鶴見良行私論第2部「炉辺追憶」庄野護

    ◎第6回『バナナと日本人』岩波新書・1982年 (その3)

     ── 鳥山敏子と、授業「バナナの話」──


『バナナと日本人』刊行の翌年1983年春のこと。著者の鶴見良行は都内の小学校に招かれた。東京・中野区立桃園第二小学校4年生の教室で、「バナナの話」をするためである。論文「バナナ・食うべきか食わざるべきか」(『アジア人と日本人』所収、晶文社、1980)への反響が大きく、当時の良行はこうした「バナナ講演」に月一回程度、出かけていた。

 1980年代はじめ、FAXもインターネットもまだなかった。当時、文化人の住所や電話番号は、刊行物で公開されていた。自宅の電話番号や住所をかんたんに知ることができ、だれもが直接電話をかけられた。鶴見宅で最初に受話器をとるのは、千代子夫人の役割だった。午前中の電話は、知人たちには禁止されていた。良行が夜通し研究活動し、午前11時ごろ起床していたからだ。

 小学校からの講演依頼は、1983年春が初めてだった。依頼してきたのは、小学4年生の担任をしていた鳥山敏子(1941-2013)である。その数週間前、鳥山は良行に対面で講演依頼し、良行は即座に引き受けている。その講演依頼を断れない理由が、良行にはあった。
「私は仲間たちに『女、子どもにアジアのことを書いているのだ』と冗談めかして話していた(以下略)」(「バナナと子どもたち」『アジアの歩き方』p.103-104、ちくま文庫、1998/『鶴見良行著作集6 バナナ』p.150、みすず書房、1998)
 そのような発言を繰り返していた良行はその言葉への反発や反応を気にかけていた。
「だから鳥山さんの誘いは断れなかったのだ」と書いている(前掲書)。

 こうして小学校に出かけた良行だが、クラスの小学生たちの背後には多数の父兄や学校関係者たちも立って参加していた。担任教師の鳥山は、その教室に良行を紹介なしで立たせた。講師の紹介なしで良行を子どもたちの前に立たせることは、鳥山の意図的な演出であった。紹介なしでも良行は子どもたちの前に立てる、という考えが鳥山にはあった。この鳥山の確信は、「からだとこえ」に関する人間の見立てからきている。
 鳥山敏子の教室は、子どもたちが大声で歌い、ときには大声で話せる場所であった。子どもたちには、思ったことを相手に対面で話すよう求めた。当然、やかましい教室となる。そんな鳥山の学級運営に対して、同じ小学校の多数派教師たちは異を唱えていた。しかし、一部の管理職と一部の同僚たちの支持を受け、なんとか鳥山流の教育活動を継続していた。クラスの子どもたちと父兄たちには、支持されていた。そんな教室での「バナナの話」であった。

 紹介なしで教壇に立った良行だが、その体験は得がたいものとなる。その体験について良行は「バナナと子どもたち」と題した一文をしるしている。
「あの本(『バナナと日本人』:引用者註)を書いてから何十回も話をしたが、私にとっては、もっとも緊張し興奮し感動した時間だった。こんなに自由な空間と人間関係を創りだしている素晴らしい人びとがいるのである」(「バナナと子どもたち」『アジアの歩きかた』p.109、ちくま文庫、1998)

「この人は、子どものまえに立てる人だ」と鳥山は良行の印象について書いている(鳥山敏子「授業の前に──鶴見良行さんを知る」、鶴見良行『アジアの歩き方』p.111、ちくま文庫、1998 )。
 鳥山は、演劇に通じた教育者でもあった。紹介なしで子どもたちの前に良行を立たせたのは、鳥山の意図的な演出だったと先に書いたのは、このことである。

 鳥山に論考「『立つ』ことの発見」がある(鳥山敏子『からだが変わる 授業が変わる』p.15-17、晩成書房、1985)。子どもたちが教室であいさつを交わすとき、互いにどのように向き合うか? 相手に届けるための声をどのように発するか? そうした問題意識で、人前にどう立つかを論じている。それが、論考「『立つ』ことの発見」である。あいさつを交わすときは、相手にあいさつしやすい場所を見つけて立つ。子どもたちに語りかけるように書かれている。

『バナナと日本人』(1982)の刊行当時から、鳥山はその新書を教材のもとにして教室でバナナについての授業を試みている。この経験を経て、鳥山は良行を教室に招いた。良行の話を聞いた小学生たちの感想が、鳥山によって記録されている。「授業・バナナと日本人 小学生の子どもたちとの二時間」である。鶴見良行『アジアの歩きかた』(ちくま文庫、1998)に収録されている。
「鶴見先生は、十年もかかってしらべた事を二時間で話しちゃうなんて、すごいど力(りょく)家だなあ。
 子どもだって働かされているフィリピン。おつかいを手つだわされるぐらいの日本人の子どもたち……こうしてみると私たち日本人は少したるんでるみたいです。
 この話をきいて日本人は、ずいぶんらくをさせてもらっているということを知りました。もうこんどからバナナをたべて、らくをするたびにフィリピンの人に申しわけなく思えてくる。(以下略)」(吉原由紀による感想)

 記録「授業・バナナと日本人 小学生の子どもたちとの二時間」には授業者・鶴見良行と、その記録者・鳥山敏子との対談が、加筆解説を加えて文庫本73ページにわたり掲載されている。対談記録の最後に、良行の次のようなメモがある。
「記録者・鳥山敏子さんは、一九四一年広島生まれ、香川出身。一九八〇年より中野区立桃園第二小学校に勤務。著書に「いのちに触れる」「イメージをつくる」(太郎次郎社)、「からだが変わる 授業がかわる」(晩成書房)、「からだといのちと食べものと」(自然食通信社)がある。この授業は、一九八三年、同校の鳥山クラスで行なわれた。」(『アジアの歩き方』p.183、ちくま文庫、1998。引用文の「広島生まれ、香川出身」という表記に注目)


思想の科学 1995年9月
『バナナと日本人』
─フィリピン農園と
食卓のあいだ─

岩波新書
1982年


『アジアの歩き方』
ちくま文庫
1998年
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |

INDEX(トップページ)