ムハンマド・アリー公『日本紀行』
『日本旅行記』(1909)ムハンマド・アリー・タウフィーク著 

 ◆原題:アッ・リフラトゥ・ル・ヤーバーニーヤ(日本の旅)
 ◆翻訳:陰山晶平(南船北馬舎)
 ◆監修:シルクロードの絵本屋さん(えんかん舎)

 著者のムハンマド・アリー・タウフィーク(1875-1954、以下アリー公と略す)はオスマン帝国時代のエジプト初代総督ムハンマド・アリー・パシャ(1769-1848)の玄孫にあたる。世界中を旅していたが、1909年(明治42)アリー公34歳の時、日本へやってくる。以下は、アリー公の著作『日本旅行記』アラビア語版を翻訳したもの。脚注による補足説明は訳者が用意した。
【日光】編

神谷ホテル(1900年頃)
 日光に向かうことにした。そこは風光明媚な町で有名なところだ。素晴らしい神社がある。またそうした神社が有しているものは、大いに価値あるもので見落とせないものの一つだ。6月初旬にはそこで大規模な式典(1)があった。
 私は東京から1時40分発の各駅に停車する普通列車でそこへ旅することにした。各駅停車に乗ることで沿線の風情を堪能できると思ったのだ。おかげで私の知識はずいぶんと深まった。5時間の距離を列車で過ごすことになり、8時15分過ぎにこの町に到着した。
 線路に沿って道があり、道は両側から背の高い巨大な木々に囲まれている。それらは杉の木(2)である。およそ300年の樹齢である。そのため道は清々しい空気に満ちている。これらの木々が陰をつくって、直射日光が差し込んでこない。この杉並木道の長さは15キロ(3)ある。
 駅に着くと、そこには男が引っ張るリキシャという車がおよそ200台待っていた。その一つに乗り込み、ホテルを目指した。長い通りを走った。通りの両側には店が並んでいる。そこにはこの町の特産品が売られている。それぞれの店の後ろにはその店の主人の家がある。たいていの日本人は商売人か職人である。この国の形態はスイスのそれ(4)と似ている。
 ホテル(5)は高い丘の上にあったので、その標高のあるところに着くまで、各リキシャにはもう一人別の男が加わって引っ張るのを手伝った。おかげで無事到着。ホテルは日本式の建物で木造だった。中庭もまた木でつくられていた。日よけのためにその周りにはパラソルがある。それは全く美しい配置で置かれている。
 このホテルの従業員は全員が女性であるようだ。彼女たちは何かを尋ねられたり、何かを頼まれたりするたびに、それがどんなことであっても、「イエス」と答える。つまり「はい」とか「かしこまりました」という意味だ。部屋に入ると、それはきわめて清潔で、必要な備品はすべてそろっていた。そして部屋には電灯が灯っていた(6)
 その後、食堂に向かった。そこは大きな広間であった。ヨーロッパタイプの、さまざまな小さなテーブルがあった。暇つぶしに彼らが配膳しているのを眺めていると、それぞれのテーブルの前にクリスタルガラスの器がおいてある。その中には水と緑色のもの(水草か?)、そして美しいかたちをした赤い魚が入っていた(=観賞用の金魚鉢のことか?)。
 食事は完璧だった。そしてこれら女性たちによるサービスもこの上なく良好だった。奇妙なことは、このホテルに宿泊する旅人は食事代に相当するものを支払うという条件(7)になっている。
 紙に書かれた食事メニューを見ると、どんな人であってもこのすべての食べ物を食べることなんてできないと思うだろう。しかしながら、ほんのわずかな量しか提供していないように思われる。注視しないと見えないくらいのものだ。ヨーロッパの習慣のように、欲しいもののなかから自分の手で自由に選び取ることはできない。

日光杉並木
(1)大規模な式典|渋沢栄一らを団長とする「渡米実業団」が、アメリカの富豪および実業団の一行を当時外国人観光客に人気の日光へ招待した。そこで催された様々なイベントのことと思われる。
(2)杉の木|原文はsanībarとあり、Ṣanūbarの誤記かと思う。しかしその意味は「松の木」。やはり日光といえば「杉並木」であるのでおそらく「松」も誤認であろう。アラビア語で「杉」はsharbīnである。
(3)15キロ|大沢=日光間の杉並街道16.5kmのことと思われる。エリザ・R・シドモア『シドモア日本紀行』(講談社学術文庫、2002)には「人力車隊は、それぞれ二人組となり縦一列で、一〇マイル(一六キロ)の杉並木を競争しながら走ります」という記述がある。この区間に加えて、小倉=今市間約13キロ、大桑=今市間約7キロ、以上合計が35.41キロとなって、1992年世界最長の並木道としてギネスが世界記録に認定した。
(4)スイスのそれ|スイスも日本と似て、商人であったり職人であったり、いわゆる商工業者が中心となったお国柄ではある。16-17世紀、フランスで宗教弾圧を受けたカルヴァン派のプロテスタント(ユグノー)はフランスからスイスへ大量に亡命した。ジュネーブは「プロテスタントのローマ」と称されるほどだった。ユグノーは金細工や時計職人など高度な技術を有していた者が多く、また優れた商工業者であったため金融・織物業が大きく発展した。逆にフランスは停滞してしまった。
(5)ホテル|毎度のことながら著者アリー公は固有名詞を記していない。標高のあるところという記述からして「金谷ホテル」ではないかと思われる。タイトル下の写真参照。日本で最初のリゾートホテルといわれている。1870年(明治3)、日光を訪れていた米国人ヘボン博士に自宅を宿として提供した金谷善一郎が、ヘボン博士のすすめもあって、のちに外国人旅行者向けに自宅を改造して宿泊施設「金谷カテッジイン(通称サムライハウス)」を開業する。そして1893年(明治26)善一郎は大谷川岸の高台に「金谷ホテル」を新たにオープンした。イザベラ・バード『日本奥地紀行』(平凡社、2000)に「日光 金谷家にて」という記述がある。1878年(明治11)6月15日の記録である。この時期は「カテッジイン」開業前のことでヘボン博士の紹介で金谷家から一室を提供してもらっている。
下の写真は「金谷カテッジイン」。現在は「金谷ホテル歴史館」として一般公開されている。

(6)電灯が灯っていた|金谷ホテルでは1908年(明治41)にドイツ・シーメンス社の自家用水力発電機が設置された。
(7)
食事代に相当するものを支払う条件|ホテル料金の設定が食事等すべて込みの一日いくらという固定料金になっていることを述べている。前出『シドモア日本紀行』には次のような記述がある。「日本の宿の一泊普通料金は五〇銭からの範囲ですが、日本人の場合は三〇銭程度で食事もすべて賄われます。ところで、外国から来た客は、気が利かず破壊的でだらしなく、あまりにもたくさんの異例な要求をするため、その料金は最高級の値段となり、その中には宿泊代、寝具類、あらゆる種類の茶、ライス、お湯が含まれるといった具合で、ほかのものすべて特別誂えです」(189頁)

 朝になって、この町の郊外を散策するためにリキシャをチャーターした。この町を取り囲んでいるいくつもの滝(8)を見学しようと思ったのだ。車夫たちは約50分ものあいだリキシャを引っ張り続けた。かれらは滝壺に到着したあとしか休憩を取らなかった。滝は高い山々から降ってきて、その低い滝壺へと落下しいく様子がよくみえた。その水の流れは澄み切っていて清々しい。
 20分後、ホテルに戻った。ホテルに到着すると、旅行客でごった返している時間帯であった。商売人や物売りたちが旅人たちのあとについてきて、自分たちの店を訪れるよう呼び込んでいる。自分たちの商品を買わせようとあの手この手を使って旅人たちを出し抜こうとしている。といって、この強欲な物売りたちからのがれて、この土地を歩き回ったりはできないし、ホテルでじっとして休むこともできない。そうした事情が彼らを強気にさせているのだ。
 自分の店に連れ込み、その商品の素晴らしさを自慢げにセールスする。どんな値段のものであろうと何かを買わないかぎりかれら物売りたちは離れてくれない。
 食事のためにホテルに戻った時、われわれの後ろに幾人かが付きまとっていた。食堂に入るまで彼らはわれわれのことをあきらめなかったほどだ。だれ一人としてこの奇妙な押し売りと、この驚くべき状況を抑えることはできない。宿屋の主人たち自身がこの土地での商売の売上や利益のために手助けしているのだということがのちにわかった。各ホテルがそこに特別な場所を用意して、そしてこの町のたくさんの種類の商品を並べている。この地域にある店々に応じてそのスペース(売り場)が割りふられているのだ(9)
(8)|日光には「日光四十八滝」と呼ばれるほど滝が多い。「日光三名瀑」として、華厳の滝、霧降の滝、裏見の滝があり、「奥日光三名瀑」として、華厳の滝、竜頭の滝、湯滝が名高い。滝巡りは日光観光の定番コース。
(9)割りふられているのだ。|当時、物売りの商人たちがロビーや廊下、客室にまで出入りして、宿泊客から「しつこい」「落ち着かない」などの苦情が多く、そのためホテル側がロビーの一角や敷地内に商人たちの出張所(特設ブース)を設けるようになった。

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