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『日本旅行記』(1909)ムハンマド・アリー・タウフィーク著
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| ◆原題:アッ・リフラトゥ・ル・ヤーバーニーヤ(日本の旅) ◆翻訳:陰山晶平(南船北馬舎) ◆監修:シルクロードの絵本屋さん(えんかん舎) |
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| 著者のムハンマド・アリー・タウフィーク(1875-1954、以下アリー公と略す)はオスマン帝国時代のエジプト初代総督ムハンマド・アリー・パシャ(1769-1848)の玄孫にあたる。世界中を旅していたが、1909年(明治42)アリー公34歳の時、日本へやってくる。以下は、アリー公の著作『日本旅行記』アラビア語版を翻訳したもの。脚注による補足説明は訳者が用意した。
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【東京】編
![]() 隅田川 |
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| 1月のはじめからその週末まで人びとは自分たちの住まいを、国旗や、青々とした木の枝で飾り付ける(=門松・しめ飾り)。その後10日間は相撲(初場所)(1)に没頭する。2月と3月は桃の花がその時期を迎え、3月の終わりには、小さな女の子たちのお祭り(桃の節句・雛祭り)(2)だ。家族や親族たちはこの時期娘たちに人形をプレゼントする。それはちょうどエジプトでお馴染みの花嫁人形(3)に似ている。4月には桃の花(4)がその盛りとなる季節である。その後およそ1週間、桜の花祭りが続く。4月の終わりには温泉祭り(5)、そして5月には男の子のお祭り(端午の節句)だ(6)。このお祭りでは男児に武具と小さな旗(名前旗)をプレゼントする。6月は菖蒲の花祭りとなる。 7月と8月はある種の川魚(隅田川の夏の風物詩であるマハゼ?=訳者註)の漁で忙しくしている。8月の終わりには、jaljān(7)の木の花祭り、隅田川の祭りがある。川開き(8)だ。8月と9月には宗教的なお祭りがたくさんある。11月の上旬には菊祭り、12月に入るとさまざまな宗教行事が行なわれ、人々は来たる新年祭に向けての準備で忙しくなる。 これらすべての祭りは人々のあいだで大切にされており、こうしたことで住民のあいだの絆が育まれ、お互いが親しくなって気心がしれてくる。結果、だらしなく遊興三昧にふけったり、ふしだらな悪事にかまけたりするようなことにならなくなるのだ。 |
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(1)初場所|当時は15日制ではなく10日間程度で、興業の状況によって終了日が前後した。
(2)桃の節句・雛祭り|旧暦でいえば4月中旬。そのころ桃の花は満開であるが、新暦での3月3日では桃の花はまだ咲かない。そのため花農家は「室(むろ)」で桃の枝を温め開花を早める工夫をしていた。「桃」のアラビア語表記はbarqūqで、原義は「スモモ、プラム、アプリコット」。 (3)お馴染みの花嫁人形|聖ムハンマドの生誕祭の時期に屋台などで売られる、花嫁人形('arūsah al-mawlid)の形をした砂糖菓子のこと。人形はイスラームの文脈では不適切のように思えるが、この祭りが始まったのはファーティマ朝のことらしい。ファーティマ朝(909-1171)がシーア派(イスマイール派)の王朝であったことからすれば「人形」という偶像の存在もありかなとは思える。 (4)桃の花|こちらの「桃」のアラビア語はkhawkh。原義は「桃、プラム、スモモ」。 (5)温泉祭り|隅田川西側にある浅草公園の周辺には有名な銭湯や温泉(たとえば「天然温泉十六番」など)が密集。4月の桜の時期にはこのあたりはお祭り騒ぎとなった。お参りの帰りに風呂に入るのが江戸・明治の定番コースであった。 (6)端午の節句|「こどもの日」。別名「菖蒲の節句」の「菖蒲」を「尚武」にかけて男児の健やかな成長を願ったといわれている。ところで世界で初めて「子どもの日」を定めたのはトルコらしい。建国の父ケマル・アタチュルクが4月23日を「国民主権と子どもの日」とした。 (7)jaljān|辞書によれば「胡麻の木」となる。たしかに開花は夏であるようだが、その花祭りというのは聞いたことがない。 (8)川開き|両国川開きのことだろう。八代将軍徳川吉宗が慰霊と悪疫退治(コレラ)を祈願して「水神祭」を執り行い、花火を打ち上げたことがその始まり。ここでは「川開き」を'īdru fayadānと表記している。直訳は「洪水祭り」。古代よりエジプトではナイル川の増水の開始を祝う祭りがあった。「夏、ナイル川が増水するとフスタートの大水門が開かれ、水はカイロの運河を満たして遊覧船が繰り出し、増水祭りが行われる」(牟田口義郎『カイロ』文春文庫、1999)。アリー公もナイル川の「増水(洪水)祭」からの連想で「川開き」を'īdru fayadānと表記したのかもしれない。 |
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東京には「サラーム倶楽部(協会)」(9)と呼ばれる団体がある。それは皇族方やこの国の名士たちによって運営されている。また天皇の庇護のもとにある。そこには様々なメンバーが所属していて、四つのグループに分かれる。 第一のグループ:名誉会員。日本で最も高貴な一族である皇族方。外国の大使たちもこのグループ。 第二のグループ:毎年10ポンド以上の金額を支払う会員。継続会員(維持会員)である。 第三のグループ:月ごとに半ポンドを支払うメンバーである。特に旅行者たちや、丸1年だけ会員を希望する人たちである。 第四のグループ:この協会で働いている人たち。この協会で働くことは名誉なことなのだ。 最重要なこと:この国日本へやって来る様々な旅人たちにとって必要なことのすべてに便宜を図ってくれる。何かを手に入れたいとか、何かを調べたいとか、そう思った人それぞれに対して必要なことのすべてを手伝ってくれるのだ。また協会の仕事の一つに、価値ある情報を網羅した週替わりの広報誌を発行している。そうした諸々にアクセスするのを助けてくれるのだ。 |
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(9)サラーム倶楽部|サラーム(平安)倶楽部とは何なのか不明でがあるが、「東京倶楽部」ではないかと思う。明治天皇から15000円の御下賜を受けて、1884年(明治17)に井上馨、松方正義、伊藤博文らが中心となって設立。特別会員として皇族、名誉会員としては、日本駐在の外国公使や、日本滞在中の外国貴紳、外国から帰国中の日本公使など。通常会員は「品行方正にして紳士の資格ある者」ということであったらしいが、入会に当たっては厳格な審査が行われた。倶楽部は「内外人の融和交際機関」であることを目的とし、倶楽部内の使用言語は英語に限られた。「融和交際」の意から「サラーム」という単語が当てられたのかと推測する。のちに昭和の話であるが、三島由紀夫はその作品『宴のあと』でそのモデルとなった元外務大臣に訴えられ、そうした一件で入会を断念したと伝わる(参考=佐藤朝泰『日本のロイヤルファミリー』立風書房、1990)。
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横浜に行ってそれから東京に戻ってきた夜、ホテルで大きな宴会があった。新聞社の社主や学界や政界の新聞のオーナーたちが集まっている。そこにはタイムズ紙の編集者や、多くの政治家、有名な作家たちもいた。その一団のなかにムッシュ・ブルナフスキーがいた。現在彼はロシア大使の代理として日本にいる。私は彼をずいぶん前から知っていた。というのは彼は在エジプトのロシア大使館の書記であった。 翌日、ホテルのボーイによると、クローマー卿(10)の書記であったミスター・ランボルド(11)がここ日本の大使館で現在参事官を務めているという。午後2時半にわれわれの都合がよければ会いたいということだった。私は3時まで彼を待ったが、彼は現れなかったので、私のほうから英国大使館に向かった。 英国大使は、かつてエジプト駐留の英国軍将校であったし、エルドン・ゴースト卿(12)の友人でもあった。彼(エルドン・ゴースト)が私の到着を知らせる手紙(13)を書いていたようだ。彼はあらゆる面において私の希望をかなえるよう尽力してくれていた。 大使館に入ると門番は日本人のようにお辞儀をした。大使館のつくりは大きな庭園内に立派な二つの建物で出来ていた。そこにはたくさんの美しい花々や多種多様な形や色をしたバラの花が咲き乱れていた。門番は、馬車の馭者に大きな第二番目の建物のほうへ向かうよう合図した。そこは大使のプライベートな家である。 到着して大使(14)について尋ねたところ、召使によると大使は休暇をとって現在はヨーロッパで、東京にはいないらしい。ミスター・ランボルドについて尋ねると彼はもう一つのほうの家に住んでいるとのこと。ということで我々はそこに向かった、ところが、彼はわれわれに会うためにホテルに向かったと告げられた。私がそちらに向かうことを電話で告げると、彼は自分があらわれるまでそこに数分留まってくれるように私に求めた。 2分後彼は我々の前に現れた。感激的な出会いだった。我々の要望に対してはいかようにでもサービスする準備はできていると彼は言った。というのは、エルドン・ゴースト卿がそのようにするよう手紙に書いてきていたのだ。しかしながら、我々がやって来るのはおそらく7月だろうと考えていたようだ。とまれ我々は4月に来たのだった。私は彼に大使に会えないことを残念に思う気持ちを伝えた。私が大使との会見を望んでいたことにランボルド氏は謝意を述べた。そして彼は私に大使夫人(エセル、1892-1941=訳者註)との面会を希望するかどうか尋ねた。私は旅装であるのでお会いする準備ができていない旨を伝えた。そのことは問題ないと彼は答えた。そして、もしあなたが夫人と会ってくれるなら彼女は喜ぶだろうと。私はそれに応えることにした。 再び大使の家に戻ったところ彼女はちょうど乗馬の準備をしているのが見えた。私が会見を願い出ると彼女は乗るのをやめた。そして彼女は私を待って、溢れんばかりの笑顔で我々と会ってくれた。素晴らしい出会いであった。彼女は大使の代理として我々に対して敬意と丁重な態度を示してくれた。高い教養と上流階級のマナーから導かれたものがそこにはあった。 そして彼女は日本で私が見学したいと考えているすべてについて尋ねた。訪れるべきあらゆるスポットを教えてくれた。私は、ランボルド氏が許可のいるようなところの許可はすべてとってくれていることがわかった。 その後、夫人に対してあたたかいおもてなしとお気遣いに謝意を述べた。 |
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![]() ホレース・ランボルド ![]() クロード・マクドナルド大使 |
![]() 英国大使館 (10)クローマー卿|初代クローマー伯爵イヴリン・ベアリングのこと。エジプトがイギリス軍に占領された後の1883年にエジプト総領事に就任。1907年の退任までエジプトを実質的に統治した。彼は中東の生活様式には全く関心を示さず独裁者として君臨した。「エジプト人を人間扱いしなかったから、彼はエジプト人の反英思想を、それとは知らずに育んでいた」(参考=牟田口義郎『カイロ』文春文庫、1999) (11)ミスター・ランボルド|ホレース・ランボルド(Sir Horace George Montagu Rumbold)。英国の外交官。1900年から1912年にかけて駐日英国公使・大使として東京に着任していたクロード・マクドナルド(Sir Claude Maxwell MacDonald)の部下(参事官)として1909年から1913年にかけて東京に赴任していた。この駐在期間から、これまで未確定であったアリー公の来日年が1906年ではなく1909年であることがはっきりした。前回の【東京】編「脚注(5)59歳」を参照。 (12)エルドン・ゴースト卿|1907年から1911年の期間、英国の駐エジプト総領事。前出クローマー卿の後任。 (13)手紙を書いていたようだ|エジプト総領事から在日英国大使館へ情報が確実に届いている。アリー公の動きはすべて英国のコントロール下にあったことがうかがえる。 (14)大使|(11)で述べたが、当時の英国大使はクロード・マクドナルド(東京在任1900-1912)。初代駐日公使のアーネスト・サトウ(東京在任1895-1900)の後任。1900年義和団の乱が勃発したおり、マクドナルドは北京駐在公使として赴任していた。各国の大使や領事たちが北京に閉じこめられて55日間の攻防戦となった。そのさい元軍人であった経歴を生かしてマクドナルドは日本公使館の駐在武官柴五郎中佐と協力関係を築き、柴中佐を事実上の指揮官に抜擢して難局を切り抜けた。柴が率いた日本陸軍が各国の軍隊に比較して最も練度が高く統制がとれていたことをマクドナルドが高く評価していたゆえのことであった。マクドナルドの日本軍へのこの高い評価がのちに日英同盟へと導いていく。マクドナルドはその後、北京から東京へ赴任して駐日公使に就任。日露戦争後、駐日公使館から大使館に格上げされ、マクドナルドはそのまま初代駐日大使となった。なお55日間の攻防戦は『北京の55日』(ニコラス・レイ監督、1963)という作品で映画化されている。柴五郎役は伊丹十三。しかし内容は、アメリカ軍の少佐が大活躍するという筋立てになっており史実に基づいていない。 |
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