|
|||
1970年代バンコク──井上澄夫と鶴見良行 1975年に49歳だった鶴見良行はタイを4度旅行している。1月、4月、5-6月、9月である(『著作集12』年譜、p.430)。1972年から74年までの3年間は、年2回の首都バンコクへの訪問だった。『マラッカ物語』(1981)の執筆作業が本格化した時期だ。「マラッカ物語」への旅は、マレー半島を横切る運河計画の報道から始まった。予定地はタイ南部、半島マレーシアの北に位置するクラ地峡。これに関しては、「私論第1部」で述べてきたので、ここでは南タイ以外に良行が関心を注いだ分野のことを記したい。 1973年10月に軍事政権が倒れ、タイは民主制となった。しかし、隣国のミャンマー政治に見られるように、民主主義の経験の浅い社会において、民主制を育てるには困難が伴う。その困難さに政治的にも社会的にも行き詰まっていたのが、1975年のタイ社会であった。タイ各地の民主派の活動家たちは、数十人規模で政治テロによって殺害されていた。軍事クーデターは時間の問題とささやかれていた。(鶴見良行「今やタイには殺す自由がある」『著作集3』p.241-246、初出『週刊ポスト』1976年4月30日号) 良行が東京新聞に連載した報告がある。「激動の周辺 タイの立場」上下2編(東京新聞、1975年5月8日、5月9日)という記事だ。パンサク・ヴィンャラトンというタイ人の筆名が使われていた。この時期、幾つかの筆名で文章を書いていた良行だが、タイ人名の筆名は、異例であった。当時、タイ民主化の困難さ感じていた良行であった。しかし、民主派市民を支持する立場にゆるぎはなかった。 1973年から76年にかけて度々バンコクに出かけ、良行と人脈の重なる民主派の市民と交流していたのが、井上澄夫(1945−2014)である。井上は1967年にベ平連事務所で良行と知り合った。以来、ベトナム反戦運動を共にしてきた。72年に良行が第1回「アジア勉強会」を呼びかけたとき、最初の応募者のひとりとなった人物である。次年度の1973年「アジア勉強会」にも井上は継続参加した。2年目を修了して卒業したときのことを井上は、次のように語っている。 「ベ平連運動の最後の時期に鶴見良行さん主宰の『アジア勉強会』で二年ほど勉強させてもらって、そのなかでいろんな知識、論理が頭のなかに入ってきて『アジアにおける日本の位置』ってのが見えかけてきたということがあってさ、これは何とかしなくちゃいけないと思った。ひと言でいうと充電したわけだな。あの学校は三年くらい続いたんだけれど、二年で卒業したわけ。良行校長が『そろそろ卒業する人はいないのかね?』と言ったんで手を挙げたら、ぼく一人だった」(井上澄夫「運動のなかで感じた70年代」『歩きつづけるという流儀』p.31、晶文社、1982) 上記の文章には、「あの学校(アジア勉強会)は三年くらい続いたんだけれど」とある。4年目からは神田のアジア太平洋資料センターに会場を移して継続している。 井上は、「アジア勉強会」在学時の1973年から反公害輸出運動に取り組んだ。日本企業のタイへの公害輸出の反対運動が主要課題となった。タイ・バンコクの公害汚染を問題とした井上らの東京での市民運動は、1973年10月のタイ民主革命に向かってのバンコクでの民主化運動と共鳴していた。 その後、1973年10月15日のタイ民主革命から76年10月6日の「血の水曜日」軍事クーデターまで、井上はバンコクの社会情勢に深くかかわった。「血の水曜日」では、現地バンコクの現場近くで命を狙われて追われた(井上澄夫「血の水曜日、タイで何が起こったのか」『歩きつづけるという流儀』p.154-190)。 鶴見良行(1926−1994)と井上澄夫(1945−2014)は、68、69歳とほぼ同じ年齢で亡くなっている。二人は、1967年から77年までの10年間、多くの言葉を交わして、激論しながら共通の課題に取り組んでいた。この時期のタイ民主化運動は、二人が共に情報交換しながら取り組んでいた課題であった。 「反戦・反侵略」の市民運動家であった井上にはつぎの著作がある。単著『歩きつづけるという流儀 反戦・反侵略の思想』(晶文社、1982)、編著『いま語る 沖縄の思い』(技術と人間、1996)、共著『隠して核武装する日本』(影書房、2007)など。 井上は、一貫して市民運動のなかで「歩く・見る・聞く」を実践してきた。アジア学における良行は、「歩く・見る・聞く」を方法論として提唱していた。井上の遺した書籍の題名からも共通の学び方が確認できる。 井上と良行のもうひとつの共通点は、非暴力の思想と行動である。井上は、一橋大学在学時の1967年10月8日、東京羽田で起きた佐藤訪米阻止デモ弾圧での京大生・山崎博昭(1948−67)の殺害を知った。そして、すぐさま学内で声をあげた。当時、一橋大学構内では様々な政治セクト(党派)が活動していた。そんな時代に、大学構内で非暴力反戦行動を呼びかけたのが井上だった。(井上澄夫「さてどうやってたたかいを続けるか」『歩きつづけるという流儀』p.14) 1973年からの77年にかけての井上の業績に、月刊情報誌『日タイ青年友好運動ニュース』の制作・発刊がある。その後、78年から83年には、東大自主講座実行委員会の月報『土の声・民の声』の編集発行実務をこなした。東大自主講座は環境工学研究者・宇井純(東大助手を経て沖縄大学教授、1932−2006)らによって取り組まれた自主講座運動である。その実務を担ったのが井上であった。(月刊『日タイ青年友好運動ニュース』については、『鶴見良行文庫』デジタルアーカイブス、立教大学共生社会研究センターを参照) 井上澄夫『歩きつづけるという流儀』には、月刊「日タイ青年友好運動ニュース」に掲載された報告6篇が収録されている。その一つ、「血の水曜日、タイで何が起こったのか」(1976.10.30)は、事件を現場で体験した井上の現場報告である。井上がタイに入国した8月23日から10月6日の軍事クーデターに至る出来事が細かく記述されている。 |
『歩きつづけるという流儀』 井上澄夫 著 晶文社・1982年 『いまを語る沖縄の思い』 井上澄夫 編著 技術と人間・1996年 『隠して核武装する日本』 井上澄夫 共著 影書房・2007年 |
||
■庄野護(しょうの・まもる) 1950年徳島生まれ。中央大学中退。学生時代よりアジア各地への放浪と定住を繰り返す。1980年代前半よりバングラデシュやネパールでNGO活動に従事。1989年から96年までODA、NGOボランティアとしてスリランカの都市開発事業に関わる。帰国後、四国学院大学非常勤講師を経て、日本福祉大学大学院博士課程単位取得。パプアニューギニア、ケニアでのJICA専門家を経て、ラオス国立大学教授として現地に2年間赴任。『スリランカ学の冒険』で第13回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞を受賞(初版)。『国際協力のフィールドワーク』(南船北馬舎)所収の論文「住民参加のスラム開発スリランカのケーススタディ」で財団法人国際協力推進協会の第19回国際協力学術奨励論文一席に入選。ほか著作として『パプアニューギニア断章』(南船北馬舎)、共著に『学び・未来・NGO NGOに携わるとは何か』(新評論)など。 |
|||