1970年代バンコク──井上澄夫と鶴見良行(2)

 第1回「アジア勉強会」(主催・鶴見良行)は、学習の締めくくりとして1972年12月に東南アジア・スタディ・ツアーを実施している。12月24日に出発し、香港、タイ、マレーシア、シンガポールに出かけた。この旅行の引率者は良行だった。
「参加者16名。翌年(1973年:引用者註)1月6日帰国」(『著作集12』「年譜」p.430)
 参加者16人に井上澄夫もいた。井上にとっては初めてのタイ訪問であった。そのバンコクでの体験を書いた井上の文章がある。
「最初にタイを訪問したとき、ぼくたちはバンコクのボウォーン寺に文化人類学者の青木保氏を訪ねた。青木氏はその寺で僧として修行しており、ぼくたちは彼からタイの仏教の話をきくために彼の僧房を訪れたのだ。その頃の青木氏の体験はすでに大部の著書として刊行されているが、彼の話の中でぼくが一番興味をもったのは、タイの国教はむろん仏教であるけれども、その仏教は土着のピー(精霊)信仰をベースとしそれとないまぜの形でタイ人の心を支配しているということだった」(井上澄夫『歩きつづけるという流儀』p.213、晶文社、1982)

 文化人類学者・青木保(1938-)は、1971年5月に国際文化会館で開かれた「アジア勉強会」設立の呼びかけ人5人のうちの一人である。その直後にバンコクに「留学」、僧として僧院での修行を開始した。伝統的な寺院で修行僧となることは、容易ではない。パーリ語の口答試験などに合格して、青木は修行僧となった(青木保『タイの僧院にて』中公文庫、1979/青土社、2021)。

 1972年12月の「アジア勉強会」タイ旅行に先立ち、10月7日に良行は、バンコクの僧院に青木を訪ねている。
「私はわずかの暇をえて友人のSとともにある僧院を訪ねた。タイ王国の特別な庇護下にあるといわれる格式高い仏寺である。今年(1972年:引用者註)の八月六日、ある若い日本人が剃髪得度してこの寺の僧房に入った。かれOさんもまた文化人類学の学徒、タイの宗教構造の研究者である。今かれは、毎朝五時半起床、六−七時ビンタバート、七−八時朝食、八−九時説教、九−十時半仏典講義、十一時昼食(食事はこの2回だけ、正午以後は一切の食物はとれず、水だけがゆるされる)という厳格な戒律の生活を送っている。かれの希望では、この生活を来年の六月ごろまで続け、七月ごろからビルマ、ネパール、インド、セイロンなどの仏教国を行脚してまわりたいということだ」(鶴見良行『アジア人と日本人』p.91、晶文社、1980/『著作集3』「アジアとの出会い」p.47-48)

 この新聞エッセイで青木保は「Oさん」とされている。Oさんを共に訪ねた友人は「Sさん」と書いている。友人Sさんとは、当時、チュロンコン大学講師であったスラク・シヴァラクサである。スラク・シヴァラクサは、良行が見いだしたバンコク在住の知識人である。
 1970年春に、国際文化会館の交流プログアムで初来日し、1カ月を過ごした。アジア文化交流金沢会議(1974年6月)では、アジア各国からの参加者30名をまとめる役割を果たした。
 金沢でのアジア人会議(1974)の記録を収録した鶴見良行編著『アジアからの直言』(講談社現代新書、1974)がある。そこにスラクは、論文「アジアはなぜ日本人をきらうか」を寄稿している。その後も来日を積み重ね、日本の仏教界やアジア学研究者たちと交流を重ねてきた。2011年には庭野平和賞を受賞している。(参考:スラク・シヴァラクサ『タイ知識人の苦悩』勁草書房、井村文化事業社、1984)

 ここで確認しておきたいのは、1972年当時、「Oさん」や「Sさん」など実名を表記できない事情があったことだ。時期的に遅れて書かれた井上の文章では、「Oさん」は実名の青木保で登場する(井上澄夫「タイ庶民の王室観」『思想の科学』1977年4月号、井上澄夫『歩きつづけるという流儀』)。1977年の青木は、すでに大阪大学に職を得ていた。実名表記は青木自身にも問題にならなくなっていた。しかし、井上澄夫にとっての1977年は、タイに戻れない時期であった。

 1972年12月の「アジア勉強会」の東南アジア旅行を終えて帰国したあと、井上澄夫は日本企業によるタイへの公害輸出に反対する運動をはじめている。日本企業によって東南アジアを舞台に水俣病の悲劇が繰返されていた。大分出身の井上には、熊本の水俣病公害を身近に感じていた。
 日系企業によるタイでの公害の歴史は、古い。1966年からタイ・バンコクで操業を開始していた「タイ旭カセイソーダ」(略称タスコ)は、チャオプラヤ川に排水を垂れ流していた。日本ではメナム川で知られるチャオプラヤ川である。川辺の住民に皮膚病や下痢の症状を発症させていた。井上たち東京の有志たちは、水俣病の経験に基づいて医療関連情報を整理し、現地の情報とつき合わせて日本企業による公害輸出の実態を暴いた。井上らが公開した情報に基づいてタイの「サイアム・ラット」紙が反公害のキャンペーン記事をタイ国民に向かって報道した。1973年8月5日のことである。10月14−15日に起きたタイ民主革命へのプロセスと井上らのタイへの反公害輸出運動は連動していた。

 1973年9月14日、在日タイ人留学たちを含む井上たちは、東京・丸の内の旭硝子本社前でデモを行った。その際、掲げられた大横断幕には、「コンジープン・マイヨームハイ・アサヒグラス・ポンタムライ・メナームチャオプラヤー(日本人は旭硝子によるチャオプラヤ川汚染を許さない)」(井上澄夫『歩きつづけるという流儀』P.80)とタイ語で大きく書かれていた。「サイアム・ラット」の東京特派員はデモを取材し、9月22日と23日の同紙にデモの写真と共に「日本人がタイを汚染している工場に反対してデモ」の記事を載せた。その経緯は、東大自主講座のニュースレターや英語版「KOGAI」等に掲載され世界に伝えられた。

 以後も井上はタイと日本のあいだで生じている社会問題に取り組んだ。1973年、74年、75年の活動については、月刊『日タイ青年友好運動ニュース』に記録が残る。76年10月以後、井上はタイに行けなくなる。その原因は、76年10月バンコクでおきた「血の水曜日」事件(軍事クーデター)による。この事件を現場で経験し、井上は命を狙われた。詳しい報告として井上自身が書いた「血の水曜日、タイで何が起こったのか」(「日タイ青年友好運動ニュース」1976年10月30日号)がある(井上澄夫『歩きつづけるという流儀』)。

「血の水曜日事件」は、タマサート大学の校庭で民主派の学生たちが反民主派の暴力集団に襲われて大量の犠牲者と逮捕者(約3000名:鈴木静夫1977、p.11)を出した事件である。この事件で政府は転覆し軍事クーデターとなった。73年10月から存続した民主政治が終わった瞬間である。この軍事クーデターで井上は、「日本から派遣された共産主義者」として命を狙われた。出国方法を工夫して、井上は何とか無事に日本に帰国した(詳しい経過は、井上澄夫『歩きつづけるという流儀』p.179)。

「血の水曜日」事件を予測する文章を良行は書いている。『週刊ポスト』(1976年4月30日号)に寄稿した報告「今やタイには殺す自由がある」(『著作集3』「アジアとの出会い」)である。この報告は、76年4月4日のタイ総選挙の現地取材をもとに書かれている。75年1月のタイ総選挙と比較して、もはや自由で公平な選挙が行われなくなっている社会状況を良行は報告している。
「選挙は危険だからな。候補者も民衆もびくびくしているんだ」(『著作集3』p.241)。
 良行の友人の話として記されている言葉が、当時のタイ社会を物語っている。タイ軍部の社会工作は軍事政権復活に向けて、民衆レベルの暴力的ボランティア組織を訓練育成し、民主派の候補者や運動員を次々と個別テロによって殺害していた。「今やタイには殺す自由がある」という言葉は、1975−76年当時のタイ社会の実態を表現していた。

 市民運動家としての井上と良行は、持ち場と表現方法が異なっていた。井上は社会的スポークスマンとして前面に出る役割を担った。良行はベトナム派遣米兵の脱走兵支援運動からの経験から、一歩下がったところで活動するようになっていた。井上は「めいっぱい」に社会活動し、いっぽう良行は、行動においても「腹八分目」とした。(『著作集3』「アジアとの出会い」p.189-291「腹八分の自戒」、初出『朝日新聞』1977年8月8日夕刊、初出タイトルは「優しい裏切り?失ったもの 見出したもの」、『アジア人と日本人』所収、1980)
 その後、良行は南タイでの取材を重ね、『マラッカ物語』(時事通信社、1981)などアジア学研究に集中するようになっていく。井上はクーデター以後タイに戻れない状況のなかで、日本国内の市民運動に積極的に取りくんだ。東京での東大自主講座の運営や反公害輸出運動などである。その活動は、『歩きつづけるという流儀』に記録されている。  

鶴見良行著作集1
『歩きつづけるという流儀』
井上澄夫 著
晶文社・1982年



『タイの僧院にて』
青木 保

中公文庫・1979年



『アジア人と日本人』
鶴見良行 著
晶文社・1980年



『アジアからの直言』
鶴見良行 編著
講談社現代新書・1974年



『タイ知識人の苦悩』
スラク・シヴァラクサ 著
赤木 攻 訳
井村文化事業社・1984年
1234

■庄野護(しょうの・まもる)
1950年徳島生まれ。中央大学中退。学生時代よりアジア各地への放浪と定住を繰り返す。1980年代前半よりバングラデシュやネパールでNGO活動に従事。1989年から96年までODA、NGOボランティアとしてスリランカの都市開発事業に関わる。帰国後、四国学院大学非常勤講師を経て、日本福祉大学大学院博士課程単位取得。パプアニューギニア、ケニアでのJICA専門家を経て、ラオス国立大学教授として現地に2年間赴任。『スリランカ学の冒険』で第13回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞を受賞(初版)。『国際協力のフィールドワーク』(南船北馬舎)所収の論文「住民参加のスラム開発スリランカのケーススタディ」で財団法人国際協力推進協会の第19回国際協力学術奨励論文一席に入選。ほか著作として『パプアニューギニア断章』(南船北馬舎)、共著に『学び・未来・NGO NGOに携わるとは何か』(新評論)など。