鳥山敏子の「バナナの授業」とほぼ同じ頃、兵庫県南部に位置する県立東灘高校の教師、大津和子(1946-)が「バナナの授業」を開始していた。大津の授業は10年間続く。単元10時間の本格的な「バナナの授業」であった。授業記録として、「一本のバナナから 授業展開と生徒の受け止めかた」(『ひとつばし資料』一橋出版、1984)がある。この記録は、のちに『社会科=一本のバナナから』(国土社、1987)となった。
鶴見良行『バナナと日本人』(1982)刊行から36年後の2018年に大津は次のように書いている。 「1982年、高校の社会科で『現代社会』という新しい科目が始まりました。『現代の社会と人間に関する基本的な問題』を中心とした内容で、暗記ではなく思考力を育成するという、いわば戦後社会科の一大転換をもたらす改革でした。(中略)
そんなとき、フィリピン・ミンダナオ島のバナナ農園の貧困問題について論じた鶴見良行さんの著書『バナナと日本人 フィリピン農園と食卓とのあいだ』が出版されたのです。授業に活用できるかもしれないと思い、すぐさまこの本に飛び付きました」(大津和子「バナナからSDGsへ 私の歩んできた道」国際協力機構 JICA,Vioce、2018.4.27)
そこから「バナナの授業」が始まった。教室が兵庫県南部地方にあったことには、特別な意味がある。良行と交流のあった教育者の林竹二(1906-85)と演出家・竹内敏晴たちが、1970年代にこの地域の高校で活動を重ねていたからだ。林らの実践と、大津による「バナナの授業」は、同じ高校ではないが、地域的にも人脈的にも重なりあう。林は、1970年代前半に宮城教育大学学長をしていた。80年代に高校教師であった大津はのちに北海道教育大学の副学長となるわけだが、不思議なめぐり合わせといえる。
ところで、林、竹内らの公立高校での活動テーマは、「貧困と差別」にあった。そこでの差別とは、在日朝鮮人・韓国人への差別と被差別部落民への差別である。貧困や差別にどう立ち向かって生きていくか? その課題を林たちは、高校生たちと共に考えた。そうした実践が積み重ねられていた現場で、1982年から始まったのが大津の「バナナの授業」であった。
大津は、経済的に恵まれない家庭に育っている。「歩いていける大学(神戸大学:引用者註)に進学するしかなかった」という。そして、教師となり最初に赴任した高校で出会ったのは、在日朝鮮人の高校生たちであった。その経験は、のちに回想録に記されている(「国際理解を考える『一本のバナナから』誕生の理由」毎日新聞、2018.10.28、安部義正記者による大津和子へのインタビュー記事)。
良行は、大津の「一本のバナナから」を読んで衝撃を受けている。
「大津さんは一〇時間分の授業をするのに、新書一冊だけでなく、私がアジアについて書いたほとんどすべてを読んでいた。これはなんともたいへんな努力である。読まれた著者の冥利よりも、それだけの準備で教えられる子どもたちの幸せを、私はつくづくと感じた」(鶴見良行『アジアの歩きかた』p.104-105、ちくま文庫、1998、『鶴見良行著作集6バナナ』p.151、みすず書房、1998)
大津は神戸大学で社会学を専攻し、学部卒業後二つの大学院で修士学位をダブルで取得した。その後、兵庫県立高等学校の教師となる。新書『バナナと日本人』と出会い、国際理解教育という分野での活動を開始し、「バナナの授業」に取り組んだ。その経験の総括が『国際理解教育 地球市民を育てる授業と構想』(国土社、1992)である。この業績により北海道教育大学助教授に招かれた。そこから研究者・教育者としての道を歩みはじめている。
北海道教育大学の助教授就任の知らせを聞いて、良行は非常に喜んだ。その頃は、電子メールはまだなく、通信手段は電話と手紙とファックスだった。2年後の1994年、良行は亡くなった。大津から良行への手紙は、良行の死後に鶴見千代子から返送されたと聞く。親しい人からの手紙の返送は、鶴見夫人の最後の仕事でもあった。
北海道教育大学助教授の時代にまとめた著作に『グルーバルな総合開発の教材開発』(明治図書、1997)がある。グローバル教育を教育現場で実践する教師たちに向けて書かれたその記述内容はきめ細かい。授業内容の構成や授業で生徒たちの行うゲームの役割分担の説明が細部に及ぶ。世界の民族の左右の手の使い方や子どものジャンケンの仕方の違いなども写真や図表で解説されている。
授業は、異なる文化をもつ2つの国家を想定してなされる。それぞれの国の文化を習得したのち、互いの国を訪問して異文化を疑似体験するシュミレーション・ゲームである。ここでも演劇の手法が採用されている。生徒たちに異国人を演じさせることで異文化理解のヒントを気付かせようとした。大津が用いた教育方法は、Bafa Bafa(バファバファ)と呼ばれ、アメリカのG.Shirtsによって1977年に開発されている。日本でも企業内研修で採用されていた(『グローバルな総合開発の教材開発』p.59)。
『グローバルな総合学習の教材開発』には「一本のバナナから」(1987)の大津自身の実践報告も紹介されている。
「授業は教室でバナナを食べることからはじまり、バナナはどこからきたのか、バナナはなぜ安いのか、バナナはどのようにしてつくられるのか、バナナの生産者はどのような生活をしているのか、私たちが安いバナナを食べることができるのはどのような仕組みによるものか、農薬はバナナをつくっている人々にどのような影響を与えているのか、バナナの生産者は何を願っているのか、などを追求していく。バナナと消費者と生産者のつながりをたどり、それが両者にどのような影響や結果をもたらしているかを学習するのである」
バナナに続いて紅茶が取り上げられている(第4章「関係発見的アプローチ」)。
紅茶がはじめて日本に上陸したのは、江戸時代末期(1856)。アメリカの使者ハリスが、紅茶を幕府に献上している。そこから、紅茶の日本史がはじまったとされる。日本の紅茶から見えてくる世界を中学や高校の教室でどのように解説し、生徒たちと共にどのように学ぶか? 大津の教材開発はそこに焦点を当てている。
インドネシア、マレーシア、スリランカの紅茶農園の比較。働いている労働者の生活などを詳しく文献調査した。マレーシアやスリランカの紅茶農園では、インドから移民してきたタミル人が現在も働く。イギリスが植民地時代に作り上げた農園制度が現在も存続している。現代の奴隷制といわれる社会制度が21世紀になっても存続する。紅茶農園での初等教育は整備されていることになっている。しかし、現実の教育環境、進学環境を見れば、教育差別は今も残る。多くの紅茶農園が民営のために、公教育の普及が進んでいない。職業選択や居住地の選択の自由は、茶園労働者たちにはない。社会的チャンスは極めて少ない。そのような制度の下に置かれた農園の労働者が生産する紅茶を私たちは日本で味わっている。バナナで見えてきた世界の仕組みは、紅茶でも同様に解決すべき課題としてある。
鶴見アジア学の知見や視座をよりどころに、教育学の領域からさまざまな提言をしてきたのが、大津和子であった。大津は教授就任後、付属高校校長を経て、副学長に就任した。国際理解教育学会の会長(2020-22)をも務めた。現在は、北海道教育大学名誉教授として研究活動を続けている。
『バナナと日本人』は、実に多くの人材を輩出させたが、大津和子もその一人であった。