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『日本旅行記』宮島(広島)【後編】(1909)ムハンマド・アリー・タウフィーク著
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宮島(厳島神社)
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| ◆原題:アッ・リフラトゥ・ル・ヤーバーニーヤ(日本の旅) ◆翻訳:陰山晶平(南船北馬舎) ◆監修:シルクロードの絵本屋さん(えんかん舎) ◆写真:public domain |
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| 著者のムハンマド・アリー・タウフィーク(1875-1954、以下アリー公と略す)は、オスマン帝国時代のエジプト初代総督ムハンマド・アリー・パシャ(1769-1848)の玄孫にあたる。世界中を旅していたが、1909年(明治42)アリー公34歳の時、日本へやってくる。以下は、アリー公の著作『日本旅行記』アラビア語版から「宮島(広島)」にまつわる部分を訳出したもの。脚注による補足説明は訳者が用意した。 「宮島(広島)・前編」はこちらへ。 「神戸編」はこちらへ。 |
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| 翌日、大気は穏やかで清々しく、空は晴れ渡っている。山(1)の頂上にある寺社を訪れるのに絶好の機会だと思った。この寺社は標高のいちばん高いところにあるといい、またそこに至るまでに2万段の石段(2)を乗り切らねばならないのだそうだ。これはけっこう困難な道であり、かなり疲労するであろうことが予想された。しかし参拝客を担いで運んでくれる男たちがいるという。竹で作られた椅子(駕籠)に座ったままで頂上まで送り届けてくれるらしい。これは助かる。利用することにした。駕籠は4人の男たちが運ぶのだが、片側にそれぞれ2人がつく。 最初は簡単そうに見えた。しかしながら実際のところは、大いに疲れるものでけっこう厄介であった。特に石段は真っ直ぐでなく、整っていない。曲がって傾いており、なんとなれ、それは岩そのものに刻み込まれているのだ。そのため、これらの担ぎ手たちはひどく疲れるようで、5分ごとに休憩を取る。さらに道中は、山の崖っぷちに身をさらすようなところもあったりするので、恐怖を覚える。 2時間45分後、我々はその寺社に到着した。ここからの景色は、雲が太陽の光を覆っていたけれど、それでもまったくもって美しいものだった。もし太陽が輝いていたならば、これ以上にずっと美しかったことだろう。 我々が到着するや、僧侶たちが我々のもとに帳面を持って、それぞれの名前をそこに記すよう求めた。それに対してはお金を取った。そこに20分ほど滞在してその寺社を見物した。そのあいだ駕籠かきたちは休憩をとった。 |
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←当時の駕籠 | |||
(1)山|宮島の中央部にある弥山(標高535m)のこと。弘法大師空海が開基したとされ、山中には多くの堂宇が点在する。 (2)2万段の石段|石段の多さに言及していることからすると、大聖院から仁王門にかけての登山道のことと思われる。観光ガイドなどで、いわゆる「大聖院コース」と紹介されているコース。ただ「2万段」ではなく、実際は2000段である。 |
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| 下山の方が厄介できつかった。ひどく疲れた。下り坂のため、危険がいっぱいで、5分ごとに小さな四阿(あずまや)が置かれている。途中、休憩所があった。そこには女性がお茶のような飲み物を売っていた。そこで少し休んだ。その間、駕籠かきたちはそこにある寺社にお参りに向かった。その寺社には実に大きな釜(1)があった。人間の手でつくったものとしては、驚くべきものの一つだ。 休憩後、われわれは駕籠に乗り込んでこの石段が尽きるところまで進んだ。アッラーのおかげでぶじ戻ってきた。ホテルに到着。ホテルの支配人と話した。彼ら駕籠かきたちの様子や、彼らの無教養ぶりについて。ただ、駕籠かきが彼らの生業ではないということである。彼らの仕事は漁師に他ならないのだそうだ。必要に迫られてやっており、こうして旅人から現金を得ることで生活のたしにしているのだそうだ。 また支配人が言うところ、神官は一定の現金(寄進)を個人から受け取ると、その人のためにあの大きな神社(厳島神社)のそばにある、海岸沿いに置かれた例の石灯籠のすべてに火を灯してくれる(2)という。それは見ておこうと決めた。しかし結局、激しい雨が降ってきたので、彼らに支払ってその光景をみるまで、ここに残ることはできなかった。 2日目の午後、出立することにした。午後12時にサンパン(3)と呼ばれる小さな船を借りた。それは日本のボートで、平らな甲板をしており、その前部には中国の葦(竹)でつくられた小さな小屋がある。それはほんのわずかな高さで、そこに座る人は立ち上がることができないので、身をかがめて座る。雨が激しく降って、風は弱い。そのため、船員は帆を広げることが出来なかった。 30分後、海岸に着いた。すぐのところに鉄道の駅(宮島駅)があり、急行列車が到着するまでのあいだ、そこにとどまった。そして下関をめざした。 |
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| 宮島の石灯籠→ | ![]() |
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| (1)大きな釜|聖火堂にある鋳物の大茶釜のこと。この釜がかけられている火は、806年弘法大師空海が法会を営んだ時に焚かれた護摩の火が以来1200年間燃えつづけているとされる。1901年に操業した八幡製鉄所の溶鉱炉の種火となった。また広島平和公園の「平和の灯火」もここから採火された。 (2)火を灯してくれる|米国のジャーナリストであり、地理学者でもあったエリザ・シドモアは日清戦争の平壌陥落(1894)を祝って石灯籠に火を灯すように神社にかけあった。灯明は、深夜の満潮時であることが古来からのしきたりであったが、日暮れともに開始するように頼み込み、その許可を得る。その経緯は、ニューヨークの出版社、センチュリー社発行の『センチュリー』(1896年8月号)に「不朽の島」というタイトルで宮島をレポートしたシドモアの記事に描かれている。以下は孫引き。「やがて入り江全体が端から端まで明るく輝く光の中に浮かび上がった。神社がまるで大掛かりな仕掛け花火であった。それぞれの神社が、宝石のピラミッドのごとく奉納されたろうそくで輝く太陽の女神の洞窟だった。その素晴らしい光景は一時間以上も続き、村人たちは岸辺に群がったり、神社の回廊をぞろぞろ進んだり、小舟で漂ったりしながら、この見事な光景を見ていた」(県立広島大学宮島学センター編『宮島学』渓水社、2014) (3)サンパン|「三板」とも。英語ではsampan。平底の小型木造船。 |
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| ・広島(宮島)編の【前編】はこちらです。 ・神戸編はこちらです。 |
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