小学校教師・鳥山敏子に「からだとこえ」「からだとことば」の問題意識を育てたのは、演出家・竹内敏晴(1925-2009 )である。鳥山は竹内と出会い、1974年から竹内のワークショップに参加した。翌75年に竹内の『ことばが劈(ひら)かれるとき』(思想の科学社、1975/ちくま文庫、1988)が出版されている。良行がアジア学者として出発することになった最初の一冊、編著『アジアからの直言』(1974)の刊行とほぼ同時期のことだ。
今では鳥山敏子(1941-2013)は、宮沢賢治の研究者として知られる。良行を小学4年生の教室に招いた1983年から11年後の94年に教員を辞し、長野県大町市に「賢治の学校」を開き、そこを拠点とした。「賢治の学校」は、親も子も自身の問題に向き合う場であった。そのようにワークショップは運営されていた。全国各地でも同様のワークショップを実践した。その後、97年に東京・立川市へ拠点を移し、「東京賢治の学校」とした。2003年には校名を変更して「東京賢治シュタイナー学校」とし現在に至る。活動内容は当学校のホームページに詳しい。
竹内の弟子であった鳥山は、演劇に通じ、演劇理論に詳しかった。良行には、もうひとりの演劇人の友人がいた。『アジア人と日本人』(晶文社、1980)の編集者・津野海太郎である。新書『バナナと日本人』(1982)刊行のきっかけをつくった人物である。津野も演劇人であった。良行と深く交流した鳥山と津野が、共に演劇人であったこと。それは、おそらく偶然ではない。良行が共鳴し会える相手が、演劇に通じる人物であったということだ。良行のよく通る声は演劇人たちの関心を引き寄せた。
「この人は、子どものまえに立てる人だ」(鳥山敏子「授業・バナナと日本人」の書き出し、鶴見良行『アジアの歩きかた』所収、p.111、ちくま文庫、1998)と書いた鳥山は、良行の演劇者としての素質を見抜いていたのだろう。「鶴見良行と演劇」というテーマは、鶴見良行私論にとって残された課題としてある。
竹内と良行は、雑誌『思想の科学』の活動を通じて、交流があった。良行主催のアジア勉強会が実質的な活動を開始したのが1972年。同じ年に竹内は、竹内演劇教室を開設している。二人は同時期に東京で新たな文化運動を開始していた。
竹内の演劇ワークショップでは、人間の「からだとことば」を解放する方法を追求した。耳の聞こえる健康な子どもたちのなかに、声が出ない子どもたちが増えてきた。竹内のワークショップでは、声が出せるように体を解放することを目指した。いっぽう、良行のアジア学は、「歩く・見る・聞く」を方法とした。体を使い、体を移動させ、体から声をだして住民と対話して学ぶアジア学を目指した。竹内も良行も身体を通して学ぶという方法が共通していた。
鳥山は竹内のレッスンに深く入り込んでいき、竹内への過剰な傾倒を自省するような文章を書いている。
「竹内敏晴さんに出会って十一年経過した。
竹内さんのレッスンに深く入り込んでいった最初の二、三年間は、わたしにとって実質三十年の時であり、浦島太郎と同じ時空の体験であった」(鳥山敏子『からだが変わる 授業が変わる』p.275、晩成書房、1985)
鳥山は竹内に深入りしすぎたことを自覚し、自立への旅を試みる。それが、アジアへの旅であった。
「一九七九年、七、八月、インドへ一人旅立った。すべてを捨てての旅だった。
それは、竹内さんからの自立の旅の第一歩であった」(前掲書、p.276)
アジアへの旅に出かけることになった鳥山は、活字の世界で「鶴見良行」に出会っていたと思われる。というのは、竹内がたびたび寄稿していた雑誌『思想の科学』に、良行のアジア評論が掲載されていたからだ。「竹内敏晴からの自立」のための1979年のアジアへの旅と、83年の良行を教室に招いての講演は、関連していると私は思う。
鳥山の著作『からだが変わる 授業が変わる』(1985)に竹内が巻末解説(「鳥山さんの仕事 あるいたひと」)を書いている。
「鶴見良行さんはこう書いている。
小学校四年の子どもたちに、バナナの話をした。東京・中野区立桃園第二小学校の鳥山敏子先生に頼まれたのである。(中略)この授業の面白かったのは、司会者による紹介がまったく無かったことだ。好奇心にあふれた子どもたちの前に、私は何とはなしに立っていたのである。子どもたちの後ろは大人でいっぱいだった。父兄や同僚の先生が多かったのだろう。出版社の編集者も東京都消費者センターの人もいた」(p.300)
竹内がこの文章を書いたのは、鳥山のこの著作(1985年4月)の出版前である。当時、良行の『アジアの歩きかた』(1986年9月、筑摩書房)は、まだ刊行されていない。竹内は、良行の論文初出誌、『図書』(第417号、1984年5月号)から引用した、と推定できる。そこからも竹内と良行の近しい関係が読みとれる。
1925年生の竹内と1926年生の良行は共に長いあいだ、雑誌『思想の科学』で活動してきた。良行がアジア学への道を歩みはじめた理由のひとつに、「思想の科学」の会員だった中国文学者・竹内好(魯迅研究者、1910-1977 )の影響があった。『アジア人と日本人』(1980)の巻頭には、論文「日本人ばなれの生き方について」がある。そのなかに、中江丑吉(中国学者、1889-1942)と鈴江言一(中国史家、1894-1945)への詳しい言及がある。この二人のアジア学の先達は、良行が竹内好の中国学から学んだ人たちである。そのことから鶴見アジア学の出発点は、竹内好の中国学にあったともいえる。そして竹内好の中国学は、竹内敏晴の出発点でもあった。
竹内は敗戦直後の1946年、旧制一高から東京帝国大学文学部に入学している。良行の東京大学法学部への入学は、1948年である。竹内には敗戦の絶望感が大きかった。立ち直りのきっかけを与えたのが、竹内好の東京大学での講演「中国における近代意識の形成──魯迅の歩いた道」であった。そのとき竹内は自らの道を見出した、と書いている(竹内敏晴『ことばが劈かれるとき』p.62、ちくま文庫、1988)。
「私は道傍で遊んでいる子どもを見た。ふいに涙が流れた。おれはもうダメだ。新しく生きられない。しかし、もう二度とこの子どもたちに、おれと同じ教育はさせない。おれの歪みをてこにして、おれと同じように人間性を圧殺する教育を子どもたちに向けようとするものを嗅ぎわけ、そして闘い殺してやる。私ははしり廻る子どもの肢を見、歓声を聞き、息がつまりながら立ちつくしていた」(前掲書、p.63)
敗戦の絶望から前向きに生きる決意をした竹内だが、その決意の気持を著作『ことばが劈かれるとき』に記すまで、30年近い歳月を要している。「ことばを劈く」という表現は、竹内個人の体験に深く根ざしていた。竹内は難聴者として生まれ育っている。
「中学一年の秋から四年の冬まで、私はほとんど完全なツンボだった。教室では最前列に座らされ、手を伸ばせば届くほどの距離に立っている先生のこえが聞きわけられなかった」(前掲書、p.38)
難聴の竹内が話しことばを獲得するには、長い期間を要した。
「ツンボはオシである。(中略)
ツンボは話しことばを拒否されることによって、必然的にオシにならざるをえない。つまり私は十二歳から十六歳までの五年間、ほぼ完全なオシであった。」(前掲書、p.45)
重い難聴であったが、薬物治療により少年期から青年期にかけて片耳が少しだけ聞こえるようになった。それでも健常者と比べれば、聞こえないに等しかった。
東大文学部卒業後は演出家を志し、演出家・岡倉士朗(1909-59)の劇団「ぶどうの会」演出部に所属した。演劇運動のなかで竹内は、自らの「からだとことば」の理論を創りあげていく。やがて、野口体操の創始者・野口三千三(1914-1998)と出会い、合同で演劇教室を開始した。そこに参加したひとりが、小学校教師の鳥山敏子であった。(参考:野口三千三『原初生命体としての人間』三笠書房、1972/野口三千三『野口体操からだに貞く』柏樹社、1977)
竹内敏晴『ことばが劈かれるとき』(思想の科学社、1975)の刊行は、竹内50歳のときである。遅咲きの文筆者であった。56歳で『バナナと日本人』を執筆した良行も同様に遅咲きであった。二人とも50歳を過ぎてから新しい学問領域を構築した。竹内は、演劇と教育を結びつける新しい領域に挑戦してきた。宮城教育大学教授を経て、1989年には愛知県の南山短期大学人間関係学科教授に就任した。いっぽう、良行は50歳を過ぎて、これまでにない新しいアジア学(物語アジア学)を創造した。
1994年に良行が亡くなったのち、竹内は良行の従兄・鶴見俊輔(哲学者、1922-2015)を招いて講演会を名古屋で開いている。私は、その講演会を聞きに行った。そのとき私が感じたのは、この講演会は良行を招いて開きたかった講演会ではなかったか、と思った。
竹内と良行の関係を知れば、鳥山敏子と良行の出会いは、必然だったといえるかもしれない。