鶴見良行の「アメリカの越え方」(2)

 前述したように、良行は子ども時代をアメリカで過ごした。
 10代後半になってアメリカに留学した、従兄の鶴見俊輔(1922−2015)とは、身体感覚としてのアメリカが異なる。俊輔は、日本では学校中退を繰り返し、15歳のときアメリカの全寮制中学校(マサチューセッツ州ミドルセックス校)に入学。翌年、16歳で大学共通入学試験に合格し、その成績からハーバード大学哲学科に入学を許可される。1942年、大学3年のとき、俊輔は無政府主義者として逮捕される。その後、戦争捕虜として収容所送りとなった。太平洋戦争は、41年12月に始まっていた。収容所で俊輔は卒業論文を書き上げる。ハーバード大学卒業は42年、20歳のときだ。直後に日米交換船で日本に帰国。42年8月のことだった(鶴見俊輔、加藤典洋、黒川創『日米交換船』新潮社、2006)。

 俊輔の姉・鶴見和子(1918−2006)は、1939年に津田英学塾を卒業し、米国・ヴァッサー大学大学院修士課程哲学科に入学。1941年には修士号を取得し、コロンビア大学大学院博士課程に進学。その時点で、太平洋戦争が起きた。そのため、1942年の日米交換船で弟の俊輔と共に帰国した。
 1942年、アメリカからの帰国船上の俊輔は、自分は人を殺す兵士にはならないと心に決めている。日本に帰れば兵役が待っていた。和子は太平洋戦争の展開に緊迫感を感じていなかった。和子は戦争が終わればアメリカに戻るつもりでいた。そんな話を帰国船で弟・俊輔に語っている。
 いっぽう俊輔は、2度とアメリカに戻ることはないだろうと考えていた。その語りを私は、香川県多度津町で開催された、俊輔の講演会で聞いている。1998年頃のことだ。何故、四国の多度津町だったのかといえば、俊輔の、京都での主治医が香川県多度津町出身であったからだ。

 和子と俊輔らが帰国船に乗った1942年、和子は24歳、俊輔は20歳であった。良行は府立八中(現、小山台高校)3年の16歳だった。44年に良行は府立八中を卒業し、一高を受験して失敗。翌45年4月、旧制水戸高校に入学。19歳で旧制水戸高校に入学した良行は、親族たちから20歳でハーバード大学を卒業した俊輔と比較された。俊輔は早熟の哲学者、良行は晩年にアジア学を切り開いた研究者となる。「良行は百歩先まで歩いた」との俊輔の言葉は、俊輔からの視点だろう。

 3人の「アメリカの越え方」を比較するとき、3人それぞれの日本社会とかかわり方が参考となる。具体的には、それぞれの日本共産党との距離のとり方の違いで比較できる。
 俊輔は、日本共産党とは最初から距離を置いて生きた。「東大卒たちを幹部に置く日本共産党は、新しい日本社会をつくれない」という発言を俊輔は講演会などでしてきた。言葉ではっきりと日本共産党批判を声にしてきた俊輔の周辺には、日本共産党支持者たちも安心して居られたようだ。俊輔の日本共産党批判は、党員個人には向かわなかった。

 良行は、旧制水戸高校時代に日本共産党員の学友たちと自治会活動を共にしている。安東仁兵衛(1927−1998)学生自治委員長、鶴見良行副委員長の時代があった。安藤は、現在も続く雑誌『現代の理論』(1959年創刊)の創刊者のひとりである。旧制水戸高校で安東と活動を共にしていた良行は、当時20歳。安東をふくめて周辺にいた共産党員の学友らは、やがて共産党から離党、良行が位置していた無党派の市民運動に参加するようになった。良行は、俊輔のように人前で日本共産党について語ることはなかった。

 和子は3人の中で唯一、日本共産党への入党経験がある。雑誌『思想の科学』の創刊メンバーであった和子は、その創刊時代(1946年頃)に入党。日本共産党が所感派と国際派に分裂した1950年頃まで党員であった。
 和子は、この経験と挫折から再生するため、長い時間をかけている。自らの学問の原点に立ち返えろうとした。「生活綴方」運動の国分一太郎と交流し、柳田国男研究を経て南方熊楠研究を視座にすえた。(鶴見和子『漂泊と定住と 柳田国男の社会変動論』勁草書房、1977、のちにちくま学芸文庫、1993、同『南方熊楠 地球志向の比較学』講談社学術文庫、1981などを参照)
 その延長で1962年、米国・プリンストン大学大学院博士課程に留学した。64年にアメリカでの社会学博士学位の資格試験に合格。66年にプリンストン大学での博士学位取得に至っている。

 俊輔は、学術雑誌に掲載されるような論文は書いてこなかった。博士学位にも関心を持たなかった。これまで一般雑誌さえ取り上げなかった文化領域について「哲学する」論文を書いてきた。マンガの文化的機能を論じたのも、そのような考えに基づいている(鶴見俊輔『大衆芸術』河出書房、1954、『漫画の戦後思想』文藝春秋、1973 、など)。

 良行には、岩波書店の雑誌『思想』(1977年7月)に発表した学術論文がある。フィリピンの工業地区でのフォードを中心にして世界自動車産業の展開過程を分析した「統合帝国主義の展開」(『アジアを知るために』所収、筑摩書房、1981、『著作集3』「アジアとの出会い」所収)である。7年間を費やして書き上げている。その論文が月刊誌『思想』に掲載される際、ある東大教授の査読を受けた。「思想」編集部の配慮(?)だった。この経験により良行は、学術論文よりも一般の人に読んでもらえる報告(ルポルタージュ)を目指すようになった。

 俊輔も良行も学位や学術雑誌から距離を置いて研究活動してきた。いっぽう和子は、俊輔や良行が取得しなかった修士学位を取得し、博士学位を得るためにも努力してきた。そんな和子にとって、アメリカと日本は同時に越える対象としての国家だった。1949年に戦後アメリカ政治についての論文を書いている(鶴見和子「ウォーレスの再建案」『第二部世界経済の現状分析』p.1−74、潮流社、1949) 。
 その論文にあるヘンリー・A・ウォーレスは、1949年に大統領選挙でトルーマンに敗北した政治家である。核兵器の国際管理をめざした政治家として歴史に残る。いっぽうのトルーマン大統領は、核兵器の国際競争を選択した。その結果、現在の混沌した国際政治がある。2022年にロシアのウクライナ侵攻が起き、2023年には戦争は膠着状態に入った。
 和子は、1949年の時点で戦後アメリカ政治が国際政治の最初のボタンを掛け違えたことに気づいていた(島本マヤ子『ヘンリー・A・ウォーレス 孤高の政治家が目指した核なき世界』p.23、大阪大学出版会、2020、大阪大学提出博士論文) 。

 終戦直後に和子は、アメリカ政治の限界を見極めた。それが和子にとっての最初の「アメリカの越え方」であった。アメリカ政治の限界を見たことと和子の日本共産党への入党は、関係がありそうだ。そして、日本共産党を党員として経験したことで、日本を越えるため再びアメリカへの留学を決意した。そのように私は読みとった。

 俊輔は『北米体験再考』(岩波新書、1971)を書いてアメリカ体験を総括した。良行は、その内容に不満であったらしい。
 俊輔が書いている。 「彼が、思想の科学にたいして、私にたいして、距離をおくところがあった。 私の本でいうと『北米体験再考』(岩波新書)に、彼は不服をとなえた」 (『著作集1』「出発」鶴見俊輔による解説、p.295)

『北米体験再考』では、大学教授F・O・マーシスなどアメリカの典型的知識人を素材にアメリカの知を論じようとしている。俊輔は、アメリカ留学時代にマーシス教授に出会った。その著作『アメリカ文芸復興』(1940)を読んで、俊輔は「これをしのぐアメリカ文学史を私はその後も読んだことがない」と書いている(『著作集1』「出発」鶴見俊輔による解説、p.295)。
 マーシスの著作を辿りなおすことを『北米体験再考』の作業に据えたことが、良行の不服を招いたのだろう。
「こういう本をたどりなおすという私の努力そのものが、とりすました知識人風のスタイルから離れていない」(『著作集1』「出発」、鶴見俊輔による解説、p.295)

 和子は、柳田国男研究を経て南方熊楠を研究した。それが、2度目のアメリカの越え方となった(鶴見和子『南方熊楠 地球志向の比較学』講談社学術文庫、1981)。
 良行のアメリカの越え方と比較できるのは、和子と南方熊楠の関係かもしれない。良行は、フィリピンの歴史哲学者レナト・コンスタンティーノの著作との対話からアメリカを越え、アジア学への道を歩み始めた。そして、たどり着いたのが、論文「日本人ばなれの生き方について」である(初出『思想の科学』1972年6月号、『アジア人と日本人』所収、晶文社、1980、『著作集3』所収)。

『北米体験再考』(1971)と良行の「日本人ばなれの生き方について」(1972)には、ほぼ同時期の執筆である。『北米体験再考』への違和感から良行が書いたのが、「日本人ばなれの生き方について」だったのかもしれない。アメリカ国籍をもったことのある良行が、日本人として生きる選択の際に、「日本人ばなれの生き方」にたどりついたのだろう。



『日米交換船』
鶴見俊輔 加藤典洋 黒川創 著
新潮社・2006年



『漂泊と定住と』
鶴見和子 著
勁草書房・1977年



『南方熊楠』
鶴見和子 著
講談社学術文庫・1981年



『ヘンリー・A・ウォーレス』
島本マヤ子 著
大阪大学出版会・2020年



『北米体験再考』
鶴見俊輔 著
岩波新書・1971年



『アジア人と日本人』
鶴見良行 著
晶文社・1980年
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■庄野護(しょうの・まもる)
1950年徳島生まれ。中央大学中退。学生時代よりアジア各地への放浪と定住を繰り返す。1980年代前半よりバングラデシュやネパールでNGO活動に従事。1989年から96年までODA、NGOボランティアとしてスリランカの都市開発事業に関わる。帰国後、四国学院大学非常勤講師を経て、日本福祉大学大学院博士課程単位取得。パプアニューギニア、ケニアでのJICA専門家を経て、ラオス国立大学教授として現地に2年間赴任。『スリランカ学の冒険』で第13回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞を受賞(初版)。『国際協力のフィールドワーク』(南船北馬舎)所収の論文「住民参加のスラム開発スリランカのケーススタディ」で財団法人国際協力推進協会の第19回国際協力学術奨励論文一席に入選。ほか著作として『パプアニューギニア断章』(南船北馬舎)、共著に『学び・未来・NGO NGOに携わるとは何か』(新評論)など。