鶴見良行の「アメリカの越え方」(1)

 1970年、当時44歳の鶴見良行は勤務先の財団法人・国際文化会館の理事長特別補佐に就任した。1955年、29歳で就職し、企画部や宿泊管理部など様々な部署を経験したのちの登用である。将来の理事長就任を見越しての人事と見なされていた。当時の理事長で国際文化会館創設者の松本重治(1899−1989)は、戦前からの知米派知識人であった。戦後の1947年に一時、公職追放された。が、直後に社会復帰している。(松本重治『上海時代 ジャーナリストの回想』改訂版、中公文庫全3巻、2015)

 戦後も松本重治はジャーナリズムや学会への影響力を保持した。1952年から16年間、アメリカ学会会長を務めている。国際文化会館は、アメリカの民間団体や学術関係者たちと日本の民間人との交流を支援してきた。「国際文化会館理事長として、1973年に退職した鶴見良行を嘱託として1986年まで在籍させた」との記述がある。(ウィキペディア:松本重治の項)

 1970年当時、良行も松本も共にベトナム戦争に反対していた。良行の、理事長特別補佐就任(1970)は、次期理事長就任を含意した松本の意向と思われていた。しかし、その後の展開は違った。ベトナム戦争反対運動での良行の言動が、国会で取り上げられ問題となる。政府が援助する財団法人の役員にふさわしくないと見なされた。結果、自分の企画としてのアジア文化交流事業が以後も継続して担当できることを条件に、良行は退職を受け入れ、非常勤の嘱託職員となる。退職による収入減が、アジア研究者として著作活動への道を切り拓くことにもなった。(『著作集12』「年譜」p.429-430)

 良行は、外交官の父・鶴見憲(1895−1984)、母英の四男一女の長男として、父の勤務地アメリカ・ロスアンゼルスで1926年に生まれた。鶴見憲は、鶴見俊輔の父・鶴見裕輔(1885−1973)の弟である。鶴見裕輔、鶴見憲の兄弟官僚は、戦前日本のアジア政策に大きく関与している。その事実を良行に語ったのは、北京で面談した中国政府首相(当時)周恩来である。良行は、1973年3月文化界友好訪中団(団長・安藤彦太郎)として中国を訪れていた。

 良行3歳のときに家族と共にアメリカから帰国。1935年9歳のとき再び家族で父の赴任地アメリカ・ポートランドに渡った。良行はアメリカの小学校に通い、唯一のアジア人生徒として11歳までの3年間学んだ。アメリカで生まれ、アメリカ国籍を持ち、アメリカ人としての初等教育を受けた。アメリカ国籍は成人して東京で離脱している。しかし、国籍離脱の数年後にアメリカ大使館を訪れて、国籍回復の可能性について問い合わせをおこなったとされる。20歳代前半の良行には、アメリカとの関係で迷いがあった。

 国際文化会館への良行の就職は、東京大学法学部卒業の3年後、1955年である。すでに29歳であった。26歳での大学卒業は、小学校時代の転校手続きで遅れたこと、一高受験の失敗などでの遅れによる。大卒1年目には、結核のために療養した。療養2年目に健康を回復したが、今でいうフリーターとなって生きようとした。すでに結婚していた。

 安竹千代子との結婚は、1952年3月に東大法学部を卒業した直後の5月である。無職のまま千代子と結婚している。定職はなかったが、収入はあった。編集者や文筆家として働いていた。月刊雑誌「思想の科学」などへの執筆のかたわら、ハーバード大学から在日米軍基地の調査に来た文化人類学教授ウィリアム・コーディルの助手として約1年の調査研究に従事している。その後、ようやく就職の決心がついたようだ。職場となった国際文化会館は、日本のなかのアメリカだった。英語が飛び交っていた。就職してからも雑誌などへの執筆は継続していた。1960年代の良行は、知米派知識人と見なされるようになっていた。

 知米派知識人からアジア学者への転換が起きるきっかけとなったのは、ベトナム戦争である。アメリカが北ベトナムを無差別空爆するようになり、良行もベトナム反戦の声をあげた。1965年4月の「ベトナムに平和を市民連合(ベ平連)」の結成に参加している。その後は、急速に展開した。ベ平連結成から2ヵ月後には、当時の南ベトナムの首都サイゴンを訪れ、6日間を過ごした。ベトナム戦争を自分の目で見て確かめようとした。(別稿「サイゴンの6日間」参照)

 1965年の南ベトナム・サイゴン(現在のホーチミン市)での6日間の体験が、「鶴見良行アジア学」の出発点となる。「出発」という評価は、『著作集1』(1999)の標題「出発」に採用されている。
 良行は、10歳とき父親の勤務地・満州国(当時)ハルピンに居住したことがある。現地の小学校には、1年間通った。当時、ロシア革命を逃れて満州国に住み着いた白系ロシア人の子弟や満州国高官の子弟たちと遊び学んだ。しかし、アジア体験とよべるような体験は残していない。子供時代の良行は、アジアに無自覚であった。アジアに居住してもアジアを体験しなかった経験は、後に良行の自戒を生んだ。アジアを旅行するだけではアジアを知ることにはならない、という自戒である。

 ほとんどゼロからアジア学を開始した良行だが、勉強開始の1965年当時すでに39歳だった。その後、ベトナム戦争反対運動の中でアジアへの知識を深めていった。本格的なアジア学の勉強は、良行40歳代のことである。初期に交流したアジア学者として、中国文学者の竹内好(1910−77)がいる。竹内好との交流がなければ、「日本人ばなれの生きかたについて」(初出「思想の科学」1972年6月、『著作集3』「アジアとの出会い」2002)は生まれなかったかもしれない。なぜなら、論文後半の中江丑吉(1889−1942、中江兆民の長男)や鈴江言一(1894−1945、中国革命史家、筆名は王子言)らの話は、竹内好の中国学を参考にしている。

 1965年に良行がアジアを学びはじめて9年後の1974年、良行のアジア研究者宣言ともいうべき本が刊行された。編著『アジアからの直言』(講談社現代新書、1974)である。良行は巻頭論文「アジアにおける日本批判の構造」を書き、第一章の締めくくりに「問われる日本人の人間性」を書いている。これらは、1970年代前半のアジアの反日時代を反映している。
 編著『アジアからの直言』出版の1974年までの良行アジア学の学習過程は、『著作集1』「出発」(1999)、『著作集2』「ベ平連」(2002)、『著作集3』「アジアとの出会い」(2002)に順次表現されている。

 アジア学研究の開始において、良行の最初の課題は自らのルーツでもあったアメリカだった。アジアで戦争するアメリカと向き合わなければならなかった。良行がアメリカとどのように向き合ったかについては、初の単著『反権力の思想と行動』(盛田書店、1970)の第一部「アメリカ論」(p.7-189)にある。そこには、かつて国籍のあったアメリカとの格闘の跡が、読みとれる。

 次の文章は、『反権力の思想と行動」(1970)の巻頭にある第一部「アメリカ論」の書き出しである。
「私がここで試みるのは、一種のアメリカ文明論である。結論からさきにいえば、私は、現代の米国が人類のこれまで経験したことのないような新しい型の軍事国家へと成長しつつある、と観察している」(『著作集1』「出発」p.211。『反権力の思想と行動』の主要部分は『著作集2』「ベ平連」に収録されている)

 第二部「反戦論」(p.193-285)と合わせて、著作の主要部分は、ベトナム戦争を仕掛けていたアメリカ国家への批判が述べられている。その評論は、個人として相対的にアメリカ国家を見つめる作業でもあった。同時に、それは日本を含めた国家との向き合い方を再考することになった。国家、国民、民族、民衆についての良行の思考が残されている。しかし、『反権力の思想と行動』には、その先にどこに向かうかは、まだ示されていない。
『反権力の思想と行動』を上梓した1970年に、旅先のマニラでフィリピンの歴史哲学者レナト・コンスタンティーノの存在を知る。コンスタンティーノの著作を買い求め、そこから学びはじめた。その学習が良行のアジア学の方向を決めた。コンスタンティーノの著作から学ぶことで、良行はアメリカを越えていったといえるかも知れない。

 1970年から、編著『アジアからの直言』にいたる1974年までが、「鶴見良行アジア学」の基礎的な学びの期間だった。1974年に開催された「金沢アジア人会議」では、その企画・立案の中心に良行がいた。



『アジアからの直言』
鶴見良行 編著
講談社現代新書・1974年



『反権力の思想と行動』
鶴見良行 著
盛田書店・1970年
1234

■庄野護(しょうの・まもる)
1950年徳島生まれ。中央大学中退。学生時代よりアジア各地への放浪と定住を繰り返す。1980年代前半よりバングラデシュやネパールでNGO活動に従事。1989年から96年までODA、NGOボランティアとしてスリランカの都市開発事業に関わる。帰国後、四国学院大学非常勤講師を経て、日本福祉大学大学院博士課程単位取得。パプアニューギニア、ケニアでのJICA専門家を経て、ラオス国立大学教授として現地に2年間赴任。『スリランカ学の冒険』で第13回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞を受賞(初版)。『国際協力のフィールドワーク』(南船北馬舎)所収の論文「住民参加のスラム開発スリランカのケーススタディ」で財団法人国際協力推進協会の第19回国際協力学術奨励論文一席に入選。ほか著作として『パプアニューギニア断章』(南船北馬舎)、共著に『学び・未来・NGO NGOに携わるとは何か』(新評論)など。