鶴見良行が本格的に「アジア学」に取りくみはじめたのは、1970年代に入ってからだ。執筆依頼があれば、新聞や雑誌にアジア評論やアジア時評を書いた。個々のテーマについては、『鶴見良行著作集12』所収の、丸井清泰編「鶴見良行 著作目録」(p.435-482)に詳しい。
1970年代の主要論文を編纂してまとめられたのが、『アジア人と日本人』(晶文社、1980)である。その「あとがき」の最後に、「本書は、晶文社の津野海太郎氏の編集眼によって世に出た。厚く感謝する」とある。
『アジア人と日本人』は、晶文社の編集者、津野海太郎がいなければ生まれていなかった、と私も思う。良行が1970年代に書いてきた評論やエッセイを津野が“再発見”して単著としたのである。
その『アジア人と日本人』のなかに、2年後に刊行される『バナナと日本人』(岩波新書、1982)へと発展する論考が収録されている。論文「バナナ・食うべきか食わざるべきか」(p.138-148)である。「第2章 旅のしかた」の最後に置かれた論文である。初稿の掲載雑誌が写真雑誌「アサヒグラフ」(1980年5月1日号)なので、やわらかな文章で始まっている。
「ものみな騰がる当節、値上がりしない商品もいくつかある。バナナはその一つ。貧乏書生の身、バナナと紅茶で一食を済ますこともある」
続いて、バナナがフィリピンでどのように栽培され、そしてどのように日本に持ち込まれ、消費者に届いているのか、の説明が続く。バナナ栽培とバナナ消費の実態が調査研究に基づいて書かれている。焦点が当てられているのは、バナナの栽培にかかわる農場労働者と彼らの家族の在り様である。バナナを媒介として、彼らフィリピン人と我々日本人は、どのような関係にあるか、を問うている。
「ダバオ港のササ埠頭で港湾労働者が激高しているのを目撃した。白紙にサインしないと賃金を払わない、と担当者が要求し、けんかになったのだそうだ」(『アジア人と日本人』p.145)
白紙の紙に賃金受領のサインを強制させられていたフィリピン人労働者たち。この問題は、現在も完全には解決されていない。良行がフィリピンで現地経験を重ねていた1980年初頭、フィリピンの治安はきわめて悪かった。「フィリピン共産党の新人民軍、モロ民族解放戦線、政府の正規軍、治安警察軍以外にも、各種の夜盗集団、少数部族の武装勢力がうごめいている」という最悪の社会状況だった。(『アジア人と日本人』p.145)
当時の良行は、フィリピン民衆の独裁政権との戦いに共感を示しつつ、特定の団体に深入りしていない。慎重に、フィリピン民衆とつきあうことを心がけた。バナナの栽培や搬出作業にかかわる労働者とその家族については、彼らの生活実態を知り、実態を外部に伝えていくことを自らの役割とした。その成果が「バナナ・食うべきか食わざるべきか」である。生産者のフィリピン人たちが置かれている状況を消費者である日本の市民に伝えることをめざした。
英語でも論文を書いた。バナナ生産にかかわるフィリピン人労働者たちの実態が国際的にも知られることになった。労働条件は、少しだけ改善された。「伝える」という作業の効果は、少しだけあった。しかし、21世紀の現在も根本的な改善は達成されていない。
『日本人とアジア人』刊行直後から、出版社に届く読者からの感想ハガキの多くが、「バナナ・食うべきか食わざるべきか」に言及していた。その関心の高さに注目して、良行の「バナナの本」を最初に構想したのが津野海太郎であった。
津野には、『物語・日本人の占領』(朝日選書、1985)という著作がある。他にも『門の向こうの劇場 同時代演劇論』(白水社、1972)、『ペストと劇場』(晶文社、1980)、『小さなメディアの必要』(晶文社、1981)、『読書と日本人』(岩波新書、2016年)など、著作は約20冊を数える。編集者としてだけでなく、演劇人や本の書き手としても存在感のある文化人である。「信頼できる編集者」と良行は言っていた。
津野海太郎『物語・日本人の占領』(1985)は、第二次世界大戦時に日本軍の統治下におかれたマニラを舞台にした物語である。日本人とフィリピン人双方の物語が綴られている。マニラにおいて日本人の紡ぎだす物語とフィリピン人が創作する物語はすれ違い、対立していた。そこでの「物語」に焦点をあてて、『物語・日本人の占領』は書かれている。歴史の現場で紡ぎだされる「物語」そのものに焦点をあてた作品である。そのような本はこれまでほとんどなかった。
太平洋戦争時、尾崎士郎、今日出海、石坂洋次郎など戦後も活躍する文士たちがフィリピンへ報道班員として徴用されていた。彼らはマニラで日本軍のための文化工作に従事した。現地でこれら日本人作家たちが紡ぎだす物語は、フィリピン民衆に伝わるはずだった。日本人作家たちはそう信じていた。彼らの綴る物語によって「日本精神」がフィリピンに根づくはずだった。しかし、日本側の一方的な思い込みは空ぶりし、失敗に終わった。その失敗を「桃太郎の失敗」と津野は書いている。
「日本人がアジア諸国民に強要した『自分の物語』のなかで、日本人は『偉大なおやじ』としてよりも、どちらかといえば、やさしく腕自慢の兄貴としてふるまいたがっていたようだ。その文化的シンボルが、ほかならぬ桃太郎であった」(『物語・日本人の占領』p.205)
日本人が「桃太郎」になってフィリピン人たちを従わせて新しい国づくりをする。それが、当時の日本軍で働いた文学者たちのイメージであった。しかし、それは「桃太郎の失敗」として歴史に残る稚拙な文化工作に終わった。
いっぽう、日本占領下のフィリピン人は、どのように自己認識し、どのようなフィリピン人意識をもって生きようとしていたか? フィリピン人自身の物語は、どのように語られ、戦後に継承されたか? この領域については1970年代まで、ほとんど書かれてこなかった。
占領下のフィリピン人ゲリラについての記述のなかにフィリピンの歴史哲学者レナト・コンスタンティーノの著作からの引用箇所が複数個所ある。
「マーキング・ゲリラの活動についてふれたさい、マーキングことマルコス・アグネスティンの関心はフィリピン民衆の生命や生活を守ることよりも、ただひたすらマッカーサーと極東米軍の公認ゲリラとなることのほうにあったと、かなり手きびしい評価をくだしている」(『物語・日本人の占領』p.24)
この引用は、レナト・コンスタンティーノ『フィリピン民衆の歴史』第三巻(鶴見良行ほか訳、井村文化事業社、1979)からの引用である。占領下のフィリピン人の生き方について津野が語るとき、何度も引用・参照するのが、フィリピンの歴史哲学者コンスタンティーノの著作である。そのコンスタンティーノを日本に紹介してきたのが良行であり、コンスタンティーノのフィリピン民族論をベースにして津野と良行の仕事は密接に繋がっていたといえる。
ところで、物語(ナラティブ)がアメリカの社会科学で課題となるのは、1990年代からである。一例をあげると、医療現場での看護師と、患者とその家族のナラティブは、すれ違って進行する。そのような問題が社会科学の課題として意識されはじめたのが90年代のアメリカであった。その領域への関心は、日本の学術界においては、21世紀の現在でもあまりない。関連書籍として、野口祐二『物語としてのケア ナラティブ・アプローチの世界へ』(医学書院、2002)、Rita Charon(2008)著、斉藤清二ほか訳『ナラティブ・メディスン 物語能力が医療を変える』(医学書院、2011)などがある。そこでは「伝わること」「(問題を抱えた)当事者たちを励ます」ことに重点が置かれる学問が求められている。
アメリカのナラティブ社会科学と、津野が構想した「物語(ナラティブ)としてのバナナ」に直接の関連は、ない。しかし、津野や良行がイメージした「ナラティブとしてのアジア学」は、アメリカの社会科学より先行していた。この事実には、注目しておきたい。日本の新聞に「ナラティブ(物語)」という用語が登場するのは、2020年以後のことである。