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『日本旅行記』(1909)ムハンマド・アリー・タウフィーク著
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| ◆原題:アッ・リフラトゥ・ル・ヤーバーニーヤ(日本の旅) ◆翻訳:陰山晶平(南船北馬舎) ◆監修:シルクロードの絵本屋さん(えんかん舎) |
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| 著者のムハンマド・アリー・タウフィーク(1875-1954、以下アリー公と略す)はオスマン帝国時代のエジプト初代総督ムハンマド・アリー・パシャ(1769-1848)の玄孫にあたる。世界中を旅していたが、1909年(明治42)アリー公34歳の時、日本へやってくる。以下は、アリー公の著作『日本旅行記』アラビア語版を翻訳したもの。脚注による補足説明は訳者が用意した。
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【日光(続)】編
![]() 日光物産商会(明治時代後期) |
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| 食事を終えて午後、有名な寺社に向かった。寺社の起源は徳川家の将軍たちの埋葬地である。その場所に、人々は寺社を創建したわけである。日本式建築のなかでももっとも豪華なものである。 そこにはもろもろの美しいものがあるが、その一つに驚くべき彫刻群がある。その素晴らしい出来栄えは見る者のこころを激しく揺さぶる。理解を超えて当惑してしまうほどだ。忘れずに必ず訪れること。その価値はある。書き手がどんなに誇張して書いたとしてもその真の値打ちを正しく描写することはできない。すなわち百聞は一見に如かずである。 それは見たところ一番いいロケーションにあり自然なかたちで建っている。渓谷にあって、清澄な水が流れている。鳥たちのさえずりが心に響いてくる。耳がその心地よさに喜んでいる。この寺社へ行くには川を越えなけばならない。この川は大谷川(だいやがわ)と呼ばれている。我々はこの川に架かっている橋を渡っていった。 その隣に別の橋が架かっている。聖なる橋(神橋=しんきょう)として知られるものだ。それは美しい形をしており、金色に塗り込められている。そしてそれは天皇専用のもの(1)で、天皇以外だれ一人として渡れない。 ここの寺社に埋葬されている有名な将軍たちの一人が家光である。キリスト教徒の日本への入国を禁じた人物である。貿易も禁じた。長崎での外国とのいかなる商品の輸入も許可しなかった。 そこにはオランダ人と中国人以外は行くことは出来なかった。彼(家光)は郷土への深い愛情と、外国からの侵略を防ぐことに注力したことで知られる。 この寺社に向かうには高い階段があり、かなりの踏み段を越えて進まなければならない。 到着してまず目にしたのは壮麗な門であった。それは美しい塗料で、金や銀を溶かして、塗り込められている。そこから中へ入ると、その内側は、一つの小さな村の中にいるように感じられほどのスペースがあった。我々はそこで大きな鐘と、銅鑼のある施設へ向かった。それぞれの寺社の隣には、神の馬と名付けられた神聖な馬(神馬・しんめ)のためにつくられた建物(厩舎)がある。 その馬は、一年を通して、神さま用に用意された、神さま専用の馬である。この場所でしか見られない。神事のとき以外はここから出てこないのだ。日本人のひとりの老婆が馬の世話に当てられている。彼女はわずかな量のトウモロコシや小麦を売っている。信仰に篤い人々が彼女からいくばくかを買ってこの神聖な馬に与えている。 すべての寺社の門とその壁は、究極の職人技でつくられており、完璧な大工の手になるものだ。これらの寺社には、いくつかの大きな鐘がある。教会の鐘のようなものだ。 そのうちの一つは、朝鮮の王からの贈り物(2)である。そしてまた一つは、オランダ国王からの贈り物(3)である。それぞれの寺社には岩でできた、日本や中国で見られるような風情の井戸(御供水井戸)がある。それらは聖なる新鮮な水で満たされている。寺社に入る前にはこの水で身を清める。 寺社の内部の部屋の壁(襖?)はそれらすべてが見事なつくりの金箔で仕上げられており、それはそれは素晴らしい雰囲気がある。天井は金色の絵と彫刻で荘厳されている。中国や日本の有名な職人たちの手による最高に素晴らしい作品である。その豪華さに心がいっぱいになる。 寺社に入る前には靴を脱がなければならない。というのは彼らの信仰においてそこは神聖で清らかな場所であるからだ。靴のまま入ることは正しくない。そしていくばくかのお金を神官たちに提供しなければならない。 最初の寺社を見て回ったあと、彫像(十二支の彫刻)の家を訪れようと向かった。中国風の建物である。いわば5つの部屋が上に向かって幾層にも重なり合ったかたちをしている(=五重塔)。一つ一つの階層の前部に木でできた外につきだしている部分があり、そこには欄干がめぐらせてある。ちょうど灯台の回りにある欄干と似ている。 その後、別の4つの寺社を訪れた。それらも見事なたたずまいで素晴らしいつくりになっていることがわかる。それらは特別なデザインでそれぞれつくられている。おのおのが違っている。 我々はそれらの寺社がもつ一つ一つに目を凝らしてみることはなかったが、そこに留まったわずかな時間(それは3時間30分であったが)で建物の素晴らしさ、完成度の高さに驚いた。 その寺社がそなえているものもまた、賞賛と栄誉が授けられるべき見事な遺産の一つである。いかなる人であっても、これらの寺社がそなえている美術品や工芸品を金銭的価値で評価しようとしてもそれは不可能であろう。同様にもしそれらの豪華さや、素晴らしい工芸品のことを描写しようとしても、それも不可能であろう。たとえ長々と賞賛を繰り返したところで。すなわち百聞は一見に如かずである。 こうしたことはだれもが認めることで、論や証拠は必要ない。日本人たちのあいだで伝わる諺を信じるだろう。それはかれらの格言で、日光を訪れる前に豪華であるとか、華麗であるとかの言い回しは口にするな(「日光見ずして結構と言うなかれ」(4))、というものである。 これらの寺社はかつて仏教に属していた。45年前に神道という宗教に属するようになった。現在の天皇の宗教である。我々にたくさんのご利益をもたらすというこれらの寺社を見て回った後ホテルに戻った。 戻る途中に天皇の宮殿(5)を通過した。その日の残りは休養とし、全員がゆっくりできた。 |
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(1)天皇専用のもの|神橋。日光の社寺の玄関口にあたる場所にある、神聖な橋として知られる。アリー公は「金色」と記述しているが、朱塗りのものである。記憶間違いであろう。橋の通行は江戸時代、神事や将軍の参拝、勅使などに限られていた。明治以降は天皇に限定されていた。1879年(明治12)元アメリカ大統領ユリシーズ・グラントが国賓として来日し、日光を訪れた。そのとき特別にこの橋を渡ることを許可されたが、畏れ多いと固持したエピソードが伝わる。現在は通行料300円でだれでも歩いて渡れる。![]() ↑神橋。1904年(明治37)竣工のものではあるが、部材は修理交換され竣工当時のままではない。 (2)朝鮮の王からの贈り物|朝鮮鐘(ちょうせんしょう・ちょうせんがね)として知られる。1643年第4代将軍家綱(幼名・竹千代)の誕生を祝って朝鮮通信使により奉献された鐘。 (3)オランダ国王からの贈り物|オランダ鐘とも呼ばれるが、正しくは灯籠(燭台)である。1643年オランダ国王よりオランダ商館を通じて奉納されたシャンデリア型の灯籠(回転灯籠)。 (4)日光見ずして結構と言うなかれ|日光を語る際、来日外国人の中でも有名なフレーズとして知られていた。マレー社の『A Handbook Travellers in Japan』(1901)の「日光案内」にも冒頭に以下の記述がある。A popular Japanese proverb says, “Do not use the word magnificent till you have seen Nikko.” (5)天皇の宮殿|日光田母沢(たもざわ)御用邸のこと。1899年(明治32)、病弱であった嘉仁親王(のちの大正天皇)の夏の静養所として設けられた。 |
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| 寺社を訪れた日の翌日、宗教的な祭りの始まりであった。夜が明けると同時に銅鑼(duff=タンバリン)を人々は打ち鳴らし始めた。力強い太鼓の激しい音も聞こえる。人々に向けてその日が祭りの始まりであることを知らせているのだ。 午後、我々は寺社の近くへ出向いた。男の子たちが早足に歩いて、寺社の階段を上っているのが見えた。すると階段を下りてきて、また階段のほうへ戻っていく。またそこから下りてきて……、彼らはこうしたことを何度も何度も、とても素早くかつ元気よく、楽しそうに喜びいっぱいに繰り返す。 この激しい混雑と太鼓と群衆の渦中で2時間待った頃、中国風の宗教寺院のかたちをした金でできた二つの箱状のもの(訳註=神輿のことであろう)が下りてきた。そこにはそれぞれ寺社の建立者の来歴が記されているという。そして自筆の署名と銘文が収められている。それぞれ男たちによって運ばれていた。一つを75人の男たちが担いでいる。疲労が激しくなり、汗が噴き出すたびに、彼らに向けて大きな扇で風を送っている人がいる。 そばを神輿が通るとき、人々は願を掛けた言い回しで叫び声をあげる。それは祈願の一種だと私は思った。何人かが腰を折ってお辞儀をしている。また数人はひれ伏している。ほかにも同様に、賛美と畏敬といった類のふるまいが見られる。 この祭りは二つの神輿を一つの寺社から別の寺社へ移してそこで夜を過ごすためのものである。それから大祭の二日目に二つの神輿を戻す。その日は、天気は穏やかでなかった。雨量がふえて、雲は厚くなり、湿気が激しい。 祭りはその日10時から始まる旨、知らされた。その後、開始は11時になるだろうとのこと。祭りの見物にホテルを出たとき、道は激しく混雑していた。遊戯店の店主(訳註=テキ屋)は楽しそうに持ってきたおもちゃを売っている。それらは子ども向けの、至って簡単なもので、価格においても子どもたちがほしがるような値段のものに限られている。なかには赤い魚(金魚)を売っている人がいたり、亀を売っている人がいたり、また別のものは衰弱した木(盆栽?)を売っている。彼らの信仰において神聖とされる諸々を売っている。これらの人以外にも多くの人たちがさまざまな食べ物を売っている。群衆のうちのかなりの数の人たちがこうしたテキ屋からものを買っていた。 寺社の近くに到着した時、人びとは準備のまっただ中で忙しくしているところだった。訪れる人たちのために大きなテントを運んでいた。そこにはたくさんの敷物と豪華な椅子が用意されていた。我々が席に着くと、我々の前に徳川家と関係のある小さな東屋が見えた。(東屋の)彼らは、これらの寺社を建立した将軍たちの子孫である。彼らは日本で最高位の名声を博している。彼ら一族の長老は目下のところ日本の国会の議長(6)である。 太鼓の音が続き、その音が大きくなってきて、混雑もいよいよ激しくなってきた。我々はこの状況に居続けている。12時になったが、特別何も見るものはなかったし、何も起こらなかった。その理由を尋ねたところ、彼らのもとにある「木」が原因で遅れているという。「神の木」と呼んでいるもので、それを150人の男たちが運ぶのだ。群衆のそばをその神木が通ると、その葉っぱでつくられたものや、小さな枝の先端を手に入れようと人々は必死だ。それで吉兆を占い、そして幸せを願うのである。 そして我々のもとに近づいてきたとき、鐘が鳴り始めた。こうした鐘は小さなものから大きなものまで多数ある。最も大きなものは高さ3メートルに達する。そしてその鐘楼は3メートル半にも及ぶ。この鐘の鳴らし方は、鐘をつるして、そのそばに長いロープを同様につるす。その真ん中には木で出来た心棒がつけてある。男がこのロープを掴んで彼自身の体をもって揺らす。その振動で心棒が鐘を叩いて鐘が鳴る仕組みだ。 午後、徳川家の長老が来賓として、式典側が用意した場所に向かった。高位の神官が3人、彼に付き添った。 式典(7)は次のような順番で始まった。 まず最初に、男たちが神聖な椅子(駕籠)(8)を運ぶ。そのあとに別の者たちが神聖な木を運ぶ。彼らの数は150人。全員白い衣装を身につけている。それから100人の護衛の者が槍を担いで続く。彼らのあとには、赤い顔と長い鼻で知られる人工的なお面(天狗)をつけた男、そしてライオン(獅子)の皮をかぶった3人の男たちが獣のようなそれらしい歩き方で歩いている。そして別の3人が雌ライオン(獅子)の皮をかぶっている。これまたそれらしい歩き方をしている。別の3人が笛を吹いている。さらに8人の女たちが神聖な舞いを踊っている。それは寺社で演じられるものだ。それから馬に乗った2人の神官、それぞれの周りに4人の従者がついている。彼らの後には3頭の神聖な馬(神馬)が続く。そして約50人の男たちが古式の銃を担いで進む。別の50人が矢をつがえた弓を担いでいる。さらに50人が刀を帯びている。そして100人の男たちが甲冑姿で進むと、次は12人の男の子たちが花を持って進む。それから50人の男の子たちがお面をつけている。4人の神官が大きな聖なる扇を運んでいる。位の高い神官は神聖な刀を帯びて馬に乗って進む。その後ろには別の神官がこれまた聖なる刀を帯びている。55人の白装束の男たちが運んでいる、旗のついた11本の槍と、駕籠の上につくられた旗が続く。その後、同様に白装束の3人の男たちが大きな銅鑼を担いでいる。それから鐘を担いでいる男、30人の少年がサルのお面とそれらしき衣装で続く。そして10人の男たちが10匹のサルを連れている。続いて9人の神官が歩いている。そして下位の神官たち50人が続く。次に12人の楽隊がやって来る。そして10人の鷹匠たち。それから神聖な駕籠を運ぶために木で作られた2つの台座がやって来る。聖なる文書を運ぶ神官や、位の高い別の神官が馬に乗って進む。その後ろにも別の神官が続く。最高位の神官もまた馬に乗って進む。彼の後ろには50人の寺社の使用人が歩いている。白装束の50人の男たちが運ぶ最も神聖な駕籠が続く。そして40人の警備兵、その後に鐘と銅鑼が続く。それから二つの腰掛けを二人の男がそれぞれ運んでいる。また別の神官が神聖な文書を運ぶ。その後ろには20人の護衛兵、それから50人の男たちが運ぶ駕籠、そしてそれらとともにまた20人の護衛兵、彼らは鐘と銅鑼、腰掛けを持っている。3番目の神官が3番目の神聖な文書を運ぶ。白装束の50人の男たちが3番目の駕籠を運んでいる。その後ろには神官。このグループの最後には3人の神官が馬に乗って通過する。 この祭りの最高のものは、参加者全員が、300年前の、古式豊かな格好の衣装であらわれたことである。たくさんの優美な旗や、美しい皇室の旗も素晴らしかった。 祭りが終わって昼食を摂るためにホテルに向かった。ホテルの支配人が工芸館を訪れるよう勧めた。そこはその土地の施設の一つで、我々外国人が欲しがるものがあり、またそこの職人や商人たちを支援することにもなる。異存はない。そこ(9)に向かうことにした。それは素晴らしい外観をもったところで見事に整理されていることがわかった。そこにある商品が、他で売られているものと比較すると、すべてが良質なものでかつ安い値段で売られている。そしてすべてが正札販売となっており、押し売りもなく、値引きもないのだ。 |
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(6)国会の議長|徳川家達(いえさと、1863-1940)。徳川慶喜の謹慎後(1868)、第16代当主。当時貴族院議長を務めていた。
(7)式典|例大祭で実施される「百物揃千人武者行列(ひゃくものぞろえせんにんむしゃぎょうれつ)」のこと。正式には「神輿渡御祭(しんよとぎょさい)」と呼ばれる。 (8)椅子(駕籠)|原文はkursīとあり、辞書的には「椅子」の意。椅子を運ぶという表現がしっくりこず、「駕籠」と訳した。前出マレー社のガイドブックには「Means of Conveyance(運送手段)」の一つに“Chairs”と紹介されたものがあり、意味するところは“kagos”(駕籠)と記述されている。それに準拠した。 (9)そこ|おそらく日光物産商会のことであろう。明治時代後期、金谷ホテルの土産物店として創業。伝統工芸品の木工細工や漆器などを製造販売していた。本稿のタイトル下の写真が当時の日光物産商会の外観。現在はそば処、カフェ&レストラン、ベーカリーなどが営業している。建物は国の登録有形文化財に指定されている。 |
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| 日本上陸〜敦賀 →敦賀〜米原〜横浜 →横浜〜東京 →東京 →東京〜横浜〜東京 →東京 →東京(続) →日光 →日光(続) ・神戸編 | 広島(宮島)【前編】・広島(宮島)【後編】 |
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