鶴見良行私論第2部「炉辺追憶」庄野護

    ◎第5回『バナナと日本人』岩波新書・1982年 (その2)


 論文「バナナ・食うべきか食わざるべきか」(『アジア人と日本人』所収、1980)から、岩波新書『バナナと日本人』(1982)に至る物語については、『バナナと日本人』の担当編集者であった坂巻克己が最初の契機を書いている。
「小田実さんからかかってきた一本の電話、そこからすべては始まった。一九八一年の春頃だったと思う。相談したいことがある、といわれ、さっそく都内の喫茶店でお話をうかがってみると──
 鶴見良行さんがいま、フィリピン・バナナの生産や貿易の問題に夢中になっている。これは、絶対におもしろいぞ。新書にしてはどうだ?というわけである」(坂巻克己「未来に生きる仕事『バナナと日本人』をめぐって」『鶴見良行著作集6』「月報」所収、1998)

 1981年春に津野海太郎から良行を経て、作家・小田実が坂巻に電話したようだ。しかし、この件は直ぐに動き始めたわけではない。小田の電話から『バナナと日本人』の企画が動き出すまで数カ月を要している。
 1981年7月に坂巻は、都内で開催された良行の講演会「フィリピン・バナナと私たち」に出かけた。新聞の催し欄を見て、行くことにしたのだった。そこから企画が動き出す。その日、良行の講演から受けた衝撃を坂巻は次のように書いている。
「そこで(講演会場:引用者註)の話に、私は大きな衝撃を受けたのだった。(中略)日本に輸入されるバナナの九割を占めるフィリピン産の産地、ミンダナオ島ダバオで、現地の農園労働者がどのような超低賃金と不安定雇用の下にあるか。労働者の身体を侵す農薬がどれほど大量に空中散布されているか。多国籍アグリビジネスがどのような経営戦略でもって、このバナナ生産を支配してきたのか……。綿密な現地調査にもとづいて知られざる事実が次々と語られるとともに、『私はこれを新書版の本にして、せめて一〇万人の日本人に読んでもらいたいと考えています』ともいわれた」(坂巻克己「未来に生きる仕事『バナナと日本人』をめぐって」『鶴見良行著作集6』「月報」所収、1998)
 その日、坂巻と良行との、初対面でのやり取りである。「10万部」という新書の販売目標がその会話のなかにある。結局1982年の刊行後、98年までの16年間に27万部の販売部数を達成し、その後も販売部数を伸ばした。
 良行の岩波書店への貢献は、『バナナと日本人』の販売部数による貢献だけにとどまらない。『バナナと日本人』のあと、同じ岩波新書のレーベルで、村井吉敬『エビと日本人』(1988)、村井吉敬『エビと日本人Ⅱ 暮らしの中のグローバル化』(2007)、宮内泰介・藤林泰『かつお節と日本人』(2013)が続いた。執筆者たちは、良行と共にアジアを学んできた人たちである。『エビと日本人』に関しては、良行による執筆もありえた。しかし、良行は早々に村井を『エビと日本人』の執筆者としていた。

 村井は1972年、「正式に」鶴見と会っている。「正式に」と村井が、『鶴見良行著作集6 バナナ』の解説の中で書いている。それまでは会合などで顔見知りであったという意味である。1972年は、良行がアジア勉強会を実質始動した年でもあった。
「鶴見はこのとき四六歳だった。私はインドネシアに関心を持って研究者めいたことをしていた。(中略)私(村井:引用者註)は、インドネシアに二年ほど留学した。そして鶴見良行とは七七年に再会した。鶴見は、五一歳になっていた」(『鶴見良行著作集6バナナ』巻末解説「鶴見良行バナナ研究とその周辺」p.296-297)

 その後の鶴見グループのアジア研究プロジェクトは、村井と良行が中心になった。拠点は、アジア太平洋資料センター(PARC、東京神田)である。フィリピン班のリーダーを良行が務め、村井がインドネシア班のリーダーとなった。
『バナナと日本人』と同じ1982年に、村井吉敬『小さな民からの発想 顔のない豊かさを問う』(時事通信社)が出版された。2023年に出版社めこんから「新装版」が出版されている。いまやアジア学の古典となりつつある。新装版には、宮内泰介(1961−、北海道大学教授・環境社会学)の解説がつく。

 村井吉敬『エビと日本人』(1988)には、宮内泰介の東大・大学院時代の修士論文「エビの社会科学 再編過程としての『近代化』との関連で」(1986)が執筆者の了解を得て使われている(参照:宮内泰介『エビと食卓の現代史』同文館出版、1989)。宮内は当時、院生としてエビ研究会に参加していた。2013年に岩波新書『かつお節と日本人』を藤林泰と共同執筆したのが宮内である。『鶴見良行著作集4 収奪の構図』(1999)には、宮内による解説「地図の描きかた、アジテーションのしかた」がある。良行と宮内の交流については、そこに詳しい。

『かつお節と日本人』(2013)を宮内と共に書き上げた藤林泰(1948−、埼玉大学教授)は、1980年代にJICA青年海外協力隊の日本語教師としてフィリピンで活動していた。そのとき、フィリピンで調査旅行中の良行と出会っている。『海道の社会史』(朝日選書、1987)の「あとがき」に、「フィリピンで日本語を教えていた藤林泰さんと朝日新聞社の赤嶺了勇さん(『海道の社会史』担当編集者:引用者註)には、お世話になった。感謝します」とある。1987年の藤林は、東京で編集者として働いていた。1990年代には、インドネシアの大学で日本語教師を経験している。
 藤林と良行の交流はのちに藤林の勤務校だった埼玉大学に「鶴見良行文庫」を生んだ。良行が遺した蔵書(約7000冊)、写真(約4万枚)、カード(約15000枚)、ノート(約20冊)、著書(約30冊)が所蔵されている。その内容は、デジタル公開され、誰でも無料でアクセスできる。「鶴見良行文庫デジタルアーカイブス」(立教大学共生社会研究センター)である。蔵書名、写真も閲覧可能である。『鶴見良行著作集全12巻』の索引も見られる。「文庫」創設の経過から伺えるのは、『バナナと日本人』が基点となっていることだ。

『バナナと日本人』の最終段階での編集会議は、数人が参加したという。原稿を全員で読み返し、改善を指摘された箇所は、良行が自宅に持ち帰って徹夜で書き直した。その原稿を再び持ち寄って再検討し、原稿を仕上げていった。その経過は、『鶴見良行著作集6 バナナ』の「月報」(1998)に担当編集者・坂巻克己が次のように寄稿している。
「ひと通り書き上げられた段階で、二度にわたり、数人の若いお仲間を含めて岩波の地下会議室に集っていただき、夕刻から深夜二時近くまで、その草稿を一枚ずつめくりながら議論したのも、懐かしく思い出される(もちろん、それは鶴見さんの希望で行われたのだが、それ以前も以後も、私はそのようなことを経験していない)」(坂巻克己「未来に生きる仕事 『バナナと日本人』をめぐって」『 鶴見良行著作集6』「月報」所収、1998)
 編集会議に参加していたひとりに、津田守(大阪大学名誉教授)がいた。当時(1982)、津田はフィリピンでの研究滞在10年を経て帰国したばかり。翌年の83年4月に津田は、四国学院大社会学部専任講師に就任している。津田によれば、連夜の編集会議で文章の構成や内容の変更が決まると、自宅に帰った良行はその夜のうちに400字50枚以上の原稿を書いて、次の編集会議に持参したという。 熱のこもった編集会議とエネルギッシュな執筆作業が『バナナと日本人』を完成度の高い作品に導いた。

『バナナと日本人』刊行の数ヵ月前に上梓したのが『アジアはなぜ貧しいか』(朝日選書、1982)である。『アジアはなぜ貧しいか』は、刊行前年の1981年秋に東京・朝日カルチャーセンターで行った9回の講演「比較南北史学の試み」が基になっている。テープ起こしされた原稿は、朝日新聞社出版部編集室によって用意されていた。そのまま書籍となる予定だった。 「しかし、私は構想だけを生かして、講演のおこしをまったく捨てて新たに執筆しました。そのため編集者の笠坊乙彦氏にご迷惑をかけたことをお詫びします」と「あとがき」にある。このときも編集者との真剣勝負が、あった。
『バナナと日本人』の「あとがき」の最後にあるのは、次の文章である。
「本書執筆の直前に、『アジアはなぜ貧しいか』(朝日選書)を書いた。それが総論、これ(『バナナと日本人』:引用者註)が具体的な各論のつもりだ。併読していただければ幸いである」


思想の科学 1995年9月
『バナナと日本人』
─フィリピン農園と
食卓のあいだ─

岩波新書
1982年
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