鶴見良行私論

 “Hさん”へ

『鶴見良行著作集1「出発」』(みすず書房、1999)のなかに、著者の写真が6枚掲載されている。1枚目の写真は、最初のページにある。机を前にメモカードを眺める良行がひとり写る。髪は左側で七三に分け、左腕には腕時計が見える。長袖の白いワイシャツを着てネクタイを締めている。30代前半の頃の職場での一枚である。写真下に添えられた解説文には、「国際文化会館勤務の頃(1950年代後半)」とある。当時の良行は、外出の際に私生活でもネクタイを締めることが多かった。

 2枚目の写真は83ページ(『著作集1』)にあり、水戸高校時代の集合写真である。良行を含めて同窓生12人が2列に並んでいる。前列に良行ら5人が座り、立っているのは後列の7人である。全体の12人のうち8人が金ボタンの学生服姿。5人は学生帽を被っている。良行の上着の学生服は、金ボタンでなく黒ボタンに見える。良行ひとりだけが灰色のズボンをはいている。坊主姿の2人の学生たちの前に座る良行の頭髪は、やはり左側で七三に分けられている。このヘアスタイルは1枚目の写真と変わらない。この時代の学生としては、良行の頭髪は長めである。この写真は、旧制水戸高校時代の良行の学内での立ち位置を示している。日本共産党員の学生たちと交流した良行だが、自らは共産党と距離をおいた。後に学友らは共産党を離れ、良行ら無党派の市民運動に合流した。

 写真の3枚目は、90ページ(前掲書)に夫人の鶴見千代子さんと映る。共にコートを着ており、良行はネクタイを締めてカメラを手にしている。「ライカを手にする著者夫妻(1955年5月、箱根にて、左端は鶴見俊輔氏)」と写真解説にある。鶴見良行夫妻と鶴見俊輔のあいだに映る4人目のメガネをかけた人物については、説明がない。

 4枚目の写真は、156ページ(前掲書)にある。タイの王宮近くでの撮られた写真だ。1965年6月のサイゴンでの6日間を過ごした直後のタイで撮られている。「1965年夏、東南アジア諸国の旅にて(タイ)」と写真解説にある。ここではノーネクタイ。白い半そでシャツの良行とほぼ同じ服装の男性が並んで写る。共に写る男性の名前は記されていない。

 5枚目の写真(前掲書、p.232)は、良行が亡くなる7年前の1988年の写真である。国際文化会館理事長、松本重治ら理事会メンバーら計7人の記念写真である。「松本重治氏の誕生日会で国際文化会館のメンバーと(1988年9月、前列左・著者、同中央・松本氏)」と写真解説にある。この写真のなかの良行は松本の右隣に座っている。1973年から非常勤の嘱託職員となってからも、松本と良行の個人的関係は変わらなかった。この写真は、それを示す。記念写真には国際文化会館の幹部職員だった男性5人、女性1人が写る。良行は男性たちのなかでひとりノーネクタイ、セーター姿で写っている。

 6枚目の写真は「1958年夏、国際文化会館ロビーにて」(前掲書、p.238)とある。白黒写真で、黒っぽいズボンにネクタイを締めて白いブレザーを着た良行がひとりで立っている。

 ここでのテーマは、「ネクタイと鶴見良行」である。40歳頃までネクタイを常用していた良行だった。しかし、1960年代後半から70年代前半にかけての10年間でノーネクタイの良行に変身した。その変化の原点は、1965年サイゴンでの6日間の体験にあったと思われる。ネクタイを着用しなくなるという外面的な変化は、良行の内なる世界観が変わったことを示している。変化の原点はサイゴンでの体験にあった。

 良行の最初のサイゴン滞在は1965年6月17日からの6日間だった。アメリカのハーバード大学で開催される公開セミナーへの参加途上に
ストップオーバーした。
 6月17日は、「サイゴン近郊ドンソアイの激戦が一服し、空港ビル爆破事件が起こった直後の六月一七日」(『著作集1』p.167)と良行の文章にはある。
 6月22日には、「午前5時50分、サイゴン市内のレロイ通りにあるベン・タイン市場前の大きなロータリーで、捉えられた民族解放戦線兵士チュラン・ヴァン・ダンの公開処刑を目撃。大きな衝撃を受ける」(『著作集12』「年譜」p.428)
 チュー・キ政権による「ベトコン」3人目の処刑であった。
 眼前20メートルの距離で「何の儀式も宣告もなく、事務的かつ機械的に処理された」(『著作集1』p.170)。
「蒼白の顔をしていましたけれど、目隠しをされて、柱にくくりつけられるところから、あの独特な抑揚のベトナム語で、なにやらカン高く叫び始めていました。後できくところによると、彼は『ホー・チ・ミン万歳、米帝国主義反対』と叫んでいたのだそうです」(『著作集1』p.179)

 サイゴンでの解放軍戦士公開銃殺について、吉野源三郎『同時代のこと ヴェトナム戦争を忘れるな』(岩波新書、1974)のなかに次のような記述がある。
「捕らえられた解放軍の年若い兵士の姿と顔とを、かつてテレビが紹介していた。刑の執行を前に泣き出してもおかしくはない年頃の、まだ子どもらしさを残している少年兵は、怯えることなく、静かに冷然と銃口を正視して立っていた。命まで奪っても、なお、奪うことのできないものがそこにあった」(p.102)

 雑誌『世界』(岩波書店)の編集長を長くつとめた吉野源三郎が遺した『同時代のこと』については、新書刊行直後に良行が書評を書いている(雑誌『潮』1975年1月号。書評は『著作集3』「アジアとの出会い」に収録)。
 ベトナム戦争をふり返るとき、吉野の『同時代のこと』と良行の『反権力の思想と行動』(盛田書店、1970)が、参考になる。読み比べることでベトナム戦争が立体的に見えてくる。20世紀のベトナム戦争をふり返ることで、21世紀のウクライナ戦争について考えることができる。現在のアメリカのウクライナ支援では、ベトナム戦争時の南ベトナム政府支援での失敗が繰り返されている。

 吉野源三郎が記した「命まで奪っても、なお、奪うことのできないもの」を、良行は1965年のサイゴンの路上で見た。このときの体験が、良行の新たな「出発」となる。ネクタイを締める機会が少なくなり、人付き合いの仕方も変わった。外見も変わったが、良行の内面にはより大きな変化が起きていた。サイゴンで公開処刑を見た翌日の6月23日に良行はサイゴンを発ち、バンコク、ニューデリーでの短期滞在を経て、イタリア・ローマにたどり着く。ローマのホテルで一気に書き上げたのが「ベトナムからの手紙」であった。
 それは「Hさん」という呼びかけで始まる。「ベトナムからの手紙 ある編集者へ」である。『思想の科学1965年9月号』に掲載された。のちに『アジア人と日本人』(晶文社、1980)に収録され、『著作集1「出発」』にも収録されている。

「“Hさん”
 サイゴンを発って、バンコク、ニューデリーを経て、やっとローマにたどりつきました。サイゴン滞在の六日間は、空港爆破に始まり、若きベトコン兵の公開銃殺に終わるまでの事の多い時間でしたがあなたのお力添えがなかったら、私もあれほど気楽に動きまわれなかったわけで、あなたには心から感謝しています」(『著作集1』p.167)

 この「ベトナムからの手紙」は、『著作集12』の年譜から推定すれば、1965年6月下旬に書かれている。『思想の科学』(1965年9月号)に掲載されていることから、ローマのホテルから『思想の科学』編集部に直接郵送されたのだろう。アメリカでのセミナーを終えて帰国したのは、9月30日。その時すでに『ベトナムからの手紙』が掲載された雑誌『思想の科学』9月号は刊行されていた。

 ところで、編集者Hさんが誰であるか、私にとって20年来の謎としてあった。明らかになったのは、1990年に良行が大阪外国語大学フィリピン語専攻の学生らを前に行った講演を記録したDVDである。本稿の読者から情報を提供してもらった。その講演録のなかで良行自身が、共同通信サイゴン支局初代支局長・林雄一郎であったと語っている。このときの講演では、それまで口外してこなかった在フィリピンの反体制活動家たちの名前も語っている。人名を語ってももはや安全を害さないという判断をしたと思われる。

鶴見良行著作集1
『鶴見良行著作集1「出発」』
みすず書房・1999年



『同時代のこと』
吉野源三郎 著
岩波新書・1974年


『反権力の思想と行動』
鶴見良行 著
盛田書店・1970年
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■庄野護(しょうの・まもる)
1950年徳島生まれ。中央大学中退。学生時代よりアジア各地への放浪と定住を繰り返す。1980年代前半よりバングラデシュやネパールでNGO活動に従事。1989年から96年までODA、NGOボランティアとしてスリランカの都市開発事業に関わる。帰国後、四国学院大学非常勤講師を経て、日本福祉大学大学院博士課程単位取得。パプアニューギニア、ケニアでのJICA専門家を経て、ラオス国立大学教授として現地に2年間赴任。『スリランカ学の冒険』で第13回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞を受賞(初版)。『国際協力のフィールドワーク』(南船北馬舎)所収の論文「住民参加のスラム開発スリランカのケーススタディ」で財団法人国際協力推進協会の第19回国際協力学術奨励論文一席に入選。ほか著作として『パプアニューギニア断章』(南船北馬舎)、共著に『学び・未来・NGO NGOに携わるとは何か』(新評論)など。