した。
「その後間もなく、スライド『人を喰うバナナ』制作の中心人物であった鶴見良行氏が『バナナと日本人 フィリピン農園と食卓のあいだ』(一九八二年 岩波新書)を出版した」(中村洋子『フィリピンバナナのその後』p.21)
フィリピンバナナに取り組んでいた中村らの市民運動に『バナナと日本人』(1982)の刊行は弾みを与えた。中村らの活動地・名古屋では「フィリピンバナナと私たち・名古屋グループ」が生まれる。続いて「フィリピン情報センター・名古屋」が設立され、情報発信活動の場となった。同時にバナナ研究も進み、数多くの論文や文書が生み出された。それらを取りまとめたのが、さきにふれた、池住義憲・杉本皓子・中村洋子『バナナから人権へ フィリピンバナナをめぐる市民運動』(同文館、1988)である。
バナナ農園労働者ドドン・サントスについては後日談がある。ドドン・サントスは偽名であり、マルコス独裁政権下の時代に身を隠して日本を講演旅行したらしい。そのことが明らかになったのは、来日から数年後のことであった。1986年2月にフィリピン民衆蜂起でマルコス独裁政権が倒れ、民主派とされたアキノ政権が成立した以後のことである。
フィリピンバナナの労働者たちを支援する市民や弁護士たちが政府側の警察などに命を狙われる事件は、マルコス政権下ではたびたび起きた。1985年ダバオでは、人権活動家のロマフロ・タホ弁護士が自宅で銃により殺害される事件が起きている。暗殺を伝える新聞(Peoples Daily Forum Davao City、1985年4月4日号)は、自宅の居間で殺害されソファーの上に横たわるタホ弁護士の死体を背後から写した現場写真を新聞に掲載した。『フィリピンバナナのその後』(p.100)にも掲載されている。
ドドン・サントスの偽名で来日した人物は、弁護士コロナド・アブセンであった(『フィリピンバナナのその後』p.23)。
その事実を中村が本人の口から聞いたのは2003年3月の千葉県幕張での行事の会場だったという。
「今は有機栽培技術の開発や、バナナ販路の開拓など、色々な仕事をやっている。トータルな人間として生きることは、とても楽しい」
コロナド・アブセン(ドドン・サントス)からの話をもとに中村が改めて取り組んだのが、単著『フィリピンバナナのその後 多国籍企業の操業現場と多国籍企業の規制』であった。
『フィリピンバナナのその後』の主要な内容を次に短く記す。
「農薬使用状況」から始まり、農薬使用の現状が分析されている。
農薬を使うことを強制される労働者の実態は、「労働条件」でより詳細に分析されている。
日本の厚生省(1981年当時)がフィリピンバナナ問題について現地調査を行ったことがある。中村ら消費者たちが、日本人への農薬被害を訴え続けたことで、日本の官僚組織が動いたのだ。その調査結果は、1981年3月20日の衆議院環境委員会での草川昭三議員の質問に対する政府答弁の中で明らかとなった。
「ドール、デルモンテ、チキータ、住友を含む五ヶ所で、テクミ、モモキャプは使っていない」
当時の寺松厚生省食品衛生課長による国会でのこの答弁が残されている(p.45)。
国会や新聞報道などでフィリピンバナナの農薬使用の実態が明らかになり、毒性の高い農薬の使用に自制がかかるようになった。しかし、日本で使用できない未登録の農薬は、フィリピンバナナ農園で今も使い続けられている。
フィリピンのバナナ農園での農薬被害の実態を多くの写真で伝えている。フィリピンの現地研究者たちの協力を得て入手した写真である。農薬保管状況の実態が見て取れる写真、危険な農薬を使用する農場労働者たちの姿、農薬被害にあった農民たちの身体各部にあらわれた症状などが写っている。185ページに掲載されている「写真21 農薬被害(生殖器の異常)」は、読者の記憶に特に残るだろう。男性労働者の生殖器が、頭部ほどの大きさに腫れて映し出されている。
改訂版(2006)では加筆された新しい章がある。補章「バナナ労働者と日本を結ぶもうひとつの商品 青物缶詰」(p.315-339)である。バナナを生産しているフィリピン労働者とその家族に、日本から送られている商品が青物缶詰である。青物缶詰とは、鰯、鯖などの缶詰のことである。フィリピンのバナナプランテーションからバナナが日本に輸出され、日本からはそのバナナプランテーションへ鯖と鰯の缶詰が輸出されているという。バナナ労働者の好みに合わせて日本から輸出される鯖と鰯の缶詰は、調理方法が変えられてきた。味付け、水分の量などがフィリピンの消費者の好みに合わせて生産されてきたという。大勢の家族で分けて食べやすいように水分やマヨネーズの量を増やす工夫がなされてきた。
中村の論文「バナナ労働者と日本を結ぶもうひとつの商品 青物缶詰」は、日本の私たちとフィリピンバナナの生産者の家族を同じ生活者・消費者として感じさせてくれる。