鶴見良行私論第2部「炉辺追憶」庄野護

 ◎アヘンの耳(5)

『マングローブの沼地で』(朝日新聞社、1984)の調査研究で、鶴見良行の「アヘン」へのまなざしは、マレー半島から東南アジア島嶼部に向かって広がる。そして、フィリピンのスルーでの奴隷交易にアヘンが決済通貨として用いられていた事実を発見する(『著作集7「マングローブ」』p.94)。
 香料の生産地から奴隷が輸出されたのは、アヘンとの交換を求めるためだったのか? 奴隷を求めるためにアヘンが持ち込まれたのか? 良行は、言及していない。しかし、その交易に華人商人が介在したことには言及している。アヘン交易のあるところ、華人商人がいたのだ。

 アヘン交易の主導権はイギリス人外交官とイギリス人商人が握っていた。「モーゼス総領事」「商人デント」「ジャーディン・マシーセン商会」(前掲書、p.172)など、19世紀にアヘン交易に従事していた外交官、商人、企業の固有名詞も明らかになっている。その時代、アヘン交易は合法であった。いまも彼らの子孫はイギリスで貴族を続けているらしい。19世紀には合法だった商行為が、20世紀には犯罪となる。「公害」でも同じことがいえる。
 東南アジア島嶼部の華人コロニーでは、「アヘン窟や淫売宿、賭場、質屋が軒をつらねていたにちがいない」(前掲書、p.239)。アヘンの交易と消費システムを維持することでイギリスの利益が保たれていた。

 最初の問題意識として、良行は「なぜ華人だけがアヘン吸引者だったか」と問うた。アヘンの交易と消費を社会システムとして構築し維持できたのが、華人だということだ。他の民族社会では、より小さな規模の交易・消費システムしか築くことができず、利益にならなかったのではないか。

 香料貿易の時代、香料の他にどのような交易商品があったのか。
 それを詳しく知ることができる物産表が良行によって作成されている。「マルク圏の交易物産:その時代推移」(『海道の社会史』p.132、朝日新聞社、1987)である。
 図表によると、文献のなかでアヘンが域外からの交易品として登場するのは、T・フォレストの記録(1775)が最初である。マルク圏(モルッカ諸島)を中心とするインドとの東西交易と中国との南北交易の微妙なバランスに変化が起きはじめる時期だ。交易の主導権がオランダからイギリスに変化したことの反映である。

 図表では交易品は以下の4種類に分類されている。
(a)地域の特産品で、住民が利用していたものが域外へ輸出されるようになった物産。オウム、サゴヤシ、船など。
(b)地域の特産品であるが、現地では利用されず、外部の需要に応えて輸出されるようになった物産。クローブ、ナツメグ、極楽鳥、ホシナマコ、ツバメノス、シロチョウガイ、カメノコウなど。利益の中心だったマルク圏の特産品といえる。
(c)地域の生産物でなく輸入されたもの。インド織物、中国陶器、ドラ、花器など。
(d)表にあらわれないもの。綿糸、麻布生産技術。

 マルク圏(モルッカ諸島)の島々が外部からの需要に応じて特産品の生産を伸ばしながら、全量を輸出して圏内では消費していないことに良行は注目した。初期の香料、つづく時代のホシナマコ、ツバメノス、シロチョウガイ、フカノヒレなどである。域内交易と域外交易が分けられていたならば、それぞれの物産集散地として2種類の「市」があったはずだ。鶴見説である。ウォーレスなどの部外者は域外交易の「大きな市」にしか立ち寄らなかった可能性があるとして、自ら作成した図表の限界をも示唆している。しかし、そこに立ち止まらず、想像力を広げてあれこれと書き連ねている箇所が、読者には面白い(『著作集8「海の道」』p.85-98)。

 良行の作成した図表では、A・ウォーレス(1857)からの分類が最も詳細である。ウォーレス以前の3人の著作(汪大淵1350、トメ・ピレス1520、T・フォレスト1775)から提示された物産は2箇所の港の交易品だ。いっぽうウォーレスの文献には、4島(モルッカ、セラム、ゴロン島、アル・カイ島)の交易品の記録が残っていた。ウォーレスが最も細かく歩いて記録したことの証左でもある。
 ウォーレスのその記録『マレー諸島』は、この地域を旅した8年間(1854−62)の日記を整理したものだ。良行の「フィールドノート」に少なくない影響を与えた文献でもある。ウォーレスの旅程は、現代の旅人にも影響を与え、多くが南スラウェシからアンボンを経てアル島へいたる道筋を選ぶという(前掲書、p.83)。

 文献からの文章を引用することの少ない良行が、ウォーレスの著作から次の部分を引用している。アヘン吸引者が記録されている部分である。
「約ひと月も滞在したゴロン島の住民は、すべて交易商人だった。毎年かれらは、タニンバル、カイ、アル、さらにワイゲオ、ミソールなどニューギニア西北岸へ航行する。ティドール、テルナテ、バンダ、アンボンナドへも行く。……ゴロン島民は、ホシナマコ、薬用のムソイ樹皮、野生のナツメグ、カメノコウをセイラムラウトやアルでブギス商人に売って暮らしている。彼らは怠惰な住民であり、アヘン吸引にふけっている」(前掲書、p.104)

 ゴロン島はインドネシア現代史には登場しない島で、ジャカルタの知識人にとってはバリ島より東は「蛮地」に等しい。ラッフルズだけが「アメリカ船が来て、ホシナマコを交易」する島と記録している。ラッフルズの記録にゴロン島を発見したのは、良行である。1988年にヌサンタラ計画でこの海域を航海した良行らは、ゴロン島への寄港を計画していた。しかし、「船長がコンパスを読み違え、そこを素通りして船はバンダネイラ諸島についてしまった」「ゴロンに立ち寄りたいと考えたのは、私のやや異常な好奇心だけでなく、史観の問題とかかわりがある」(『著作集9「ナマコ」』、p.162)
 植民著主義者や国家が見離した土地で重要な交換(交易)が行われていた。
「西洋が見落とした土地は全地球にずいぶんとあるのである」(前掲書、p.162)。

鶴見良行『マングローブの沼地で』
『マングローブの沼地で』
鶴見良行 著
朝日新聞社・1984年

鶴見良行『海道の社会史』
『海道の社会史』
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東南アジア多島海の人びと-
鶴見良行 著
朝日新聞社・1987年

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