鶴見良行私論第2部「炉辺追憶」庄野護

    ◎第1回『東南アジアを知る 私の方法』岩波新書・1995年 (その1)


『東南アジアを知る −私の方法−』は、鶴見良行(1926−94)が亡くなった翌年の1995年11月に刊行されている。『ココス島奇譚』(みすず書房、1995年12月)と共に遺稿とされる。
『東南アジアを知る』は、「ベトナム戦争から」で書きはじめられている。
 ベトナム戦争(1954−75)が「鶴見アジア学」の出発点となった。それまでの良行は、知米派知識人と社会的評価を受けていた。旧制水戸高校で同窓だった評論家・森秀人によれば、良行は「常識左翼」と見なされていた。
 ベトナム反戦運動を経て、良行は新しいアジア学を創設することになる。その創造的変化を生んだのが、ベトナム戦争との出会いであった。

 1965年4月にアメリカ軍が北ベトナム(当時)のハノイ周辺に本格的な無差別空爆をはじめた。そのニュースは、当時中学3年生であった筆者の私にも衝撃であった。ベトナム戦争がなければ、その後の私の人生も違っていただろう。十数年、海外に居住しながらアメリカ領土に一歩も踏み入れなかったのは、中学生だった私とベトナム戦争との出会いの結果である。

 1965年、良行は39歳。国際文化会館の企画部長の席にあり、将来の理事長と見なされていた。理事長は松本重治であり、松本は良行の事務能力を高く評価していた。

 鶴見良行と私が出会ったのは、1974年と遅い。私が23歳、良行が48歳の時である。しかし、それ以前の69年から共通の知人は複数いた。69年は、私が徳島の高校を卒業して上京した年である。アジア学を学ぶためであった。中国語講座や、朝鮮語講座を探し、信頼できる講師を見つけて学びはじめていた。そんな私にとって、良行は69年以来、アジア学のライバルだった。初めて出会った74年に互いのアジア学の出発点が65年の米軍による北ベトナム爆撃であったことを私たちは確認した。

 しかし通常、私のような素人学習者を良行のような知名度のある研究者が相手にすることはない。しかし、良行は違った。笑って受け入れ、話し相手になってくれた。私たちの交流は、良行が亡くなる1994年まで続いた。亡くなった後も、京都の鶴見宅に夫人の千代子さんを私は何度か訪ねている。千代子さんは、著作集の進行状況を詳しく話してくれた。
 とはいえ、良行と私の個人的付き合いは、濃密ではない。会ったのは、3年に1度くらいである。良行から私への手紙やハガキは計10通に満たない。インターネット以前の付き合いで、交わした電子メールは、ない。FAXは、何枚かが残っている。

 1970年代初頭、良行はテレビの討論番組での発言が問題となり、国会質疑で取り上げられている。政府の援助を受けた団体職員として、あるまじき言動ではないか、との批判を受けたのである。
 国会質疑での批判によって、国際文化会館理事長・松本重治は、何らかのケジメを求められた。結果、良行は73年3月に理事の職を退き、非常勤の嘱託職員となった。しかし、この退職がなければ、「アジア学者・鶴見良行」は誕生していなかっただろう。

 ベトナム反戦活動への積極性が良行に芽生えたのは、1965年6月のサイゴン(現在のホーチミン市)での体験である。この年、良行は米ハーバード大学から2カ月にわたる国際セミナーへの招待を受けた。送られてきた航空券を良行は航空会社に持ち込み、直接、アメリカには向かわず、ベトナムやタイ、インドに短期滞在しながら、イタリア、イギリス経由でアメリカに向かった。

 良行は、アメリカに生まれ育ち、小学生時代には満洲(中国東北部)で過ごしている。この65年のアメリカ行きが戦後初の海外旅行となった。羽田空港には千代子さんらが見送っている。戦前アメリカのハーバード大学で学んだ従兄の鶴見俊輔は、「アメリカには行かない」と戦後の人生を生きた。同様に鶴見良行も二度とアメリカには行かない選択をしている。

「鶴見アジア学」の出発点となった1965年6月のサイゴンでの体験を振り返っておきたい。
「私はこのとき、サイゴンで成立したばかりのグエン・バン・チュー(ティエウ)=グエン・カオ・キ政権による三人目のベトコン公開処刑を眼前にしました。早朝のことですが、人が殺されるのを見たのは初めてでした。」(『東南アジアを知る』p.5-6)
 場所は、ショロン市場の傍。サイゴン市と中華街の接点にある南ベトナム(当時)最大の物流経済の中心である。その賑やかさは、現在も失われていない。私は74年に現場を訪れている。そこに良行は65年6月、知人の新聞記者から記者章を借りてでかけた。ベトコン(解放軍兵士)の公開処刑を見学に行ったのである。記者章を借り受けた新聞記者は、当時サイゴン駐在共同通信記者の林雄一郎あった。しかし、林雄一郎と良行のやりとりが当事者たちによって明らかにされたのは、25年以上経た90年代になってからだ。こうした情報の公開に慎重であるべき時代を良行は生きていたのである(良行が見た解放軍兵士の処刑の様子と同様の処刑写真がインターネット上に上げられている。1968年2月1日にあった南ベトナム軍兵士によるベトコン兵士の公開処刑の写真である。「1968年2月1日 サイゴン」で検索可)。

 林雄一郎(1934-)には、デービッド・ハルバスタム『ベトナムの泥沼から』(みすず書房、1987/新装版、2019)という共訳著がある。ベトナム戦争の真実をいち早く明らかにしたルポルタージュである。ウクライナ戦争やパレスチナ・イスラエル戦争が起きている現代、戦争を知るための参考文献として有用である。どのように戦争は起き、どのように継続されるのか、戦争の真相が現場取材記者の眼を通して描かれている。

 林雄一郎が南ベトナム・サイゴン(現在のホーチミン市)の案内者として良行を支援した。その結果、良行の一週間のサイゴン滞在は、意味のあるものとなる。直後のアメリカでの滞在中、良行はサイゴンでの体験を振り返っている。アメリカに向かう途中のイタリアのホテルで一気に書き上げられたのが、「サイゴンレポート」である。「ベトナムからの手紙」として『鶴見良行著作集1』(みすず書房、1999)に収録されている。その文章に編集者Hさんとあるのが、新聞記者・林雄一郎である。この事実は、後述する1990年の大阪外語大学フィリピン語学科での鶴見良行講演で初めて明らかにされた事実であった(「ベトナムからの手紙 ある編集者へ」『思想の科学』1965年9月号所収/『著作集1「出発」』所収)。

 良行が招かれた1965年のハーバード大学での国際セミナー開催は、7月から9月にかけて開かれた。セミナー主催側には、その後の国際政治を動かしたヘンリー・キッシンジャー教授(1923−2023)がいた。キッシンジャーは、69年にニクソン大統領(当時)の安全保障担当補佐官となり、72年2月のニクソン訪中を実現させた。日本と中国が国交を回復した(72年7月)のも、キッシンジャーの活動の結果であった。その頃、良行は大きな国際政治よりもアジアの民衆の小さな生活に関心を寄せていくようになる。65年のサイゴン体験と米ハーバード大学セミナー参加は、ゼロからアジアを学ぶ方法へと良行を導いた。ところで、私がこの原稿を書いている日にキッシンジャーは亡くなった(2023年11月29日、米コネチカット州の自宅で逝去)。


思想の科学 1995年9月
『東南アジアを知る』
岩波新書
1995年11月
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